「ここにいる」 マタイによる福音書12章38~42節

「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と、人の子主イエス・キリストはおっしゃいました。

「三日三晩」というのは、ひと時、完全にその中にいるということを表しておられました。

そのように、主イエス・キリストは、御自身がどこにおられるのかを、また、どこにおられることになるのかを、よくご存知でありました。

この世へと来られた主イエス・キリストは、父なる神からこの地上へお送りになられたことをご存知であり、それは御降誕という在り方で実現しました。

この世に幼子イエスはお生まれになられ、成人となられ、この世に送られた使命を果たそうとされるのであります。

ですので、御自身がどこにおられるのかを主イエスはご存知であり、キリスト、救い主は、今ここにおられるということを御自身十分にご存知でありました。

わたしたちは自分が、また、わたしたちが、現時点でどこにいるのか分からないということがあるかもしれません。

ある時ある場所に限定された、その所にいるということは言えるかもしれません。

しかしわたしたちは、すぐ先どうなるかも知らずにいるかもしれません。

使命がないのではありません。

キリストにより愛すること、また、キリストにより祈ることという使命は、今この時に、また、この時だからこそあり、弱いところ、小さいところに発揮され、弱さ、小ささを通して力強く、また大いに現わされるのであります。

主イエス・キリストは、小さな幼子としてこの世にお生まれになられ、静かな、そして確かな暮らしの中で成人となられ、ガリラヤという限られた所から、その使命を始められました。

それは小さい種が光を浴びて熱を蓄え発芽して行くようであります。

わたしたちの教会・幼稚園の庭の落葉樹の枝がすっかり切り払われていたのにもかかわらず、新しい芽を出し、葉を出し、枝を伸ばして行くかのようであります。

主イエス・キリストは父なる神からこの世へと遣わされ、その力によって伸び、広げられて行かれたのでありました。

そしてそれは、この世で恐れと不安に怯え、その重さの中で苦しむ人々を救うためにでありました。

それは立っているようで倒れている人、また、倒れそうになっているのにもかかわらず立っている人を助け、回復されるためでありました。

主イエス・キリストは、そのためにある時、ある限られたところから始められたのです。

町や村を巡り行き、病をいやされ、悪霊を追い出し、奇跡を行われました。

人々にとって、また、わたしたちにとってそれは奇跡でありますが、主イエス・キリストにとってそれは御自身の力である業をそのまま現わされたということでありました。

そして、新約聖書の福音書によると、主イエス・キリストは、その力ある業を、数々と行われると同時に、神の国、天の国が近づき、制限と制約のあるこの世であるけれども、神の国、天の国は来ているのだということを語り伝えられました。

この世にあっては、いろいろと条件が課せられ、自由にならないということが多く、そのことによって、わたしたちは苦しんでもいます。

わたしたちの心、体、また人と人との関係、社会、そしてまた、泣く時、笑う時、嘆く時、求める時、失う時、保つ時、放つ時があり、わたしたちは労苦を重ねることも多くあるかもしれません。

しかし、主イエス・キリストをわたしたちのためにお送りくださった父なる神は、すべてを時宜に、ふさわしい時にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられるのです。

表面的には有限であり限定されているかもしれない、しかし、父なる神は人にお与えになられ、また、すでにお与えになられたのです。

永遠の命の希望に生きることができるように、主イエス・キリスト、救い主を人々の「間」にお与えくださったのです。

そしてこの「間」は広げられ、神の国、天の国は広げられて行くのでありますが、それでもなお、父なる神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていないのです。

しかし、父なる神は人々が希望を失ってしまわないように、主イエス・キリストを通して「しるし」をお与えになったのでありました。

それが今日の聖書、新約聖書マタイによる福音書12章38節から42節、新共同訳聖書では「人々はしるしを欲しがる」と小見出しがついています。

主イエス・キリストがこの地上においてその使命を果たそうとされる、すると、この世の人々の間には喜びが広がるのと同時に、激しい恐れと不安が広がったのでありました。

それはこの世にあって力をふるっていた者たちにおいてでありました。

今日の聖書箇所のひとつ前の節、マタイによる福音書12章37節にはこうあります。

「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

主イエス・キリストがおっしゃった言葉でありますが、これは当時のユダヤの民の指導者たちに向けて語られています。

人を義とし、人に罪ありとする、そのような規定を自分たちは手中にしているという人々。

人を義とし、人を罪ありとするものを自分たちは所有し、自分のものとして持っている、そしてそれは、自分たちの自由になる範囲である、とする人々に、主イエス・キリストは、お語りになったのでありました。

主イエスは「自分の言葉によって」とおっしゃいます。

その人が義とされ、その人が罪ありとされるのは、「自分の言葉によって」とおっしゃっておられるのです。

しかしそれは、ユダヤの指導者たちの思っていること考えていることと言葉の表面上は同じようではありますが、まったく違うことでありました。

この世の人が持っているものと、神がお持ちになっているものは、この時、まったく異なっていたのです。

それでも「自分の言葉によって」ということはとても重要なことでありますが、ユダヤの民の指導者たちは自分たちに固執してしまうこととなってしまったのでありました。

この世での恐れと不安により、また、恐れと不安が心の中にいつまでも残っていて、それが繰り返し、たびたび出て現れ、そのことにより心が頑なになってしまっていたのでありました。

その重さ、辛さに人々は苦しんでいたと言うこともできます。

主イエスが「自分の言葉によって」とおっしゃると、マタイによる福音書12章38節「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。」

お語りになっておられる主イエスに律法学者、ファリサイ派と呼ばれる民の指導者たちは、「しるしを見せてください」と言います。

その時にまで、数々のいろいろなところで主イエスが多くの奇跡を行われ、それを見て、また、聞いた人々も大勢いる、また、会堂で主イエスがお教えになられ、お語りになったことをも見て、また、聞いている、それにもかかわらず、「しるしを見せてください」と求めるのであります。

律法学者、ファリサイ派の人々の心は、すっかり頑なになってしまっていたと言うことができるかもしれません。

自分たちの所有し持っているものに見合うしるしを求めているからです。

求めるのはわたしたちで、承認するのはわたしたちであるのだから、しるしを出しなさいと言うのであります。

それは自分たちの言葉で、でありますが、どこまでも自分たちの持ってるもので裁くということを表しています。

そこには、委ねる、信頼するという姿勢はありません。

そしてそこには、愛はなく、疑いと恐れを手放すこともなく、不安にとらわわれたままの姿があります。

表面的にではなく、人々の内面的に怯えたその表情を、主イエス・キリストは愛の窓からご覧になられ、39節、40節「イエスはお答えになった。よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしの他には、しるしを与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中に入ることになる。」

ユダヤの民の主導者たちに、彼らのよく知っていた旧約聖書に出て来るヨナを用いて、主イエスはお答えになられました。

ヨナは神が行くようにと示されたニネべを逃れようとしますが、乗っていた船から海へ放り込まれてしまい大魚に飲み込まれてしまいます。

そこで、三日三晩、大魚の腹の中でヨナは祈り、陸地に吐き出され、ユダヤから遠く離れたニネベに行き、神の御心を深く知ることとなりました。

神は、ユダヤだけではなく、ニネベの人々をも愛しておられるのです。

主イエス・キリストは、この世の「しるし」として上げられました。

それは、ヨナを遣わされた神は、今も生きておられ、遠く離れた地において、また、近くこの地にあっても、神は御心をお示しになり、それが語られることをお望みになっておられるということです。

そのことを主イエス・キリストは、御自身の十字架の死の後、三日後に復活されることとあわせて、お語りになっておられるのです。

「よこしまで神に背いた時代の者たち」は、自分たちの持っている範囲内で考えられるしるしを求めますが、この時代には、ヨナのしるしが与えられていると主イエスはおっしゃって、今この時も、神の御心はこの歴史の中に生き、動き、存在するのであります。

ヨナは、神の御心の中で、「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。」「救いは主にこそある。」と祈りをささげて言いました。

神がここにおられることを証言するヨナのしるしを主イエス・キリストはお語りになり、ヨナの遣わされたニネべの人々についてお語りになります。

マタイによる福音書12章41節「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある。」

ニネベの人々の悪が神の御前に届き、ヨナは悔い改めの説教を語り、ニネベの人々はそれを聞き、受け入れ、神はニネベの人々が悪の道を離れたことをご覧になられました。

しかし今の時代、ここに救い主イエス・キリストがおられるのにもかかわらず、悔い改める、すなわち、愛と信頼、その調和に向きを変えようとしない人々はますますその恐れと疑いによる不安の重さの中を生きることになるだろうというのです。

「ここにヨナにまさるものがある」のにもかかわらず、向きを合わせないのはなぜなのかということでもあります。

ヨナは逃れようとしましたが、神の御心と試しの中で向きを変えることになりました。

向きを、神への感謝に変え、愛に変え、赦された者として委ねることにしました。

さらに、主イエス・キリストはおっしゃいます。42節「また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。」

ニネベのようにユダヤから遠く離れたシェバ、その南の国からもユダヤの王、知恵の王ソロモンのもとに女王が来訪したのであります。

そしてシェバの女王はソロモン王に言いました。

「あなたのお知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの民はなんと幸せなことでしょう。」

「ここにソロモンにまさるものがある」と主イエス・キリストはおっしゃいました。

そして「見よ」とおっしゃいます。

ヨナにまさり、ソロモンにまさるお方が、ここにおられます。

わたしたちは今ここに、すべてにまさるお方がおられることを見るのです。

十字架の死より復活された主は、すべてを赦し、すべてを愛され、ここにおられるのです。