「しもべになるということ」 マタイによる福音書20章20節~28節

「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

主イエス・キリストは、エルサレムへ上っていく途中、おっしゃいました。

わたしたち一人ひとりがそうであるように、主イエス・キリストはこの世において使命を与えられ、その「大きな道」の歩みを進めておられたのでありました。

しかしその「大きな道」を一足ひと足進めて行くことによって見えてきたのは、「狭い道」でありました。

主イエスは、それがどうして「狭い道」で「狭い門」であるのかをよくご存知であられましたが、多くをお語りにはなられませんでした。

何故なら、まさに主イエス・キリストは「大きな道」に取り組んでおられるその最中にあったからです。

今日、わたしたちの開きました聖書は、新約聖書マタイによる福音書20章20節からでありますが、その前の聖書箇所20章17節から19節に「イエス、三度死と復活を予告する」という聖書箇所があります。

三度というのは三回死と復活を主イエスは予告された、その三回目ということです。

20章17節から19節にはこう記されています。「イエスはエルサレムへ上っていく途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今わたしはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」

主イエスは、招いた弟子たちと一緒に「大きな道」を進むことに取り組んでおられますが、その途上で三回死と復活を予告されます。

三回というのは、「確かに」「完全に」ということでもあります。

主イエスは、ご自身に与えられた使命は、確かに完全に成し遂げられると信じておられました。

それを支え、主イエスが信じておられたのは、父なる神でありました。

そしてそのつながりは「わたしを見た者は父を見たのだ」とおっしゃるほどでありました。

それほどまでに主イエスは、わたしたちに対する父なる神の御心をそのままに現わしてくださったのであります。

主イエスは、エルサレムへ上って行かれるその途中、弟子たちにおっしゃったのでありました。

これから行く、その所にいるエルサレムの祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるということです。

「大きな道」に取り組み進んでいくと途中、必ずそれをよく思わない者、また、引き止めようとする者たちが現れると言われますが、当時ユダヤの中心地でもあったその所においても、主イエスは、宗教的政治的指導者たちに引き渡され、死刑が宣告されてしまいます。

それは、完全に消し去られ、なくされてしまうということでありました。

異邦人に引き渡すということも、ユダヤ人としては考えられないことと言えます。

そのように侮辱され、鞭打たれ、十字架刑につけられる、と主イエスはおっしゃるのでありますが、十字架の死の後、三日目に復活されるということをあらかじめ弟子たちに告げるのです。

主イエスは、確かに繰り返し十字架の死と復活を予告されるのですが、弟子たちにはそれが見えていません。

彼らは、「広い道」を進んでいると思っていたからです。

この「広い道」は、この世で力あるように見えて、弟子たちの心はこの世の「広い道」「広い門」に心惹かれていたのでありました。

「そのとき」と、今日の聖書マタイによる福音書20章20節「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。」

ゼベダイの息子たちとは、あのガリラヤ湖で漁師をしていたヤコブとその兄弟ヨハネ。

主イエスに招かれ弟子となって従っていたのでありました。

その父親ゼベダイの子たちと、その母親が一緒に主イエスのところに来たというのです。

先ほどのマタイ20章17節に、「イエスはエルサレムへ上っていく途中、十二人の弟子たちだけを呼び寄せて」とある通り、弟子だけを呼び寄せられたということは、それ以上に他の人たちも多く、ガリラヤからエルサレムに向かう旅に同行していたということでありました。

そしてその中には、ガリラヤから一緒に弟子たちだけではなく、女性たちもその一行に加わっていたのでありました。

その中に、このゼベダイの息子たちの母親もいたのであります。

そしてその息子たちと一緒に、主イエスに近づいてひれ伏し、何か願い事をしたのでありました。

直接、すぐには伝わらなかったのでありましょうか、願い求める母に主イエスは、21節「『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」

母の願いは、主イエスが「王座にお着きになるとき、二人の息子の一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左につけてください」というものでした。

このとき、母は、主イエスの御国が来ると思ったのでありました。

しかしそれは、ユダヤの国を治める政治的指導者として、主イエスがこの国を治め、やがて御支配されるという意味での考えでありました。

ですから、その御国が実現した、その成功の暁には、「わたしの息子たちをあなたの右にあなたの左に」すなわち、「第二番目の指導者としてつけてください」と地位へのこだわりから言うのです。

主イエスは、あるときをおっしゃいました。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てたものは皆、その百倍も報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」

自分に深く関わるものがここに挙げられています。

そしてその中に子供も入っています。

主イエスの御言葉は受け止め方によっては大変厳しく聞こえます。

しかし、心の中で、握りつぶしてしまうのではないかと思うくらい強く自分のものとし握っているその手をひとたび手放した者は、と主イエスはおっしゃいます。

心の中で、主イエス・キリストの御名により、自分に関わるすべてのものを手放した者は、皆、その百倍もの報いを受けるというのです。

そしてその祝福は大きく、永遠の命を受け継ぐというのであります。

主イエスは、二人の息子と母親におっしゃいます。

22節前半、「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』」

主イエスは、母親だけではなく、主イエスの弟子でもあったその二人の息子たちに向かっても「あなた方は自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃいます。

そして、主イエスの使命である「わたしの杯」についてお語りになられたのでありました。

それは、主イエスが救い主として歩むことになる道を指し示していました。

主イエスが「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」とおっしゃるのに、二人が「できます」と言うと、23節「イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかしわたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。』」

「杯」には二つの面があると言えます。

一つ目は、旧約聖書の詩篇23篇5節「わたしを苦しめるものを前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯をあふれさせてくださる。」

これは、神が喜び迎え、歓迎してくださる、歓迎の杯です。

二つ目は、旧約聖書イザヤ書51章17節「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ。」

神の怒りをもととした憤りの杯です。

主イエスのおっしゃる「わたしの杯」とは、この憤りの杯です。

神の怒りをもととしているので、この「杯」を飲むということは罪に対する神の怒りの苦しみと死を受けることを意味していました。

主イエスは御自身の使命は、すべての人が罪赦され、救われることにありました。

そしてその人、一人ひとりが、自分の使命を追い求めることができるようになることでした。それは、その人の職業ということではありません。

信仰を追い求めること、希望を追い求めること、そして、愛を追い求めること、その自由を持てるようにすることであります。

主イエス・キリストは、その大きな道に取り組んでおられるのです。

そしてそのために、御自身のその身を前へと投げ出されるのであります。

母と二人の息子たちは、自分たちの位置へのこだわり、地位へのこだわりから主イエスに求めますが、主は、はっきりと、前へと、命を投げ出されるのであります。

右に、左に、という位置へのこだわりから、自分が何を願っているのか分からなくなっている者たちに、主イエスは「わたしの杯」を示されるのです。

それは、神の怒りを主イエスが救い主としてお受けになり、人々の罪赦され、すべての人は罪による苦しみと死の束縛から解かれて自由になるため飲まなければならない杯でありました。

そして、その苦しみをやがて、ヤコブはヘロデ王の伸ばす迫害の手により剣で殉教し、ヨハネは主イエスの名により苦難を受けパトモスと呼ばれる島に追放されることになります。

ですから、主イエスは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」とおっしゃいますが、誰が、何処に、ということは父なる神が決められることであって、人々が知ることのできないことであり、主イエスも決めることができないのです。

この神の領域をあれこれと詮索しようとすることが、的外れになってしまっていることに気がつかずにいるということから、主イエスは導き出されるのです。

しかし、マタイによる福音書20章24節から27節「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。』」

 主イエスの十二人の弟子たちは、誰がどの位置に、また、どの地位にということに、大きな関心を持っていたと言えます。

ですから二人の弟子が、主イエスに願い出たことで腹を立てたのでありました。

そこで、主イエスはおっしゃったのでありました。

この世の民は、この世の支配者、この世の権力者が、力を振るっている中に置かれている。

支配者が民の上に君臨し、偉い人が権力を振るっている。

「しかし」と主イエスは違う道を追求することをお教えになられます。

この世の人は偉くなりたい、一番上になりたい、先頭に立ちたい、と願い思うものであるかもしれません。

またそのことにより、大切なものを見失ってしまっていることもあるかもしれません。

主イエス・キリストは、それとは違う力をお語りになられます。

それは仕える者、そして僕というあり方から新しい生き方、新しい命を生み出そうとされるのです。

このあり方によって、この命によって、一人ひとりが自分の使命を追い求めて行くことができる愛と調和が生まれます。

主イエス・キリストは、おっしゃいます。28節「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」仕えるとは、神と人との間に立ってとりなす祭司のように、神と共に歩むということです。

そして、神と一つとなるために、いつでも神の御前にいるということです。

神と共に過ごし、神の御心を受け入れることです。

仕える者、そして、僕は、主人を完全に信頼しています。

不安、恐れの時も、その信頼を持って歩み、従って行き、御前に立ちます。

それは、父なる神にまったく信頼し、与えられた使命をまっとうする責任をすべて受け入れられた主イエス・キリスト、その御姿そのものです。

「皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」とおっしゃる主イエス・キリストは、多くの人々に、これによって生きるようにと新しい命をお与えになられます。

多くの人の身代金として、多くの人達の代わりの代価として、御自分の命を、主イエスは献げられたのです。

この狭い門を、僕となられたお方が「大きな道」となられ、わたしたちに仕えてくださったのです。

こうして、天の父なる神の御国が、キリスト・イエスのもとに立て上げられるのです。

そしてあなたに、神と共に歩み、神の御前にいる使命が授けられるのです。