「復活の主に会う」 マタイによる福音書28章1節~10節

「そこでわたしに会うことになる」と復活された主イエス・キリストはおっしゃいました。

今日この朝、わたしたちはイースターの日を迎え、このイースター礼拝を献げするため集ってまいりました。

桜の花も咲き誇り、春の風を浴びて散るたびに流されて、新しい緑が少しずつ運ばれてまいりました。

イースターと共に新しい月、新しい年度に入り、子どもたち、若い世代の方々は、入学、進級、また就職など、新しい環境に入っていく方々も多くおられることでありましょう。

近くにあって、遠くにあって、そのことを見守り、また応援する世代の方々、あるいはお仕事やご家族、また地域でさまざまな事に励まれておられる方々も、明るい陽の光の中、進んでおられることでありましょう。

またそれぞれの場所で、今この時を祈りの中にお過ごしの方々もおられると存じます。

さらに、出会いと別れ、笑顔と涙、さまざまな祈り願いを見つめておられる方々もいらっしゃることでありましょう。

わたしたちの救い主イエス・キリストは、「そこで、わたしに会うことになる」と、この世の寒さと冷たさに打ちひしがれることのないように、また起き上がれるようにおっしゃいました。

この世の争いや災いの知らせもしきりに、ひっきりなしに伝え聞くこの時にも、主の御声、その響きは全地に、その御言葉は世界の果てにまで向かうのです。

そしてその出で立つのは、天の果てからであり、その目指し行くのは、天の果てであり、その光から、そのあたためる熱から隠れうる者はひとりもいないのです。

しかし、その光の光から遠ざかるように、主なる神から離れ行く罪を知ってか知らずか犯し、その隠れた罪から主イエス・キリストを退けようとする力が働きます。

ユダヤの宗教的政治的指導者たちをはじめ、群衆となった人々は、偽りの熱狂のもと批判し、嘲り、主イエスを十字架につけてしまいます。

十字架の死につかれた主イエスのご遺体は、アリマタヤ出身のヨセフが願い出て受け取り、きれいな布に包み、ご遺体を置くことのできる大きさで横穴式の墓にお納めし、墓の入り口には大きな石を転がし閉じておきました。

それは、金曜日の安息日が始まる日没が近づいていたからです。

急いで葬りの支度、作業をしたのでありました。

主イエスと一緒に、ガリラヤからエルサレムにやって来た女性の人たちも、そのそばにおりました。

絵画や彫刻では、幼子イエス・キリストと母マリアを共にした聖母子像があります。

そしてまた、十字架から降ろされたばかりの主イエス・キリストを抱く母マリア、その美術作品をピエタと言いますが、悲しみを胸の中に抱え込む姿がうつし出されていると言えます。

墓に納めされた主イエス・キリストのご遺体。

金曜日の夕方から安息日が始まり、人々の行いが制限されるその中、かつて安息日を守らないと言って主イエスを非難した祭司長たちやファリサイ派の人々は、ユダヤ州総督のピラトの所に集まりました。

そして彼らは言いました。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと弟子たちが来て遺体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」

すると総督ピラトは言いました。

「あなたたちには番兵がいるはずだ。行ってしっかりと見張らせるがよい。」

そしてその通りに彼らはしました。

人は恐れから、重く大きな石で、閉ざし、封印をし、番兵をおきます。

しかし、人間の行うことは全て力を失ってしまうのです。

今日の聖書、新約聖書マタイによる福音書28章1節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」

ユダヤの安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方まで、安息日が終わって、週の初めの日というのは日曜日、その間、主イエス・キリストを十字架にかけた人々の、主に対する妬みと憎しみ、非難や批判、そして、恐れ、また、主イエス・キリストの十字架を見上げ、主のご遺体を葬る人々の嘆きと悲しみ、その人々の思いが、大きな渦となって虚しさの中に沈んで行くかのようであります。

しかし、その時は終わりを告げます。

これまでの嘆きと悲しみのあとに、週の初めの日、すなわち第一の日があけそめたのです。

人が考え行おうと意図したのではありませんでした。

ただこの世にあって虚しく、悲しかったのです。

どうすることもできない思いにいつまでもとらわれていたのです。

そしてまた、この世の罪の重さにただただ涙したのです。

どうすることも出来ず、しかし、主イエスの御遺体を納めした墓へマグダラのマリアともう一人のマリアが見に行ったのです。

「ある時」の終わった後に、です。

すると、マタイによる福音書28章2節から4節「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」

すると大きな衝撃を受けたのです。

心を激しく打つような力が働いたのです。

これまでのことを、今、変えさせる力がそこに起こったのです。

それは災いではなく、新たにする、その始まりです。

変わらない景色、変わらないと思っていた思いを変えさせる力が起こったのです。

見ると、主の御使い、主の天使がいます。

そこには、死があり、悲しみの沈黙だけが覆うものと、それだけの景色と思っていたのでありますが、そこに、主の天使が天から降って来られ、遠くではなく近寄って来て、墓を閉じていた大きな石をわきへ転がしたのです。

それは、天からの、すなわち神からのしるしであることを現わすかのように、その石の上に天使たちは座っています。

この妨げは、もう必要ありません。

この妨げは、もうは消え、転がしました。

そして、自らによって動けないようにしていたものは、このように取り除き、切り離しました、と天使たちはそこに座しています。

それは、あなたを助けるためです。

その姿の光り輝きは際立っています。

そしてその存在を通して、また、その大切なことを伝えようとしますが、墓の番をしていた兵士たちは恐ろしさのあまり、震え上がり死人のようになってしまいます。

彼らは恐れによって命じられ、恐れによって支配し、恐れによって支配されていたのですからそうならずにはおられなかったのです。

しかし、マタイによる福音書28章5節から7節「天使たちは婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねと言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから急いで行って弟子たちにこう告げなさい。あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。確かに、あなたがたに伝えました。』」

主の天使たちは、驚く婦人たちに言いましたが、それはかつて主イエスが弟子たちにお語りなっておられた言葉でした。

まず、「恐れることはない」ということです。

以前、主イエスが弟子たちを船に乗せてガリラヤ湖の向こう岸に行かせることがありました。

逆風と波に悩まされていた弟子たちに、湖の上を歩いて主イエスが御声をかけられました。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

「恐れるな」とは「大丈夫だ」ということ、「乗り越えて行ける」ということ、そして、この世の逆風と波に打ちひしがれないように、この御声で、また起き上がれることができる、ということです。

そして今、主イエスのお収めされたと思っていた墓の前で、婦人たちは、主の天使たちを通してこの言葉を聞くのです。

主イエス・キリストが、かねてお語りになっていた、そのことが完全に実現したのです。

それは、主イエスがかつて十字架の死と復活を予告されておられたことです。

終わるべきものが終わり、始められるべきものが始まったのです。

ですから、恐れない、大丈夫だ、と天使は告げ、主イエス・キリストの御言葉をくりかえすように伝えるのです。

どうしても見えなくなってしまったり、聞こえなくなってしまうからであります。

この世にあって、婦人たちは死と滅びを、すなわち、墓を見つめていました。

しかしその「墓は空である」と主の天使は言います。

主イエス・キリストは、「ここにはおられない」、死と滅びにとどまってはおられないのです。

「ここにはおられない」ということは、復活されたということだったのです。

これまでにくりかえし聞いたことだけれども、今ここで分かったのです。

天使たちは、主イエス・キリストは「死者の中から復活され、あなたがたより先に、ガリラヤに行かれる」と言います。

主は先に行かれるのですが、今、ここに生きておられます。

復活されたのです。

今ここで、死と滅びについたままではないのです。

神と遠く離れたところにいるということ、それは終わります。

神に背いたまま悲しみと苦しみの道を行くこと、それは終わります。

それらは終わるためにあったのです。

ですが、終わりたくない、いつまでも罪と滅びの支配のままでいたい、と暗闇にとどまることを選ぶことがあるかもしれません。

しかし、その悲しみは払いのけられ、束縛は払いのけられます。

ですから、大きな、スケールの大きな喜びを持ったのです。

8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」

これまでにない、そして、自分たちでつくり出したのでもない、神から湧き出る、与えられる喜びを持ったのです。

ですから急いだのです。

墓を立ち去ったというのは、そこから急いで離れ去ったということです。

神の愛と赦しの大きさに、死と滅びにとどまっていることができず、主イエス・キリストの復活により、大きな喜びを持って、離れ去るという姿、仕方となって現れたのです。

すると、9節「イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」

主イエス・キリストは、今ここに生きておられるので、行く手に立っておられ、御声をかけておられます。

あなたに「おはよう」。

ここで「おはよう」。

あなたに出会って「おはよう」。

ここで出会って「おはよう」。

「おはよう」とは、「喜ぶ」という意味。

「喜びを喜ぶ」という意味です。

死からよみがえられた主イエス・キリストに出会った喜びを喜んだのであります。

ですから、婦人たちは思わず、主イエスの御足にしがみついて、御前にひれ伏してしまったのでありました。

あの幼子を抱き、十字架から降ろされた時に抱き、そして今、復活の主イエスの御足を抱く、その人に、10節「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

復活された主イエス・キリストは、人々の罪を赦し、神の愛の大いなることを現わされ、父なる神のもとへ行くことになるので、しがみつくのではなく、ガリラヤに行くようにあなたのいるべきところ、すなわち、今ここに生きている、という所に行きなさい。

そこで出会える、待っておられる、悲しみも喜びも知っておられるお方が、死と滅びの悲しみと復活の喜びを持って出会ってくださいます。

神の力は、この世の死と滅びに際しても限界がありません。

主は、十字架の死より復活され、死と滅びの悲しみと苦しみを打ち破り、罪の支配から出て行き、わたしたちを救い出してくださったのです。

わたしたちは、神から離れたままではなく、近づき、今、新しい命に目覚め、力ある主イエス・キリストと一つに結びつけられたのです。

ですから、イースターの今日、主はおっしゃいます。

「あなたがたは恐れるな」「行け、告げよ」、そしてそこで「あなたはわしと出会うことになる。」