「地上でつなぐこと」マタイによる福音書16章13節~20節

「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と主イエス・キリストはおっしゃいました。

日本の国は多くの災害に見舞われてきましたが、2011年3月11日に発生いたしました東日本大震災から十年となろうとしています。

当時のニュースや記録の映像を改めてみると、胸が詰まります。

魂に平安と慰めがあるようにと、祈り念ずるばかりです。

10年前の3月、そのころは現在と同じように、学校では卒業式の準備をしていたという子どもたちも多かったことでしょう。

大震災による避難者も大勢いる体育館にて挙行された卒業式。

涙ながらに答辞を述べた宮城県気仙沼市の中学三年生男子。

その言葉を再び思い出します。

その答辞全文です。

「本日は未曽有の大震災の傷も癒えないさなか,私たちのために卒業式を挙行していただき、ありがとうございます。ちょうど十日前の三月十二日。春を思わせる暖かな日でした。

私たちは、そのキラキラ光る日差しの中を、希望に胸を膨らませ、通い慣れたこの学舎を、五十七名揃って巣立つはずでした。

前日の十一日。一足早く渡された思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、十数時間後の卒業式に思いを馳せた友もいたことでしょう。「東日本大震災」と名付けられる天変地異が起こるとも知らずに…。

階上(はしかみ)中学校といえば「防災教育」といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私たちでした。しかし、自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、私たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。つらくて、悔しくてたまりません。

時計の針は十四時四十六分を指したままです。でも時は確実に流れています。生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。

命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です。

私たちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても、何をしていようとも、この地で、仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。

後輩の皆さん、階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友だちが、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしてください。先生方、親身のご指導、ありがとうございました。先生方が、いかに私たちを思ってくださっていたか、今になってよく分かります。地域の皆さん、これまで様々なご支援をいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

お父さん、お母さん、家族の皆さん、これから私たちが歩んでいく姿を見守っていてください。必ず、よき社会人になります。

私は、この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。

最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。」

この答辞に出てくる「天を恨まず」というのはおそらく古代中国の古典論語に出てくる孔子の言葉、「天を怨みず、人をとがめず」からでありましょう。

そしてその論語の言葉、「天を恨みもせず、人をとがめもせず」の後には、「我を知る者は、其れ、天か」とあって、「私のことを最もよく知っているのは、天でああろうぞ」と結ばれていますが、

苦境にあって「私のことをわかってくれる者がいない」ということの中にあって、それでも、先端が天まで達する階段が、家に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下りたりしていたという夢を、旧約聖書に登場するヤコブは見ました。

旅の途上とある場所で、石を一つ取って枕にしたヤコブに、主なる神は傍らに立っておっしゃいました。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ここに、天と地を結ぶ階段があって、神の御使いたちが上り下りし、神に見出され、天とつながる人物がいると聖書は語っています。

天を見出す者は幸いです。

ヤコブが石を一つ枕にしなければならないような状況の中で、その人生そのものが問いかけてくる中で、その問いにヤコブは誠心誠意応えたのでありました。

天はこの人とつながり、この人は天とつながっていたのです。

そして今日、わたしたちに与えられました聖書は、新約聖書のマタイによる福音書16章13節~20節「ペトロ、信仰を言い表す」と小見出しが付けられています。

主イエス・キリストのこの地上でのご生涯で、苦難と十字架への歩みが始まろうとしている、その時の出来事であります。

主イエスと弟子たち一行は、一緒に進んでいきます。

町や村を巡って、神の国を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出されます。

そしてある時、多くの人々にパンを分け与えられた奇跡の後、一行が進んで行く途中で、パンを持ってくるのを忘れていた弟子たちに、主イエスはおっしゃいました。

「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」

弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、主イエスがおっしゃっておられる、と受け止めてしまいますが、そうではありませんでした。

主イエスは、見えるものではなく見えないものに注意するよう、その時、パン種という言葉をたとえとしてお用いになられました。

それは当時の律法学者とも言われるファリサイ派、そして、おもに神殿を中心とした貴族とも言われるサドカイ派、その教えを主イエスはパン種にたとえられ、ファリサイ派、サドカイ派の教えに「注意しなさい」とおっしゃったのです。

その教えは、「見るもの」「見せるもの」の教えと言えます。

「見るもの」「見せるもの」の教えの中には、悪意や邪悪などの古いパン種が入っていて、それを「これは違う」と、取り除くように、主イエスは注意を促されたのでありました。

それは、主イエスの苦難と十字架の死、そして、復活への道が今、始まろうとしている時のことでありました。

そして、今日の聖書箇所、マタイによる福音書16章13節「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言ってるか』とお尋ねになった。」主イエスとその弟子たち一行は、ガリラヤ湖の北東約40 キロ離れたフィリポ・カイサリアに行きました。

この地は、かつてローマ皇帝アウグストゥスが、ユダヤのヘロデ大王に与えたもので、ヘロデ大王は、ここに皇帝のための神殿を建てておりました。

のちに、大王の子ヘロデ・フィリポは、この町を広げ大きくし、ローマ皇帝カエサルに敬意を表してこれをカエサリアと名付けました。

そしてもう一つの同じ名の町と区別するために、自分の名をつけてフィリポ・カイサリアとしました。

このような経緯からしても、フィリポ・カイサリアの町には、ローマ皇帝を礼拝する神殿、また、ギリシャの神々を祀る神殿、さらに古くからは偶像を礼拝するもととなる地でもありました。

そのような地へ主イエスは弟子たちと共に入られたのです。

そして主イエスは、弟子たちにお尋ねになりました。

「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか。」

主イエスのおっしゃる「人の子」は、ご自分のことであります。

この時、主イエスはご自身のことを言いふらすようなことはせず、また、そうさせず、隠すかのようにご自分のことを「人の子」と表現されています。

そしてさらに、ユダヤの考え方の一つに「人の子」というのは、天地創造の前から在る者で、世の終わりに神に代わって、裁き、救う、救い主、メシアの働きをなす者という意味内容が含まれていました。

マタイによる福音書は、主イエスが弟子たちに尋ねているその質問の中に、主イエスは答えを与えておられることを、良い知らせとして記しています。

そしてそのことは、わたしたち一人ひとりに語られている主イエスの問いの中に、すでに答えが与えられているということがあり、わたしたち一人ひとりの人生が問いかけるその問いの中に、すでに答えが入っていて与えられているということであります。

「あなたは、わたしを誰だというのか」と主イエスはおっしゃいます。

14節「弟子たちは言った。『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか『預言者の一人だ』という人もいます。

この時すでに、ユダヤでは主イエスについてさまざまと言われていました。

それは現在の私たちの社会においても、ある人物について人々がいろいろなことを言っているのと同様であるのかもしれません。

さまざまな神でないものを神とする偶像を礼拝すると言われる、そのようなフィリポ・カイサリアの地で、ユダヤの人々もそれぞれの立場からいろいろなことを言っている。

それは、知識ということでは豊かに富んだ豊富な知識から来ているかもしれません。

しかしそれでも、それを超えることができないのであります。

説明や定義は、人々の間で十分になされているのかもしれません。

しかし、それらを超えた、わたしの、また、わたしたちの、魂の救いはどこにあるのか、ということであります。

生きる時も死ぬ時も、わたしたちの救いは、また、わたしたちの慰めは、どこにあるのかということです。

そしてその問いを救い主ご自身がお持ちになっておられるのです。

この時、主イエスはその問いを生きておられるのです。

人々はこの世で「見るもの」また「見せるもの」の教え、同時の宗教的政治的指導者たちの教えを見て、また、見せられて、いろいろなことを言っていました。

主イエスを「洗礼者ヨハネだ」という人、「エリヤだ」、「エレミヤだ」、そして「預言者の一人だ」と言う人々がいましたが、その名があげられた人物たちは、ユダヤの人々によって認められず、好きなようにあしらわれ、苦しめられたのでありました。

そこで15節「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」

この世で、あなたが生きる時、また、死ぬ時、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスはおっしゃるのです。

人々はいろいろなことを言っている。「あの人はこうだ」「この事はこうだ」と言っている。

では「あなたは何と言うのか」と主イエスはおっしゃるのです。

すると弟子の一人16節「シモン・ペトロが『あなたはメシア、生ける神の子です。』と答えた。」

ペトロは「あなたはメシア」すなわち、「救い主だ」と応えます。

ペトロはもともと漁師であり、情熱的でありますが、その力強さと同時に、弱さというものを自分自身に感じていたかもしれません。

勇ましいところとそうでないところがあって、その間を揺れ動いているということがある、と言えるかもしれません。

しかしそれはまた、この世で多くの人が深く感じている心の動きなのかもしれません。

そのペトロが、どこにおいても、何をしていようとも、「あなたは救い主です。」「神の子です。」と主イエスに応えるのです。

17節「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」

主イエスは、ペテロの言葉に、「あなたは幸いだ」とお答えになられます。

それは、主イエスに「あなたはメシア、すなわち、救い主であり、生ける神の子です。」という言葉に、父なる神が示されたことが語られているからです。

人がこう言っているからではなく、神があなたに示されていることを語っていることに主イエスは、「あなたは幸いだ」とおっしゃったのです。

そこに、まじり気のない純真な神から与えられた信仰をご覧になられるのです。

そして、その神からの信仰は、わたしたちにも与えられているのです。

主イエスは、生ける神の子だからです。

18節から20節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。それから、イエスは、御自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられた。」

主イエスは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいます。

「この岩」というのはペトロのことであると言えますし、また、そうではないとも言えます。主イエスは、ペトロにお語りなっているということではそうですが、ペトロがそうだというのではないのです。

教会を建てるのは救い主イエス・キリストであり、苦難と十字架の死、そして、復活によって教会を建てるのはこのお方であるからです。

主イエス・キリストは、陰府の力、すなわち死と滅びの力に打ち勝ち、勝利されたのです。

主イエスは復活され、勝利者となったのです。

勝利者イエスは、天の国、神の国の鍵を授けられます。

主イエスのおっしゃる地上で、また、天上で「つなぐ」というのは、門の鍵を使って「閉じる」ことで、その反対に「解く」というのは、鍵を使って門を「開く」という意味です。

死と滅びに勝利された勝利者イエスが、天の国へと門を開いてくださったのです。

人は誰もその門を閉じてはならないのです。

生きるのも死ぬのもわたしたちは、この勝利者イエス・キリストのものであることが、わたしたちの慰めであり、それは確かな拠り所です。

勝利者イエスは、死と滅びのあらゆる力からわたしたちを解き放ってくださいます。

天の父なる神は、あなたを知っており、わたしたちを知っておられます。

ですから、救い主イエスを通して、お語りになられます。

「わたしは、あなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

この地上でつなぐべきこととは、天の国の門を開くことなのです。