「道をゆく」 ヨハネによる福音書14章1節~14節

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

わたしたちの救い主イエス・キリストがお語りになられました。

それはある一人の方が、一つの道を進んで行かれるその途中でのことでありました。

このある一人の方とは、全ての人の救い主でありました。

わたしたちは今それぞれに与えられた道を進んでいると言えます。

一人の人として、人と人との出会いと別れを繰り返し、喜びも悲しみも噛み締めながら歩んでいます。

また、近くにあって遠くにあって、一人ではなくご家族としての道を進んでおられる方々もおられることでありましょう。

そしてまた、わたしたちの国として、わたしたちの世界としての歩み、疫病感染拡大により心身共に大きな影響を受け、心配しつつ、わたしたちは歩んでいます。

ニュースは大切な情報を運んで来てくれるものでありますが、それがすべてではないこともわたしたちはよく知っています。

わたしたちの心は混乱し、混沌としているのが日常となってしまってるかのようであります。

大小多くの思い煩いがやってきては留まり、そして去って行きます。

しかしそれでも、わたしたちの不安は消えることがないかもしれません。

わたしたちの救い主イエス・キリストは、不安の暗い雲に覆われた弟子たちに、お語りなられたというのが、今日の聖書、新約聖書ヨハネによる福音書14章1節から14節であります。

その始まり1節にはこうあります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」

この言葉を主イエスがお語りになられておられるのは、主イエスもまた弟子たちも、これから大変なことになるかもしれない危うい時が近づいているその場面においてでありました。

しかし、その危険な状態というのがどのような事なのか、弟子たちはよく分かってはいなかったのでありました。

しかし、困難であり恐ろしいことが待ち受けているという緊張感をもって、主イエス・キリストはお語りになられました。

そしてまたそれは、恐れる人々への励ましの言葉でもあったのです。

「心を騒がせるな」とは「あなたの心を悩ませてはいけません」ということであります。

主イエスは、心を騒がせること、心を悩ませることを防ぎ、心をささえることを勧めます。

それは主イエス・キリスト、この方が苦難と十字架の死につけられることを弟子たちは見ることになるからであります。

その大きな苦しみ、苦悩を前に打ちのめされ圧倒されて、そのままとならないために、主イエスは弟子たちを励まされ、また、その魂を慰めるようにお語りになられるのです。

「神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と主イエスはおっしゃいます。

主は強くお語りになっておられます。

「あなたは神を信じているのですから、わたしをも信頼し続けなさい」とおっしゃるのです。

2節から4節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

主イエスは、不安と恐れ、そして物事がすべて混乱していると考えられることを前に、神を信じ、キリストを信じることが出来ること、実行可能であることをお語りになられます。

そして困難と危機を恐れることなく乗り越えられること、その勇気を受け入れるようにと主イエスはお望みになられます。

そのために救い主であるキリストに拠り所を置き、キリストがおられる、そして、キリストがわたしたちを助けてくださるために御手を差し伸べてくださっておられることを思い起こすのです。

しかしこの世では、その思いをあらゆる種類の黒い雲が出てきて妨げてしまうことがあります。

ですから主イエスは離れ去ってしまうのではなく、戻ってくることを語りになられます。

主イエス・キリストは先に行かれて、あなたがたのために場所を用意するとおっしゃいます。これからどうなるのだろうと心配になっている弟子たちに、場所を用意し戻って来られると主イエスはおっしゃいます。

そして、救い主キリスト・イエスのもとに迎え入れてくださり、主イエスはわたしたちと共に、わたしたちは主イエスと一緒にいることになるのです。

ですので、わたしたちは毎日、このことを思い起こすのです。

主は、わたしたちのために場所を用意されたということです。

主イエスはご自身がどこへ行かれるのか、弟子たちは知っているとおっしゃいます。

人々の罪の赦しのため、十字架の死につかれ、父なる神のみもとに行かれるそのことを弟子たちは知っている。

そして主イエス・キリストが復活されたことをわたしたちは知っています。

その信仰の目を主は呼び覚まされるのであります。

主の栄光が現され、永遠の命の希望の中にキリスト・イエスをわたしたちは見つめなければなりません。

キリスト・イエスがこの世にあって、新たな命をお与えになられ、わたしたちに対して閉ざされていた道が、キリスト・イエスにより開かれたのであります。

キリスト・イエスはまた来て、みもとに迎えてくださるのです。

それはやがてのように思いますが、今であります。

しかし、5節、弟子の一人「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』」

「その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子のトマスは言いました。

トマスは、正直に、素直に、主イエスに応えています。

そして、トマスは知ろうとしています。

入り口はどこなのか、その道はどこから入るのか、トマスは知ろうとしているのであります。

その道はどこへ向かい、どこに行こうとしているのか、ということを道に入る前に知らなければならないからであります。

主イエスは、「わたしは戻って来る」「あなたを迎え入れる」とおしゃれほどに、そうしようという強い思いをお持ちになっておられ、その強い志を持っておられます。

そこで6節、7節、「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に見ている。』」

トマスの問いに、主イエスは直接お答えになってはおられないようでありますが、はるかに大切なことを語りになっておられると言えます。

主イエスは、わたしたちの正直な素直な問いに、直接はお答えにはならないかもしれません。

しかし、それをはるかに超えたことを何重にも重ねて主イエスはお答えになられるのです。

すなわち、キリスト・イエスをお受けし、そして共にある者は、何も不足していないということであります。

キリスト・イエスはその人を完全に包み込んでくださいます。

したがって、キリスト・イエスだけでは満足しない、できない、ということは、まったく完全であることを超えた何か当てにならないことを求め、労力を費やしていると言えます。

キリスト・イエスは、わたしたちの初めであり終わりであり、そして、その間を共に歩んでくださるのです。

わたしたちはキリストから始まり、キリストの中で生き、キリストの中で終わるのであります。

わたしたちは完全を超えた何ものかを求めるのではなく、このキリスト・イエスの中に命を見出すのです。

そしてこの命は、わたしたちの中にあります。

キリスト・イエスはこの道から踏み外さないようにと、御手を差し伸べ、幼子を引き寄せ導かれるように身を低くされます。

道は、それがどのような道かによって歩き方が変わります。

また、歩く道が違うと香りも違います。

キリストと共に歩む道は、光と香りに包まれ、真の幸いがあります。

満足ではなく、喜びがあります。

喜びが溢れる命があります。

古代の詩人も旧約聖書、詩篇36編10節でこう歌いました。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」

永遠の命の水の湧き出る泉は、キリスト・イエスにあり、わたしたちの中にキリストがおられます。

そしてキリストの光がわたしたちの中に灯され輝いているならば、わたしたちは魂の渇きをいやし、恵みに潤され、この道を歩んで行けます。

しかし、弟子のフィリポが言います。8節「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」

主イエスは、父なる神のもとに行くことを語りになりますが、父なる神は、キリスト・イエスにおいて現わされ、キリスト・イエスは父なる神を現わしておられます。

ですから、主イエスを見るものは父なる神を見ており、その生き生きとしたお姿を見ているのです。

見るということは、知ることでもあります。

そして知るということは、信じる信仰にもつながっています。

しかし、フィリポは満足を求めますが、主イエスは喜びと希望を語っています。

満足はやがって消え去って行きますが、信仰と希望と愛はいつまでも残り、危機を前にした弟子たちに、主イエス・キリストは希望を置きます。

そしてそれは尽きることがありません。

弟子のフィリポに主イエスはお答えになられます。

9節、10節「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」

主イエスは、父なる神がこの時どのように現わされるのかを語りになられます。

神自らが愛する者に対する愛を示され、その隠していた覆いを取り除かれるのであります。

そして主イエス・キリストは、生き生きとされた神のみ姿をはっきりと現され、この地上で神の御心を告げられたのであります。

主イエス・キリストは真理であり、真理が主イエスの内にあります。

主イエスは、このことを繰り返し語ります。

人の知るところ人知においては、最高のところ、表現不可能のところでは、語るのが繰り返しにならざるを得ないことがあるように、主イエスの内には父なる神がおられ、父なる神の御言葉を主イエスはお答えになられるのです。

ですから、11節、12節「主イエスはおっしゃいます。『わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業は行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』」

主イエスの業は、父なる神の業です。

ですから、その業そのものによって神を見ること、すなわち信じることができます。

そして驚くべきことは、人々の罪の赦しのため、神の愛が現されるため、十字架におかかりになり、復活される主イエスが、「わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とおっしゃいます。

主イエスが、父なる神のもとに上げられます。

さらに、神の御業が聖霊を通して証しされて行き、この神の御業はさらに力強く示されることとなります。

そしてさらに広がって行くのであります。

神の栄光はこのように現わされて行きます。

この目的に至るため、13節、14節、主イエスはおっしゃいます。「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

神の存在、すなわち、栄光とその御業は、主イエス・キリストを通して現わされ、その力は今も生き生きとあります。

そして、道を見失い、また、多くの曲がりくねった道を通らなければならないようなこの時にも、キリスト・イエスは生きている道であり、真理であり、命であります。

わたしたちは、この命の道を、今、始めから終わりまで、通り、帰って行くことができます。

どこにおいても。