「聖霊なる神」 使徒言行録2章1節~13節

聖なる霊、聖霊が現れ、とどまり、力が与えられた。

今日、わたしたちはその出来事を、特別に記念するペンテコステ礼拝に集いました。

キリスト教会では、イースターの日から五十日たって、ペンテコステ(聖霊降臨日)の時を迎えます。

このペンテコステという言葉は、もともとユダヤの大きな祭り、五旬祭を意味するギリシャ語から来ています。

聖書は、ユダヤの祭りと重ね合わせるようにして、その時、何が、どのように起きたのかという出来事を語り、それがわたしたちにどのような意味と力を持っているのかを示そうとしているのです。

この世の人々の救いのために、主イエス・キリストは、父なる神から遣わされ、この地上にお生まれになられますが、当時も時の権力による荒々しい力が広がっていた、と言うことができます。

主イエスは、人々の罪の赦しと救いのため、人々の間で病を癒し、悪霊を追い出され、神の国を宣べ伝えられますが、そのことに宗教的指導者たちは抗い、主イエスに対する妬みと憎しみにより、十字架の死へとかけてしまいます。

しかし、主イエスは、死より復活され、驚く弟子たちに現れたのでありました。

その主の復活の力は、弟子たちの恐れをまったく拭い去るものではありましたが、中には疑う者たちもおりました。

しかし、復活させられた主イエス・キリストは、四十日間にわたって弟子たちを励まされ、また、慰められました。

主イエスが苦難を受けられ、十字架の死にかけられて行く時、エルサレムにいた群衆は、「十字架につけろ」と叫び声をあげ続け、その妬みと憎しみ、そして、殺意が渦巻くあれほどのことがあったのにもかかわらず、そこに暴力と嘆き、そして、胸が張り裂けそうな深い悲しみが渦巻いていたにもかかわらず、すべてを受けとめられた主イエスは、死と滅びから復活された後、恐れる弟子たちの真ん中に現れておっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように。」

主イエス・キリストは、人々が社会的にも激しい否定的な感情に落ち込んでいる時にも、それをありのままに十字架の死に至るまでお受けとめになられ、しかし、主イエスは救い主として、すなわちキリストであられるので、死より復活され、平安そのものであることを現わされるのです。

人々は、そのことをエルサレムで、主イエスの、受難、十字架の死、そして、復活、の順で見てきたのでありますが、主イエスご自身はあらかじめそれらの出来事を、三回予告されておられたことからも、すべて同時にご存知であられたのです。

それは主イエス・キリストご自身が、平安そのものであったからです。

主イエスがそのように言葉を用いてお語りになっておられるのですが、主イエスは平安そのものであったのです。

ですからそのようにお語りなられ、弟子たちに伝えることとなり、主イエスの御言葉は弟子たちの、そしてわたしたちの魂の、励ましの言葉、慰めの言葉、そして、向こう見ずではない勇気の言葉、となるのです。

そしてこのお方、主イエス・キリストは、弟子たちを嘆きと悲しみから解き放ち、喜びをお与えくださり、弟子たちに主を賛美することをお与えになられ、天に上げられました。

その時、主イエスはおっしゃったのです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。」

そして弟子たちに、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と主イエスは約束されたのでありました。

その後、弟子たちおよび主にある兄妹姉妹たち一同が集まり熱心に祈り、十日ほどたってからのことでありました。

今日の聖書、新約聖書、使徒言行録2章1節~4節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

五旬祭というのはユダヤの三大祭り(過越祭、五旬祭、仮庵祭)の一つ。

過越祭と五旬祭は春の祭り、仮庵祭は秋の祭り。

紀元一世紀当時、地中海世界各地に散らされ離散していたユダヤの人々は、この大きな祭りに合わせてエルサレムへ巡礼にやって来たのでありました。

それこそが、ユダヤの民として認められるという意識が人々にあったからでもありました。

ですので、多くの時間と費用をかけ、長距離、ユダヤの人々は都エルサレムにやって来たのであります。

そして、ユダヤ三大祭りのうち、春の過越祭と五旬祭、その間は五十日間であったので、人によっては遠く離れた各地域に帰らずに、その期間、エルサレムに、またその周辺地に、滞在していたのでありました。

五旬祭はもともと春の収穫を祝う祭りでありましたが、同時にユダヤの民にとっては重要な出来事、旧約聖書に出てくるモーセに、シナイ山において、十の戒め、十戒が与えられ、律法が授けられたことを記念する祭りでありました。

主なる神がお授けになった律法、その第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を含めた十の戒めは、石の板に刻まれ、ユダヤの民の心に深く刻まれ、そして、人々の生きることをも支えることとなったのでありました。

それよりも前、ユダヤの民の指導者であったモーセは、ある時、主なる神に民の指導者となるよう召し出されたのでありました。

旧約聖書の出エジプト記3章には、「モーセの召命」という聖書箇所があり、その3章1節にはこうあります。「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」

モーセは、その燃え尽きることのない炎、その柴の間から語りかける主なる神の呼びかけに応えて行くのではありますが、モーセには、まったく自信がありません。

人々に語りかけ、人々の指導者となるとは考えられない。

「どうしてそのようなことをしなければならないのか」、「人々は自分をこのように言うだろう」、「そもそも自分はそのようなものではない」とモーセは言葉を重ね、自分の考えを繰り返します。

しかし主なる神は、「わたしは必ずあなたとともにいる」、「わたしはあるという者だ」とおっしゃって、モーセに伝えます。

それでもモーセは、自分はどうしても口が重いこと、誰か他の人を見つけて欲しいと願いますが、ついに主なる神は怒って、モーセの兄弟アロンは雄弁であるのでこのアロンをモーセの代弁者として付けることにします。

モーセの言うことは、人として何か変わっているということではなかったかもしれません。その時、その場を、生きる人としてそうあるべき、と考えていたことをそのまま答えていたとも言うことができます。

しかし、燃え尽きることのない炎の中から主なる神は、「わたしはある」とお語りになられたのでありました。

そして、多くの年月の後、主イエス・キリストの御名により一人一人を呼び出されるのです。

突然、激しい風のような音とともに、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのでありました。

それは、神が息をしているかのようであり、激しい風で何かを吹き飛ばそうとされているかのようでもある天からの音であり、響きでありました。

一同は聖なる一つの霊、聖霊に満たされたのでありました。

それは、こうすればこうなるというものではありませんでした。

ただ、主なる神がイエス・キリストを通して約束されたことが、神によって現わされたのでありました。

人には、風のように聞こえ、炎のように見える、それは、「神が必ず共にいる」という顕れが動き始めたのでありました。

そしてかつて、モーセに授けられた主なる言葉がアロンに託され、人々に与えられたように、主イエスの弟子たちは、その時、聖霊に満たされ聖霊が語らせるままに、他の国々の言葉で語り出したのでありました。

弟子たちにとっては、その言葉は学んだことのない言語であったと言えます。

しかし、聖霊は語り始め、声の限り語り続けます。

悲しみよりももっと大事なことがあることを。

使徒言行録2章5節、6節にはこうあります。「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の国の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」

かつて、モーセが先頭となって連れ出した多くのユダヤの民のように、聖霊が降った日の朝の九時、エルサレムにはあらゆる国々から戻って来たユダヤの民、大勢の人々がいました。

そしてこの大勢の人々は、あっけにとられてしまいました。

それは、五十日ほど前、十字架の死から復活させられた主イエスに出会った弟子たちが大いに驚いたように、人々も驚いたのでありました。

しかし7節、8節で、「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」

人々は驚きと同時に怪しんでいます。

そして、現在のわたしたちは、驚きもせずただ怪しんでいると言えるかもしれません。

聖霊により、話し出し、語っているこの人たちは、一地方の村の、また、小さな町の人たちではないか。

しかし、ここに、地中海を中心とした世界のかなり広い地域、その国々の言葉で、それぞれの国の言葉で、話しているのを聞いたのです。

それは一つの聖霊により。

そして、聖霊は人々の思いを超えています。

11節の終わりで人々はこう言っています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

聖霊に満たされた人々が話し出し、語っていたのは、「神の偉大な業」でありました。

それは、あの燃え尽きることのない炎から、「わたしはある」と語りかけられる神が、主イエス・キリストにより、成し遂げられた罪の赦しと救いの働きです。

この「神の偉大な業」が、世界のあらゆる国々の人々に語られているのです。

そして今、わたしたちはその主イエス・キリストが生きておられるのを聞き、その燃え盛る旅の途中で出会ったのです。

しかし、12節13節「人々は驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔ってよっているのだ』と言って、あざける者もいた。」

人の見る目によっては、そのように見えたのかもしれません。

そしてまた、彼らは、新しいぶどう酒を飲んだのかもしれません。

神のお与えになる新しいブドウ酒により、人が新しい歩みに入り、新しい意識に入った、と言えます。

ここに教会が誕生し、新しいブドウ酒により、新しい命に生きる者たちが、全世界に起こされることになり、今、わたしたちは生きているのであります。

それまでは、水しか残っていないと思っていたところに、良いぶどう酒が運び込まれた来たかのような祝いと喜びがあります。

この主イエスが託された喜びは、主イエス・キリストの約束された通りに成り、そしてまた、約束を超えて行きます。

静かであっても、うしろを振り返らずに進み広がって行くからであります。

前だけを向いて、心に炎を灯して、今、一人一人にとどまった聖霊により神は語っておられます。

すべての世界のために。

そして、すべて、あなたとわたしたちのために、聖霊なる神は、“霊”を吹き入れようにし、語っておられるのです