「思い煩うな」 マタイによる福音書6章25節~34節

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

主イエス・キリストが、わたしたちに語りかけてくださっておられます。

しかし今、わたしたち一人ひとりに「思い悩む」ことがあるかもしれません。

大きなことから小さなことまで、それはそれぞれに受け止め方が違うことであるかもしれませんが、大きいこと小さいことにかかわらず大切な点を含んでいるということがあるかもしれません。

これまでのことを、そしてまた、これからのことを、思い悩んでしまうことがあるかもしれません。

また、人が一人でということだけではなく、多くの人が、ということも言えるかもしれません。

旧約聖書の詩編55篇という所でも、いにしえの、古代の詩人がこのように歌っています。

詩編55編の2節から9節です。

「神よ、わたしの祈りに耳をかたむけてください。

嘆き求めるわたしから隠れないでください。

わたしに耳を傾け、答えてください。

わたしは悩みの中にあってうろたえています。

わたしは不安です。

敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。

彼らはわたしに災いを降りかからせようとし、憤って襲いかかります。

胸の中で心はもだえ

わたしは死の恐怖に襲われています。

恐れとわななきが湧き起こり

戦慄がわたしを覆い

わたしは言います。

鳩の翼がわたしにあれば

飛び去って、宿を求め

はるか遠く逃れて

荒れ野で夜を過ごすことができるのに。

烈しい風と嵐を避け

急いで身を隠すことができるのに。」

いにしえの人も神に呼びかけています。

それはただ単に呼びかけているのではなく、切実に「どうか聞いてください」「どうかご覧ください」という願いであります。

何を聞いて、何をご覧になられて、お答えくださいというのかと言うと、この世を生きるわたしの嘆きであります。

このいにしえの人も、「わたしは悩みの中にあってうろたえています」と自分のありのままの在り様を嘆き、ひどく悲しんでいます。

心にかなわぬことがあって、そのため息はひどく大きかったのです。

詩編の中で「敵」というのは、目に見える「敵」であると同時に、目に見えない「敵」であるということができます。

そして目に見えない「敵」は、人の思いと人の考えを捕らえようとするのです。

いにしえの人も「わたしは不安です」と、主なる神に向かって静かに叫んでいます。

さらに目には見えない「敵」が声を上げ、迫って来るのが見えるのです。

胸の中で、心の中で、苦しみます。

恐れがやって来て暗く重くなります。

心が震えます。

そしてこの恐れと不安から逃れることを願います。

心の中に湧き起こる激しい風と嵐から身を隠すことをいにしえの人も願っています。

その願いは長く続いている恐れと不安の状態に対する願いであり、それだけ、暗さも増し、重さも増しています。

そして夕べも朝も昼も長く続く苦しみは、辛さをも増し加えていました。

しかし、古代の詩人、いにしえの人は、暗い夜を通ることによって気づいたのでありました。

「神はいにしえからいまし、変わることはない。」

神はいまし、とこしえに変わることがない、そのお方に気づいたのであります。

目には見えない恐れと不安の襲う中、いにしえからおられ、決して変わることの無いお方が捉えていてくださるということに、救われるのです。

この世での恐れとわななき、そして、戦慄は消え去るのです。

ですから、いにしえの人、古代の詩人は、詩篇55篇23節でこのようにその信じること、信頼することを歌いました。

「あなたの重荷を主にゆだねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う人を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。」

先ず、ゆだねることができるということを知ることであります。

すべての重荷を、すべて、自分自身のみが負うということではなく、とこしえに変わることのないお方、主なる神にゆだねることができるということを知ることです。

何もしないということではありません。

何も考えない、何も思わないということでもありません。

人間の心は自分の道を計画しますが、主が一歩一歩を備えてくださるのです。

あなたの業を主なる神にゆだねれば、計らうことは固く立つのであります。

しかし、主イエス・キリストが、この世に来られた時、この世を暗黒が被っていました。

ユダヤの民はローマ帝国の支配下にありました。

ユダヤの社会生活は、ユダヤの民が自治、自主的に営んでいたと言えますが、それはローマの属州としてであり、ローマの権力、軍事力などの力を身に受けてのことでありました。

この世の支配の力を身に受ける、被るという意味での被支配者が、同じ被支配者である同胞の民を支配するということは、世界史の中でも起きることでありますが、それがはっきりとした形では現わされていないこともあります。

人々の心の嘆き、人々の叫び声が埋もれてしまっているのです。

心が恐れに襲われ、わななき、戦慄が心を覆っているのです。

主イエス・キリストが、この世に救い主として来られた時、救いの御言葉を弟子たちに話を語りになられました。

新約聖書のマタイによる福音書5章3節という所にはその初めの御言葉があります。

主イエスはお教えになられました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

「貧しい」というのは所有するものがない、と言い換えることができます。

あれやこれや、また、あれもこれも、持っていないということでもあります。

心の中に多くのものが、あれやこれや、また、あれもこれも、と欲してたくさんのものが山積みにされているということではなく、何もないということ。

そして、何もないということは、一つのことに集中できるということでもあります。

それは無我夢中で遊んでいる子どもたちのようです。

砂場で砂を掘る子は、夢中で掘っています。

砂を集める子は、夢中で砂を集め山をつくっています。

子どもたちは、今、その時、夢中です。

心が貧しいというのは、心に何も持っていないので、ひとつのことに夢中になって、集中できるということでもあります。

そして「夢中である」「集中する」ということも忘れています。

主体となっているからです。

幸いはすぐそこにある、そのことに気づいた人は、天の国の人であると言えます。

一つのことに集中していれば、必ず答えに巡り会うことになる、そのことを知っているのが天の国の人ということができます。

主イエス・キリストは、この世において天の国の人へとわたしたちを招きます。

マタイによる福音書6章25節にこうあります。「だから、言っておく。自分のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」

主イエスは、この世においてさまざまなことに恐れ、不安を抱き、おののき、わなないている人々に、「どうだろう。神があなたをあなたに愛を豊かに注がれているのを思い出してみては。」とおっしゃっておられるのです

何か食べるものを、何か着るものを、そのことはとても大切なものでありますが、自分の思いではなく、神の思いに心を寄せてみれば、ということです。

そして、思い悩むこと、心配することを止めてみれば、ということであります。

命を支える食べものは大切でありますが、言うまでもなく、命そのものがまず大切です。

また、体を守る衣服は大切でありますが、言わずもがな、体そのものが先ずあってのことです。

人の心は、あれやこれや、あれもこれもで、先のものが後になり、後のものが先になってしまうことがあります。

本(もと)と末(すえ)が分からなくなってしまうのです。

落ち着いて、そのことに思いを向けてみよ、ということであります。

主イエスはおっしゃいます。26節「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

主イエスは、思いを向けなさいということを「よく見なさい」と、空を見上げること、そして、鳥たちは種を蒔いたり、借り入れをしたり、倉に納めたりもしないけれども、天の父なる神が養ってくださっておられること、神のなさる創造の御業、その働きを見上げてみなさいとおっしゃるのです。

そして、その創造主である神は、あなたにもその御業を、働きを、置いておられて、それだからこそ、素晴らしいではないかこの価値は、と主イエスはおっしゃるのであります。

そしてこの価値には、「信頼」という「信じること」が含まれています。

27節、28節「あなたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命わずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」

人は、その行く末を、その生涯はどれほどのものであるか分かりません。

そしてこの世においては影のように移ろうもの、虚しくあくせくし、積み上げる。

しかし、何に望みを置くべきなのか、主イエスキ・リストは問いかけています。

神が計らってくださることを「注意して見なさい」とおっしゃるのです。

わたしたちの生涯は、目に見えない数多くの糸が、さまざまな色によって一つの織物になっているかのようです。

それは美しい織物です。

神の意識が、神の愛が、紡ぎだしたものであるからです。

ですから、風の日も雨の日も、丘の上になかよく咲いている野の花のようであるように、と言うのです。

29節、30節「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」

栄華を極めたソロモンとは、ユダヤの王の一人、王の中の王ダビデに継ぐ王でありますが、神に知恵を求め、国を大いに栄えさせたのでありました。

しかし、その栄華を極めたソロモンでさえ、神のなさることにはかなわない。

一つの花に、神のなさることが現されている、と主イエスはおっしゃるのです。

そこには、人間の価値基準をはるかに超えたものがあります。

だから、神をたたえよ。

人間の栄光ではなく、神の栄光を現し、いにしえの人がとこしえに神を全く喜んだように喜ぶのです。

神が、信じる信仰を主イエス・キリストと共にお送りくださったのです。

神が、信頼を寄せてくださる、その愛を受け取るのであります。

そして、その愛は、主イエス・キリストの受難と十字架の死、そして、復活において現わされました。

主イエス・キリストのお語りになられた野の花は、ユリのことであり、野に咲くユリの花は、「神に選ばれた者たち」のことだと云われます。

主は、この御言葉に聴く人たちに、神の御業、すなわち神のお働きをお語りになられ、そのお働きの中に、あなたは育まれ、養われているというのであります。

だから、31節、32節「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それは、みな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。」

「異邦人」というのは、ユダヤでない人ということでもありますが、神を信じ、信頼しない人と言い換えることもできます。

食べ物、飲み物、着る物が、いけないと言ってるのでは決してありません。

それらを通して、また、それらに入り込み過ぎてしまい、見えなくなってしまうものがあるというのです。

そしてそこから心配と思い煩いが生じ、さらに、思い悩むことになってしまうというのです。その思い悩みが長く続くと、神の愛と赦しを見失い、心を乱し、心を弱らせることになるというのです。

ですから、幸いに至るよう33節、34節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

「神の国」は、神がご支配してくださっておられること。

そしてお働きくださっていること。

すなわち、わたしたちは「神の国」に支えられ、養われ、命を与えられていること。

そして「神の義」は、わたしたちが受け入れられていることを表しています。

主イエス・キリストによって、わたしたちは、神の国へ受け入れられているのであります。

今日、その幸いへと入っているのだから、明日のことまで心配し、思い煩うことはない、と主イエス・キリストはおっしゃいます。

わたしたちはどこまでも思い悩むの者であるかもしれません。

いつでも、どこでも、その心配の種が尽きることがないかもしれません。

しかし、神は良い土を用意してくださり、わたしたちに祈りの花を咲かせるようにしてくださいます。

祈り願う者たちに、思い煩うなとおっしゃる主イエス・キリストは、恵みの雨を注ぎ、「その日の苦労は、その日だけで十分」といたわり、慰め、今日を生きるようにと、思い煩いを払ってくださいます。

主イエス・キリストは、今も生きておられます。

だから、明日のことまで思い悩むな。