「祈るときは」 マタイによる福音書6章5節~15節

「あなたがたが祈るときには」と主イエス・キリストはおっしゃって、「こう祈りなさい」と主はお教えくださいました。

爽やかな五月の第二日曜日は「母の日」とされ、広く伝えられています。

先ほどわたしたちは、「まぼろしの影を追いて」讃美歌510を歌いましたが、この曲の歌詞はフランク・A・ブレック夫人という十九世紀後半から二十世紀前半、米国オレゴン州のポートランドに住んでいた婦人が作詞したものでした。

五人の娘の母親として、また妻として、忙しい毎日を送っていた家庭婦人でした。

いつもこの人の心には、賛美の歌の言葉が湧いていたので、繕い物をしながら、幼子をあやしながら、また、お皿を洗いながら、そして、寝ている時にも、賛美歌の言葉が浮かんでいたとのことでした。

そのような日々の暮らしから二千曲以上の歌を書いたと言われています。

賛美歌510の第一節は

「まぼろしの影を追いて

うき世にさまよい

うつろう花にさそわれゆく

汝が身のはかなさ」

折り返しは、

「春は軒の雨、秋は庭の露

母はなみだ乾くまなく

祈ると知らずや」

そして第四節ではこう歌われています。

「汝がためにいのる母の

いつまで世にあらん

とわに悔ゆるの日のこぬまに

とく神にかえれ」

ここで歌われている「あなたのために」という「あなた」。

そして「いのる母」。

その「いのる母のいつまで世にあらん」というこの「母」というのは、「あなた」という人、そして「母」という人を詠んでいると同時に、その時その時を懸命に、晴れの日も、雨の日も、健やかな時も、病の時も、生きてきたこの作者作詞者本人ではないかと思えて来るのです。

その作詞の多さから言っても、順調の時だけではなく、逆境の時も経験し、その中から生まれ出てきた言葉と賛美が歌われていると思えるのです。

5月の第2日曜日、「母の日」が生まれたその由来は、20世紀初頭、ある教会学校教師の任にあたるある母親が、当時、生徒たちに「あなたの父母を敬え」という旧約聖書、出エジプト記の20章「十戒」からお話をし、その上でこう聞きました。「母の愛に心から感謝する方法を考え出す人はいませんか。」この日の話を、また、その質問を聞いていた娘が、母が天に召された後記念の日に、母の大好きであったカーネーションを飾ったというのが「母の日」の始まるきっかけとなりました。

出エジプト記の20章12節にはこうあります。「あなたの父母を敬え。」そして続けてこうあります。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」

旧約聖書で語られている「敬う」というのはただ単に孝行をして養うということのみを意味しているのではありません。

「神にあって」ということです。

神が父を、神が母を、お与えになられたのだということであって、神が与えられた父母が、神から子を与えられたという関係を表しています。

すなわち、「神にあって」というあり方です。

神を敬う。

ですから「そうすれば」と続いて「あなたは、あなたの神」と告げられ、その主なる神が「与えられる土地に」神が備え導かれるところに「長く生きることができる」すなわち、神の祝福に満ちた人生を送り、生きるその源がここにあるというのです。

しかし、この主なる神の御言葉十戒は、エジプトの国を脱出したイスラエルの民が荒れ野において、厳しい歩みを続けていたその途中で授けられた御言葉でありました。

人々の心と体は疲れ、「またか」と思わされるような災いが繰り返しやって来ました。

人々は、心の中でも苦しんでいました。

現在のわたしたちも、疫病の波、第一、第二、第三、第四と重ねて起きる波の中にいると言えます。

また個人ということにおいても、疾病による不安や心配、生きることにおいても、多くの思い煩いがあります。

その中で、主なる神はおっしゃるのです。

「生きることができる」

エジプトの国で奴隷として虐待され、苦しんでいたイスラエルの民は、エジプトの国を脱出するにあたって神がお立てになった指導者モーセを先頭に、エジプトの王ファラオと交渉を始めますが、ファラオは心をかたくなにします。

その度にエジプトの国には災いが起こります。

出エジプト記の7章から11章にかけてそのことが記されておりますが、次々と起こるその災いの数は十に及びます。

川の水が血に変わる「血の災い」、蛙が大量に発生する「蛙の災い」、ぶよの大量発生する「ぶよの災い」「あぶの災い」、「疫病の災い」「腫れ物の災い」、人、家畜、農作物に甚大な被害を与える「雹の災い」「いなごの災い」、「暗闇の災い」そして「初子の災い」。

イスラエルの民の苦しみと嘆きの大きさを、そのまま表しているかのような災いが次々と起こり、イスラエルの民はエジプトの国を後にすることになり、主なる神の示される新しい地を目指して荒れ野を行くことになります。

その途中で、主なる神は約束されたのであります。

大きな災いが起こる、それは、わたしたち一人ひとりの人生において起こり得ることでありますが、そのことを通して、神は御言葉をお与えになり、それを命のパンとされるのであります。

新約聖書のマタイによる福音書は、この主なる神が共におられる「神は我々と共におられる」という意味の名をお持ちになったお方は、主イエス・キリストであり、このお方は「神の口から出る一つ一つの言葉によって人は生きる」とお語りになられました。

そしてそれは、人の口から出る言葉ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉であります。

すなわち、神に聴き、神の思いに自分の思いを合わせること、たとえそれが、とても難しく感じられ不可能だと思われても、耳を傾けようとすることを、思いを傾けてみようとすることを、そうしようと決めることはできます。

それは、一時一時、一瞬一瞬であるかもしれませんが、神はその中にもおられます。

そして神は、わたしたちの中におられます。

ですので、主イエス・キリストは、心の耳の傾けるとき、また、思いを傾けるときのそのあり方をお語りになるのです。

新約聖書マタイによる福音書6章5節「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。」

主イエスは、「祈るときにも」と、この前でお語りになっておられること、それは「施しをするときには」こうしなさいということを継いでお教えくださっています。

人の内面に目を向けておられます。

人にどう見られているかというよりは、神にどう見られているかということ、そしてそれは、その人の内側を神はご覧になっておられ、その内面がどのように外側の行いとなっているのかということを扱っておられる、と言うことができます。

主イエスがおっしゃる偽善者の思いは、人のみに向いており、神に向かっているのではない。

その意味で、偽善者は人からの好意はすでに得て、報いを受けていると言えますが、それは本来受けるべき報いではありません。

しかしある人々は、それを選んでしまっているということです。

だから、と主イエスはおっしゃいます。

6節「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

主イエスご自身、しばしば群衆を離れて静かに山で祈られるということがおありになりましたが、主イエスにとってそれが「奥まった自分の部屋に入り戸を閉める」ことであったのかもしれません。

それは情報が多く、また多すぎることとなった現在においても大切なあり方の一つであるかもしれません。

ここではその場所について主イエスがお語りになっておられますが、それは、特定の場所を指定しているのでは必ずしもありません。

「あなたの密室に入りなさい」ということでもあります。

それは、日常生活のあれやこれやと行なっている最中であるかもしれません。

一人の時も、そうであるかもしれませんし、また、そうでない時もあるかもしれません。

また空間的だけではなく、時間的な意味で、あの時こそが「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めた」その時だったのだと後から気づくこともあるかもしれません。

隠れたところにおられる神がおられるのです。

わたしたちの目には、見えず、他の人の目にも見えず、予想も予測もしていないところにも、隠れたところにおられる神がおられるのです。

わたしたちの歩みはそのようにして支えられています。

ですから、祈るのです。

わたしたちの父なる神に、そして、わたしたちの源である神に、そうすれば人ではなく、神が報いてくださるというのです。

そして、そうすれば、わたしたちは生きて行くことができます。

また、7節、8節「あなたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」

主イエスは、父なる神はどのようなお方かを教えになられます。

それは、あなたに必要なものをすでにご存知だということです。

人は自分に本当に必要なものを知らない場面があります。

しかし神は、それをすでに知っていて、わたしたちの人生にいろいろなかたちで現してくださっておられます。

そしてそれは、ある人々がそうしているように、言葉数の多さでそう成っているのではないのです。

神は、もうすでに十分満ち足りておられるのです。

その恵みをお与えになられるのは、神なのです。

だから「こう祈りなさい」と主イエス・キリストは、「主の祈り」を9節から13節でお教えくださいました。

地に恵みをお与えになられる、天におられる父なる神に、呼びかけること、この世界はあなたによって成っているので、だからこそ父なる神よ、あなたの御名があがめられ、平安が確かにあるように。

あなたの御国が来ますように。

あなたがお遣わしになられた主イエス・キリストが、苦難を受けられ、十字架の死と復活によって成し遂げられた愛と赦しのご支配があまねくあるように。

その御心が与えられ行われますように。

父なる神がおられる天でのように、この地上でも行われますように。

そして、天とこの地が調和し、本当の喜びが、わたしたち一人ひとりの中に溢れますように。

そのために、主イエスは父なる神のお名前は、聖なるものとされ、聖なるお方のその御国がここに来て、聖なるお方の思いをここに起こさせなさい、とお教えになられます。

生きることを得させてくださいます神が、今日の必要な糧を、今日与えてくださいます。

ですから、昨日ではなく、また明日でもなく、今日を生きるのです。

主は、わたしたちの罪を赦してくださいます。

人は自分の罪を知らないでいることがあります。

しかし主は、それをご存知であり、命をかけてその罪を拭ってくださいました。

そのことを受け入れ、思いを合わせ、赦したように赦されます。

父なる神は主イエス・キリストにより、誘惑の方へ導かないように悪い者から救ってくださり、逃れの道を備えてくださいます。

聖なるお方が支え、導いてくださるからです。

主イエスはおっしゃいます。14、15節「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたのあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

聖なる、父なる神は、あなたを疑いません。

受け入れてくださいます。

あなたが他者を赦し、自分を赦し、信じた通りに赦されます。

そして主は、常に帰りを待っておられます。

祈るときは、祈っておられる方がいることを忘れないように。

「汝がために祈る母の

いつまでも世にあらん

とわに悔ゆる日のこぬまに

とく神に帰れ」