「雲の中から声が」 マタイによる福音書17章1節~13節

「光り輝く雲が彼らを覆った」という出来事を、今日、わたしたちに与えられた聖書は語っています。

空に浮かぶ雲、また、大空を覆う雲は多くの水を運んで来ますが、今日、わたしたちの開きました聖書は、神の栄光が運ばれて来たということを述べています。

それは、わたしたちにとってよい知らせであるということを新約聖書の福音書は証言するのであります。

主イエスの弟子のペトロが「あなたはメシア、救い主です」と、心の中にあった信じる信仰を主イエスに言い表したあと、主イエスは弟子たちに語り始められます。

「救い主である」「メシアである」そして「神の子である」と、その信仰を告白する者たちに、主イエスは苦しみを受けること、十字架の死につかれることをお語りになり始めます。

そしてそれは、それで全てが終わり、消えて失われてしまうというのではなく、「復活することになっている」と主イエスは弟子たちに告げられるのです。

主イエスは、紀元1世紀当時、ユダヤの地方においてそのことを語りになり始められますが、弟子たちは主イエスのお語りになられる苦難と十字架の死、そして復活がどのような事なのか、この時よくわかっていませんでした。

しかし、主イエスとその弟子たち一行は、ある一定の方向へ向かって、それはユダヤの中心地と言われるエルサレムに向かって、進んで行くこととなるのです。

主イエスは、今、信仰を言い表した弟子、その信仰告白がなされたその時から、ご自分は必ずこうなるということを打ち明け始められるのです。

それは、信じる信仰があっても、苦しみがやって来るのだということを伝えようとしているというよりは、救い主を信じる信仰が、あなたを手に乗せて運んで行くということを語ろうとしているのです。

主イエスが、ご自分が必ずエルサレムに入って当時のユダヤの宗教的指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められてから、今日の聖書箇所、マタイによる福音書17章1節「六日の後、イエスは、ペテロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登られた。」

「六日の後」とあります。主イエスの弟子たちは、主イエスがおっしゃることが何のことだかよくわからない、おっしゃることがどのような意味なのか掴めないまま六日たったのであります。

この17章1節の前、マタイによる福音書の16章27節から28節にはこうあります。主イエスはおっしゃったのです。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

弟子たちは、その時、主イエスが何のことをおっしゃっておられるのかがよく分かりませんでした。

主イエスは、今、目の前におられ、人々の間でめざましいをお働きをなされておられる。

苦しみと悲しみ、その困難の多い暮らしの中で、救いが与えられたことに人々は喜びと安らぎを与えられている。

しかし、主イエスが弟子たちにおっしゃっていることを、弟子たちはかみくだくことができずにいたのです。

彼らは、この世ですぐ目の前にしていることにすっかり入り込んでしまっていたから、と言うことができるかもしれません。

主イエスの行っておられること、そして、その主イエスのもとに集まって来ていた群衆と言われる大勢の人々に、心をひきつけられて、弟子たちは、我を忘れてしまうかのようなこともあったのかもしれません。

主イエスは、ご自身のことを、そして、救い主としてなされることを、お語りになっておられるのですが、この時、弟子たちにはそれがよく見えていませんでした。

しかし、それもそのはずで、この時、主イエスがおっしゃっておられるのは「やがて」のことであったからです。

「やがて」「わたしは来る」ということ、そして、「それぞれの行いに応じて報いる」ということ、そのことを見るまでは気がつかない者もいることを、主イエスはおっしゃっておられるからです。

そしてこのことは、今はわからなくとも、人々にとって非常に大きな救いであって、そのことを主イエスは前もっておっしゃっておられるということであります。

「やがて」のことを、主は前もっておっしゃっておられるので、その時に夢中であった弟子たちの心の目には見えなかったのでありますが、それは、主イエス・キリストのお与えになられた確かなことであったのです。

そして主イエスは、その確かなことを、人と人との間に広げようとされ、六日の間、人々が何であれ、それぞれの働き、それぞれのことを成して、余ることもなく、足りないこともなく、それぞれの必要が与えられるということを、人々の歩みの間に置かれます。

かつて、荒れ野を旅するイスラエルの民は、外に出て行き天からのパンを集めました。その日、その日に、必要な分が与えられました。

そして六日目になると、彼らはいつもの二倍集めたのでありました。

それは、主なる神が、主の日のために備え、用意された分であったからです。

六日目には、主の日に備えて、主のお心遣いが大きく現わされたということでありました。

そして、イスラエルの民の指導者モーセが、山に登って主のもとへ行くと、雲は六日の間、山を覆ったのでありました。

主は、六日という日をもって、主の日に備えておられるのであります。

イエスは、その弟子たちの中からペトロとヤコブとその兄弟ヨハネを選ばれて、六日の後、高い山に登られました。

彼らは、もともとガリラヤ湖で漁師をしていましたが、主イエスに「わたしについて来なさい」と言われて、ペトロは網を捨て、ヤコブとヨハネは舟と父親を残して、主イエスに従ったのでありました。

主イエスは、「わたしに従って来なさい」とおっしゃって、ついて来たその者たちを連れて山に登られます。

「登る」というのは「上へ運ぶ」ということであります。

ペテロとヤコブそしてヨハネが、いつもいる所から、主イエスは上へ運ぶのであります。

そしてそれは、わたしたちが主の日から主の日へと道を辿り、いつもいる所から上へ運ばれるかのようでもあります。

主イエスが三人の弟子たちを連れて高い山に登られた、すると、マタイによる福音書17章2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。

主イエスは、弟子たちをここでは「わたしについて来なさい」との御言葉に従って来た者たちを、いつもの町や、いつもの村ではなく、高い山に、上へと運ばれるのです。

すると、弟子の目の前で、上へ運んでくださった主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光り白くなったというのです。

その神々しい輝きは、光そのものと言ってよいかもしれません。

あかるさを与え、あたたかさを与えてくださるその御顔がその輝きの中に見えるのです。

そして、そのお姿は、主なる神が遣わされる御使いのごとくに白くなり、いつもいつまでも神は共におられるということを知らせ始めるのです。

主イエスは何ごとかに向かって出発しようとされておられるのです。

弟子たちが見ると、マタイ17章3節「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」

その光と輝きの中、現れたモーセとエリヤと主イエスが、何を語り合っていたのかその内容については記されていません。

しかし、モーセは、かつて主なる神によって呼び出され、イスラエルの民の指導者として神の御言葉を受けとめた人物でありました。

さまざまな出来事がありました。

それは非常に苦しい出来事でありましたが、モーセは、あきらめることなく、どこまでも主なる神の御言葉を求め続けたのでありました。

そして、時代は異なりますが、イスラエルの王に、主なる神の御言葉を告げ知らせ続けた人物が預言者エリヤでありました。

エリヤは、そのことによって命を狙われることとなってしまいますが、それでも、主なる神の御言葉を告げ知らせ続け、主はエリヤを助け、養われたのでありました。

そのモーセとエリヤが現れたというのです。

時代は全く異なります。

場所も全く異なります。

しかし、神の御言葉に聴き、神と共に歩んだその人物たちが、時間を超え、空間を超え、今、ここに現れたというのであります。

そしてただ、そこに現れたのが見えるというだけではなく、主イエスと語り合っていたというのです。

そしてそこにあるのは、確かなことです。

主なる神の語られ、神の語る御言葉があり、送られて来た知らせを伝えるのです。

その御言葉は確かなことである、と三者が語り合っているのです。

その交わりに、わたしたちも入っているのです。

それを見たペトロが、4節「口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」

ペトロは、言葉では言い表せないほどのその場の光景に、いつまでもこのことが終わらないように、消えないように、と思いそのように言ったのかもしれません。

そのままでいて欲しい、そのまま留まっていて欲しいと思ったのです。

しかしそれは、人の思いから出てきたもくろみでありました。

ですので、心が思うようにならないのです。

5節6節「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。』という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」

ペトロの思うところとは異なって、天の父なる神の御声が雲の中から聞こえて来たのでありました。

人の考えることの前に、神の御心が聴こえて来たのでありました。

そしてその御声は、父なる神がここにおられるという重み、その栄光に輝いていたのであります。

御声には光があり、その御声は、キリスト・イエスをほめたたえるのであります。

そして、その響きわたる御声の重さに、弟子たちは非常に恐れたのでありました。

受け止めきれない、と彼らは感じたのです。

しかしであります。7節、8節「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げてみると、イエスのほかにはだれもいなかった。」

受け止めきれない、と思うのは弟子たちであって、全てを受け入れてくださっているのは、わたしたちの主、救い主イエス・キリストであります。

主は、触れてくださって、あまりにも大きな光に包まれ、出会って、目を上げ、顔を上げることのできなかった彼らに、起き上がること、すなわち、まっすぐ見上げることを語りになられます。

目を上げて、顔を上げてみると、そこには、主イエス・キリストのみがおられるのです。

上へ運ばれた者たちは、下へ行くことになります。

9節、10節「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、『なぜ、律法学者はまずエリヤ来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」

主イエスは、高い山での出来事を言い広めないよう命じられます。

それは主イエスが人々によってその当時の政治的指導者として立てられないようにするためでもありました。

弟子たちは、主イエスに尋ねます。

律法学者も、預言者エリヤは救い主が来られる前に来る、と預言されているのを知っている。

そしてそのエリヤが今や現れたにもかかわらず、何故、主イエスを救い主と受け入れようとしないのか、と弟子たちは言っているのです。

11節から13節「イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」

ここで主がおっしゃっておられる「エリヤ」とは、洗礼者ヨハネのことです。

ユダヤの指導者たちは、救い主の来られる前に来る者を認めず、受け入れなかったのです。

なぜなら、主イエスに対する妬みと憎しみに彼らは固執し、それを手放すことができなかったからでありました。

しかし、光り輝く雲に覆われた者たちは知ったのであります。

主なる神をお遣わしになった主イエス・キリストには、人の思いをはるかに超える光と輝きがあり、この世にあって共に、上へ、人を運ぶことがおできになられ、また、下へ、人と人との間に行くこともおできになられるお方です。

そして、このお方がおられることを示す神の臨在の雲の中から聞こえるのは、神の御心に適う救い主イエス・キリストの御声に「聞きなさい」との御声です。

死者の中から復活される主は、死と滅びから起き上がられて、全ての恐れを拭い去れたからであります。

光り輝く雲は、あなたを、また、わたしたちを救うのは、主イエスのほかにはだれもいないと、今も語っています。