「手を上げて祝された」 ルカによる福音書24章44節~53節

「イエスは、手を上げて祝福された。」

今日、わたしたちの開きました福音書には、主イエス・キリストが何をなされたのかが語られています。

そしてそれは、いつまでも続いていること、今も続いていることを現わされました。

わたしたちは、止むこともなく繰り返される痛ましいことから、目をそむけないで、わたしたちが見上げる空の先には、希望がありますように、と祈り願っています。

主イエス・キリストは、隔てる壁を取り壊すために、苦難を受けられ、十字架の死につかれました。

その手と足には、人々によって太い釘が打ち付けられました。

それより前に、主イエスは人々によって罪深いとされたある人が連れて来られた時に、はじめはかがみ込んで、指で地面に何かを書いておられましたが、おもむろに身を起こされこうおっしゃいました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい。」

人々が一人、またひとりと、その場を去って行くと、主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはいけない。」と告げられました。

しかしその後、人々は、主イエス・キリストを罪が見当たらず、罪がないのにもかかわらず、増幅された憎悪により、十字架刑へとかけてしまいます。

主イエスは、人々の罪の赦しのため、その茨の冠をお受けになられ、血を流され、肉を裂かれたのでありました。

しかし、主イエス・キリストは、かねて言われていた通り、十字架の死より三日後に復活され、神の愛と赦しの太陽を昇らせたのでありました。

深い沈黙の後、人々の驚きの中に復活された主イエス・キリストは、婦人たちに現れ、弟子たちに現れたのでありました。

そして、弟子たちの真ん中に現れてこうおっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように」

かつて、主イエスが弟子たちを任命して町や村に遣わされたことがありました。

それは狼の群れに小羊を送り込むようなものでしたが、その時、主イエスは弟子たちに伝え、お教えになられました。

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」

そして、主イエスは続けて教えになられました。

「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和は、その人の上にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」

「平和」というのは「平安」と言いかえることができます。

「この家に平安がありますように」

主イエスは、人々の暮らすその家に、弟子たちを通して入られて、そして、願っておられるのです。

それは家の中の人数に関係なく、一人であってもその家の人の心に平安があるようにという祈り願いです。

この世の中では、狼の群れに、送り込まれ、囲まれ、押さえ込まれているようなこともあるかもしれませんが、あなたの行くその道がなだらかな道であるように。

心がふさぐ雨の日にも、穏やかな気持ちでありますように。

辛くて泣いている人の傍らで、優しく咲く小さな花のような平安がありますように。

そしてどうか、吹きすさぶ風の中にも、ひたむきに歩いて行けますように。

苦難と十字架の死、そして、復活の後、主イエス・キリストは、弟子たちの真ん中にお立ちになられ、人と人との間にお立ちになられ、「あなたがたに平和、平安がありますように」とおっしゃいました。

そしてそれは、いつもどんな時も、変わらないのであります。

父なる神の御力により復活させられた主イエスの手と足には、十字架で負われた傷跡がありました。

そして今日の聖書、新約聖書ルカによる福音書24章44節「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ言っておいたことである。』」

主イエスが平安であるようにと願う人々に、主イエスは何か新しいことを語りになったのではありませんでした。

主イエスは、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と述べておられますが、それは、旧約聖書のことであり、その歴史書、預言書、詩編という人々の心を鼓舞し、魂を慰める神の御言葉でありました。

当時、親しんでいたであろう聖書、現在の旧約聖書、すなわち、歴史の中で語られて来た神の御言葉と、主イエスのお語りになられた御言葉を、弟子たちは忘れてしまっていたということでありました。

それは、知らせたことを忘却してしまったということではありますが、弟子たちが何か特別ということではなかったのかもしれません。

暗闇に迷う時、神の御言葉はランプのようなものです。

ランプを灯せば迷いは沈みます。

そして、45節、46節「イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて、言われた。『次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」

主イエスは、必ず全て実現するとおっしゃっておられるのは、新しいことではありませんが、それは、どのような場所においても、どんな時においても、実在される、おられる、ということであります。

主は、見えない人の目を開かれ、うずくまってる人を起こさせ、立ち上がらせるのであります。

旧約聖書の預言書、ホセア書6章1節から3節というところにこのような御言葉があります。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」

主なる神は、わたしたちの引き裂かれた心をいやしてくださり、打たれた傷を包んでくださるのであります。

主の愛が包んでくださる。

そのこと忘れてしまうのはわたしたちであるかもしれませんが、主は忘れないで、わたしたちを包んでおられるのです。

主は命を与えになられ、生かし、立ち上がらせて、心を開いてくださいます。

復活の主イエス・キリストは、続けてお語りになります。

ルカによる福音書24章47節から49節「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

人が立ち上がるのは、主イエス・キリストにあって、主と結ばれて、であります。

主イエス・キリストの十字架の死により、罪に支配された体は滅ぼされ、もはや罪の奴隷とはならないのであります。

主イエス・キリストの十字架の死のお姿にあやかるならば、主の復活の姿にもあやかれるからです。

もはや罪から、罪悪感と無価値感から、解放されています。

主イエス・キリストの目標はここにあり、わたしたちの目標はこのお方を賛美することにあります。

宣べ伝える人が向きを変えさせるのではありません。

向きを変える、また、向きを合わせるお方が宣べ伝えられている、そのことを知らせるのです。

悔い改めさせるのは宣べ伝える人ではなく、宣べ伝えておられる主イエス・キリストが悔い改めと導いてくださることに、救いの喜びがあります。

神によって、主イエス・キリストと結ばれた喜びがあります。

もう何も奪わないで、もう誰も傷つけないで、恐れることのない、主イエス・キリストは、どこへも行かないで、御手を離さないで、つないでいてくださっておられるのです。

そして、主イエス・キリストの弟子たちは、主イエス・キリストの証し人、「証人となる」と主に告げられます。

それは主がこう告げ知らせておられるということを宣言することでもあります。

弟子たちが、ということではなく、主イエスが、生きておられ、お語りになっておられることを証言する、というのです。

そして主イエス・キリストは、信頼され、約束を守ろうとされるのです。

それは、弟子たちが心配し落ち込んでしまわないためでもあり、主の愛は確かであることをお教えになられるためでもありました。

この愛は、父なる神からであり、父なる神から遣わされた主イエス・キリストからの愛であります。

主は、弟子たちが何を心配し、何に落ち込んでしまうのかをご存知でありました。

ですから、わたしはあなた方に送るとおっしゃって、それは、父なる神が約束されたものであり、その力を主イエスが送られるのであります。

主イエスが約束してくださったことに、弟子たちは励まされ、主イエス・キリストのものとされたことに深い慰めがありました。

自分たちは足りない、自分たちはふさわしくない、と思っている弟子たちを元気づけたのでありました。

天からの力を送るという主の約束は、彼らに命から命に至らせる良い香りとなったのでありました。

このキリストの香りは、父なる神にささげられる香りであり、救われる者たちには、命から命に至らせるキリスト、救い主を、知らせる香りです。

そして、主イエス・キリストは、そのキリストの香り漂う中、父なる神が約束された力に覆われるまで都エルサレムにとどまり、身を引いていなさい、と弟子たちに告げられました。

都にとどまっていなさい、ということは、身を低くして、高きところからの力をしばらくの間待ちなさい、ということであります。

高きに向かって、低きに降ること、でもあります。

そして、あわてず、急ぐな、ということです。

そして主イエスは、50節「そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」

ベタニアという村は、オリーブ山の麓にあって、かつて、主イエスと弟子たち一行が、ガリラヤからエルサレムへ向けての旅の終わろうとする所でありました。

復活された主イエス・キリストが、地上から上げられようとする時、このエルサレムへの旅の終わるその所へと主イエスは、弟子たちを導かれたのでした。

そして主は御手をあげて祝福されたのでありました。

その御手を上げられるお姿は、旧約聖書に出て来るあのアブラムを祝福したメルキゼデクのようであり、モーセのようであり、アロンのようであり、そして、神と人との間に立つ大祭司のようであります。

荒れ野において、あなたの行くその道がなだらかな道であるように。

吹きすさぶ風の中にも、ひたむきに歩いて行けるように。

両手を上げられる主イエスの御姿は忘れないようにと優しく呼びかけているかのようです。

どんな時も、主イエスが包んでいてくださる。

心を

ふさぎ、辛い時にも、別れる時にも、失う時にも、主イエスの愛が包んでいてくださることを思い起こさせるためであったのです。

そして、51節から53節「主イエスは祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏しを拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にて、神をほめたたえていた。」

弟子たちは、疑いと恐れから解放された喜びに満たされていました。

いつまでも変わることのない力に包まれているのを感じていたので、弟子たちは、地上で主イエスと離れることになりましたが、大いに喜んでいました。

恐れのために隠れてさえもいた弟子たちは、エルサレム神殿の境内に出て来て、神をほめたたえたのでありました。

そして今、わたしたちも神をほめたたえます。

父なる神の約束された力を主イエス・キリストはお送りくださるからです。

手を上げて、わたしたちを祝福してくださる主は、今も生き、ここにおられて、失われ消えることなく、また、離されることもなく、ここに、いつまでも、わたしたちを包んでくださるのです。

主は御手を上げられ、祝してくださいます。