「岩を土台として」 マタイによる福音書7章24節~29節

イエスは権威ある者として「お教え」になられた、そのことを今日、わたしたちに与えられた聖書は語っています。

わたしたちの救い主イエス・キリストは、「お教え」になられたのです。

何もお語りにならなかったのでも、また、何もお伝えにならなかったのでも、ありませんでした。

教え、伝え、そして、人が行うことができるように、主イエスはお語りになられたのでありました。

そのお語りなっておられること、教えておられることを、この世において人は、そのまま行うのは大変難しいことであるかもしれません。

ほとんど無理だ、また、無理だった、ということが多いかもしれません。

しかし、主イエスが「教え」をお語りになっておられること、それが伝えられていることに、人は大きな気づきを与えられるのであります。

救い主イエス・キリストは、父なる神からこの世に送られてお生まれになり、幼子から成長され、成人となられ、ガリラヤ湖周辺の地域から宣べ伝え始められました。

その第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でありました。

この言葉が、救い主イエス・キリストの伝えること、教えることの、

進むべき方向をよく表していると言えます。

「悔い改める」というのは、「向きを変える」ということです。

ということは、この言葉が語られる時、聞く人々の向かって行こうとする、また、今現在、向かっているその向きは違っているということになります。

「そうではない」「違っている」ということであります。

救い主イエス・キリストは、この世において語り、宣べ伝え始められた時、人々に「違っている」と語り始められたのであります。

そして何故そのように語られたのか、何故そのように語ることができるのか、と言うと「天の国は近づいた」からであります。

天の国とは、神の国であります。

「国」というのは、「支配」という意味内容です。

ということは、神の国は、神のご支配ということであります。

神のご支配が近づいたということです。

支配と言うと、考え方によっては、あるものに束縛され、制限が加えられて自由にさせない、と受け止めてしまうこともあるかもしれません。

しかし、支配という言葉には、あるものを分け与えること、分配すること、配分すること、という意味もあります。

神が分け与えてくださるということであります。

天の国、神の国というのは、天が分け与えてくださり、神が分け与えてくださるということであります。

では、何を分け与えてくださるのかと言うと、命の言葉であります。

救い主は、人を、また、この世を、救うために来られたのであります。

命に至る、命の水の湧き出る泉を指し示され、この世で渇きを覚え、命を求める人々に、命の水を飲ませるため救い主イエス・キリストは来られたのであります。

この世で、ふらふらになりながら、また、日照りの中、とぼとぼと歩く通りすがりのような、このわたしにも一杯の水をお与えになられるのであります。

救い主イエス・キリストは、命の水、命の御言葉をお与えになられます。

だから、「向きを変えて」とおっしゃるのです。

それまで、また、今この時にも見つめ続けるものの中に入り込んでしまって、その重さに、この世の罪の重さに、押し潰されそうになってるところから向きを変えて、と主イエス・キリストはおっしゃるのです。

神が分け与えてくださるものは、豊かであり、その豊かさは、愛と赦しとなって現わされました。

この世の、そして、人の罪を主イエス・キリストはかわりに負ってくださり、十字架の死につかれ、神の愛と赦しを現され、わたしたちは罪から赦されました。

さらに死につかれた主イエス・キリストは、復活され、愛と赦しの大きさと豊かさを表され、主は、今も生きておられます。

新約聖書の福音書において、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って、宣べ伝え始められた主イエス・キリストは、その後、弟子たちを招き寄せられました。

そしてガリラヤ中を回って、多くの会堂で教え、天の国、すなわち神の国を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されました。

紀元一世紀当時、その評判はシリア中に広まったので、多くの人々が主イエスのもとにやって来ることとなったのです。

いろいろ病気や苦しみに悩む人、悪霊に取りつかれた人などなど。

人々があらゆる病気の人々を連れて来たのでありました。

そしてこれらの人々を主イエスは癒されたと福音書は証言しています。

いろいろな病気や苦しみに悩む人々がいた、それは今現在も変わりがないのかもしれません。

大勢の人々が群衆となって主イエスのもとにやって来たというのでありました。

川を越えて、谷を越えて、主イエスに従ってきたというのでありました。

そこでイエスは、教え始められたのであります。

新約聖書マタイによる福音書5章の始まりには、新共同訳聖書では「山上の説教を始める」と小見出しが付いています。

その5章1節にはこうあります。「イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

多くの人々が、主イエスのもとにやって来ていました。

そしてその人々への対応を主イエスと弟子たちは行なっていたのでありました。

大勢の群衆と呼ばれる人々ではありましたが、一人ひとりに向き合い、主イエスは癒しの業を行っておられたのです。

そしてある時、その場から離れるようにして山に登られるのです。

町なかではありません。

また、村のなかでもありません。

そして腰を下ろされ、そここれから大切なことをお話しされるその姿勢になられた時、弟子たちが主イエスのもとに近寄ってきたのです。

弟子たちも、主イエスが何か大切なことをお語りになろうとされておられる、そのことに気づいたのであります。

押し寄せてくる多くの人々の間で、また、多くの出来事が起き、その多くのこと事を見てきた弟子たちは気づいたのであります。

渇いている。

救い主イエス・キリストは、大切な教えを語り始められました。

そしてこの大切な教えは、命の水となって先ず弟子たちに、さらに多くの人々へ分け与えられて行くこととなるのです。

そしてこの命の水の泉は枯れてしまうことがありません。

主イエス・キリストのもとに来て差し出される水を飲み、信じる人は、その人の中から生きた水が川となって流れ出るようになるのです。

救い主イエス・キリストは、大切な教え、キリストの教えをお語り始められ、マタイによる福音書5章、6章、そして7章と続き、その終わりの7章13節にて、主イエス・キリストはこうを語りになっておられます。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見だす者は少ない。」主イエスは、求めること、探すこと、門をたたくことを勧めていますが、その目の前には二つの門があります。

広い門と狭い門です。

広い門は道も広々、だれでも入れるのでそこから入る人も多いのですが、滅びに通じている。しかし、狭い門は、道も細く、それを見いだす者は少ないのです。

主イエスは、目の前に広い門と狭い門という二つの門を見ておられます。

そしてそれは、滅びに通じる門と命に通じる門です。

命に通じる門は狭く道も細く、それを見出す人は少ないから、自分はダメだ、と言ってはなりません。

救い主イエス・キリストは、求め、探し、門をたたく人によいものをお与えになるお方であるからです。

キリストの大切な教えの終わり、マタイによる福音書7章の13節からは、このように求め、探し、門をたたくようにと、主イエスはお語りになられ、広い門と狭い門、悪い木と良い木、言う者と行う者、と二つを比べるようにしてお語りになっておられます。

二つのうちどちらかでなければいけないと言っているのではありません。

求めるのは、あなただとおっしゃっておられるのです。

主イエスは、二つを比べるようにしてお語りになられて、人々に気づきを与えようとされるのです。

そして、この世において苦労し、怖くて、寒くて、眠れなくなって、多くのことを耐えている人々に、何を求めるべきなのかを示されるのです。

わたしたちの見ず知らずの者であって、かえせるものは何もないけれど、主は、水をお与えになるのです。

狭い門、細い道を迷いながら通りすがりの者であるかもしれないけれど、主は、道を教えてくださるのです。

そして、キリストの教えの終わりで、主イエスはお語りになられるのです。

マタイによる福音書7章24節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

主イエスは、この事を語られる前に7章21節でこう述べておられました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

主イエスは、天の国に入ること、神の国に入ることについて教えになられます。

言うだけ、または、行うだけ、の問題ではなく、神の御心を行うということは、神の御国を受け継ぐということであり、それは天の国に入るということであります。

それは、この世において完全ではありませんが、天の国が現れ始めていることであります。神が分け与えてくださるものがあるからです。

命の御言葉を聞いて行う者は皆、似ているというのです。

岩の上に自分の家を建てた人に、似ている。

そしてその人は、賢いその人に、似ている、というのです。

主イエスは、ここでたとえをお用いになられますが、それは当時の人々も体験しよく知っているような事でした。

マタイ7章25節から27節「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家をおそっても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わないものは皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

主イエスは、二つの家をたとえでお語りになられます。

砂の上に建てた家と岩の上に建てた家です。

砂の上に建てた家は、雨、風で倒れ、その倒れ方はひどく、岩の上に建てた家は、倒れなかった、というたとえです。

主イエスは、この世で大雨の時、川があふれる時、そして、風が襲ってくる時にお語りになっておられます。

倒されないように、この世のものというものは倒されてしまうことがあるかもしれません。川があふれ、逃げるためにボートに乗った時、手が震えている自分に初めて気づいたということがあるかもしれません。

それでも、岩の上に家を建てた人のようでありなさい。

「いったいあなたは誰ですか」と尋ねられたなら、「わたしは岩の上に立つ者です」と答えることができますように。

「その岩はどこに」と尋ねられたなら、「今ここに、救い主イエス・キリスト」とお答えできるように。

岩とは、主イエス・キリストであり、命の御言葉です。

この家に、この神殿に、わたしたちを住まわせてくださるのです。

そのために、主は十字架の死と復活を成し遂げられ、今も生きておられます。

マタイ7章28節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

救い主イエス・キリストには力があります。

そしてこの力は、権威と呼ばれるものでありました。

その言葉を、その大切な教えを、語り伝えることが神に許されているというその力に人々は大変驚いたというのです。

そしてその力は、「あなたの土台となる」「あなたの命の言葉となる」とお語りになられる救い主イエス・キリストそのものであります。

神の御心は、神の御言葉である主イエス・キリストを土台として生きることであります。

この世にあって、この世のものは過ぎ去って行くかもしれません。

しかし、神の愛である主イエス・キリストという岩はいつまでも残ります。

愛の主イエス・キリストは、権威ある、力あるお方であるからです。