「神の豊かな恵み」 エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

「神は恵みをわたしたちの上にあふれさせてくださいました。」

今日、わたしたちに与えられ届けられました聖書、エフェソの信徒への手紙にはそう記されています。

教会の暦では、先週がペンテコステ(聖霊降臨日)、そして、その次の主の日、今日は三位一体主日とされています。

父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊、この三位一体なる神を感謝し、心に覚えてこの日が定められている、と言えます。

父なる神がその独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、そして約束された聖霊をお与えになったことを、恵みとして覚えるのであります。

それは乾いた大地に雨が降り、その地が豊かに潤されることに感謝をささげるようであるかもしれません。

神が導かれ、また導き出されたときに、荒れた地を進まなければならないことがあるかもしれません。

しかし、約束の地を目指して進んでいくその時に、神は天より雨を滴らせ豊かな雨をお与えになり、衰え、乾いた地を潤してくださるのであります。

恵み深い神は、わたしたちをその地に住ませてくださるのであります。

それは、わたしたちの心に慈しみの雨、慈雨が降り注ぎ、命が回復するかのようであります。

神はそのようにして、地の面を新たにしてくださるのです。

神が造られるその創造の働きが現されたのが、聖霊降臨の出来事でありました。

新しい言葉ではないかもしれませんが、それぞれの国の言葉、故郷の言葉で、神の偉大な働きを人々が聞くことになったのです。

主イエス・キリストが約束された聖霊によって、今、それを聞くことになったその大勢の人々、全世界的にはその人数は決して多くはなかったかもしれませんが、世界中でその言葉が語られることとなり、聞かれることとなったのでありました。

主イエス・キリストは、十字架の死と復活の後、天に上げられましたが、聖霊をお送りくださり、主イエスの弟子たちは、神が遣わされたイエスこそが救い主であることを大胆に宣べ伝え始めます。

しかしそのことに反対し、迫害の手を上げていた者がいました。

その名はサウロ。後の使徒パウロです。

サウロはユダヤ人の中のユダヤ人、律法学者ファリサイ派の中のファリサイ派であり、また、生まれながらローマ帝国の市民でありました。

サウロは、聖霊と知恵によって主イエスは神の子であると語るステファノの殺害にも賛成し、また、キリスト者の家から家へと押し入って教会を荒らし、男女問わず引き出して牢に送っていたのでありました。

聖霊降臨の出来事の起きた当時、キリスト者たちはサウロをとても恐れていましたが、このサウロ自身が主イエス・キリストに呼びかけら、それまでの生き方が変えられます。

恐れと不安から家から家へと押し入って教会を荒らす者から、家から家へと入って祈り教会を建て上げる者へと変えられたのでありました。

それはただ、サウロの主義主張が全く反対の向きへと変わったということではなく、今も生きておられる主イエス・キリストに出会い、この決して変わることのない救い主とつながり、結ばれたことによります。

ですから、パウロが考えてと言うよりは、主イエス・キリストに結ばれることにより、恐れと不安からではなく、消えることのない喜びと尽きることのない平安から、サウロは生きることとなったのです。

そしてサウロは、主イエス・キリストの僕として使徒となり、主イエスの福音を宣べ伝えることとなるのです。

福音とは良い知らせのことです。

主イエスは、救い主キリストであり、このお方が良い知らせそのものであり、わたしたちはこのお方によって罪を赦され、罪悪感の重さから救われ、喜びと平安の力を得ることとなったのです。

そしてこの力が、パウロの力となり、その力が紀元一世紀当時、地中海世界の各地に教会を建て上げて行くこととなるのです。

しかしそのような宣教活動を進めていく中で、パウロはユダヤ当局者たちにより捕らえられてしまいます。

紀元61年頃、ローマの獄中からパウロは手紙を書き送り、その一つが今日わたしたちの開きましたエフェソの信徒への手紙であります。

パウロはこの手紙を、挨拶と祈り願いから書き始めています。

1章1節、2節に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。」

パウロは、決して消えることなく尽きることのない源とつながっていたので、使徒とされたと述べ、それは神の御心によって、と言い得たのでありました。

この内面からの強い促しによってパウロは、パウロであり、他の誰でもなかったのでありました。

まさに、神の御心によって、神の御心が現れることとなり、ここに人が深い喜びと平安を持って生きる姿が現されていると言うことができます。

勿論、人としてその時々に、冷たい夜を通り、涙の夜を過ごすこともあります。

苦しみと悩みの中にまんじりとせず一夜を明かすこともあります。

しかしパウロは、パウロ自身の中に何があるのかを見つめており、またそれによって喜んでいたのであります。

ですので、エフェソの信徒への手紙1章3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」

エフェソの町は、地中海沿岸アジア州側の港町であり、当時はローマ帝国の属州の首都でありました。

ローマの東方と西方を結ぶ重要な大きな町で、人、物、金が行き交う交易が大変盛んな町でありました。

パウロはかつて、このエフェソに三年ほどとどまって伝道をいたしました。

エフェソにあった講堂で、神の国のことについて大胆に論じ、それが毎日のように続いたので、アジア州に住む者はユダヤ人でありギリシャ人であれ、誰もが主なる神の言葉を聞くこととなりました。

やがて、エフェソの教会を再びパウロが訪れ、そして、別れを長老たちに告げる時、こう言いました。

「わたしは、神のご計画をすべてひるむことなくあなた方に伝えました。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は神が御子イエス・キリストによって、ご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたを任命なさったのです。しかし、わたし(パウロ)が去った後に、残忍な狼どもがあなた方のところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」

そしてパウロは「神とその恵みの言葉にあなたがたを委ねます」と述べた、と新約聖書使徒言行録20章に記されています。

パウロはかつてエフェソの人々へ「神とその恵みの言葉にあなたがたを委ねます」と伝えた、その姿勢はそれてしまうことも、ずれてしまうこともありませんでした。

エフェソの信徒への手紙1章3節で、神がほめたたえられるように、そして、神が祝福で満たしてくださることを語ります。

そして4節から6節でパウロはこう語り続けます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」

主イエス・キリストは、ある時、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とおっしゃって、「飢えていたとき食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」という話をされました。

そしてその人たちを、「わたしの父に祝福された人たち」と呼び、「天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい」とおっしゃいます。

天地創造の前に、そしてまたその時に、というのはただただ神がそうされたのだということを表わさそうと語られています。

この天と地を造られた神が、すべての主権をお持ちになっておられることを述べているのであります。

それだからこそ救われていることの大きさを、キリストにおいて選ばれていることの恵みを、語っているのです。

人に誇るためではありません。

ただ神を誇るの誇るのであり、ただ神をほめたたえるのであります。

7節、パウロは述べます。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

パウロはかつてユダヤの指導者として、主イエス・キリストが十字架の死につかれたこと、そしてその弟子たちが死刑となることに賛成をしていたのであります。

しかし、復活させられた主に出会い、十字架につけられたキリストを宣べ伝える者となったのであります。

キリストの十字架の血には神の力があり、人々を死と滅び、言い換えれば、罪から救う力があるのです。

罪責感と無価値観の重さにより死と滅びに押しつぶされそうになっている人々を救う圧倒的な力があるのです。

そしてこれは、神の豊かな恵みによるものであり、とりもなおさず、恩恵であります。

8節から10節で、パウロはこの神の恵みを述べ開きます。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」

神は、キリストにより恵みをあふれさせてくださり、それはなくなることがありません。そして、目には見えない源からあらゆる知恵と思慮深ささをもって、わたしたちに知らせてくださったのです。

神の秘められた計画、神の御心の神秘を、であります。

それは神秘であるので、そこにあってなくなることがありません。

そしてパウロは、この力によって支えられ、生かされてもいます。

そのようにして、人を救おうと神はキリストのもとに導かれます。

時が過ぎ去るのでもなく、時がやって来るのでもなく、時が満たされるのです。

天にあるものも地にあるものも満たされるのです。

そして、キリストのもとに一つにまとめられるとは、キリストが中心であり、わたしたちはこの中心であるキリストと結合されるというのであります。

キリストの十字架の死と復活に結ばれるのです。

パウロはエフェソの町で、中心を見失い、ゆれ動き、そしてはずれてしまいそうになっている人々に、中心であり、源であるお方を示します。

そしてそれは、今を生きるわたしたちの中心軸であります。

ここに、心の闇を照らす光があります。

そしてわたしたちのすべての疲れをいやすものがあります。

キリスト・イエスは、「わたしのもとに来なさい」とおっしゃいます。

パウロは、「キリストにおいてわたしたちは」と言います。

11節から14節「御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

キリストにおいてわたしたちは選ばれたのです。

それは他者と比べるためでは決してはなく、ただ恵みにより、わたしたちを愛と赦しの中においてくださるキリストによるのです。

そしてそこから神をほめたたえるのです。

恵みを、すなわち、神がここにおられるという神の栄光をたたえるのです。

キリストにあって真理の言葉と救いの福音を聴いている人々に、パウロは聖霊の証印を受けたと述べます。

キリストの福音の御言葉を聴き、信じるということは聖霊によるのです。

このようにしてわたしたちは受け継ぐべきものを受け継ぐのです。

この世界の中にあって、わたしたちはキリストにより罪赦され、神のものとなります。

この恵みは、豊かな恵みであるので、いっときで終わるものではなく、わたしたちが生きるときも死ぬときも、神の栄光をたたえることとなるのです。

今、わたしたちに、父、子、聖霊が与えられ、それをお受けする、これは、神の豊かな恵みによるのです。