「あなたの信仰は」 マタイによる福音書15章21節~31節

「あなたの信仰は立派だ」と、主イエス・キリストはおっしゃいました。

今日、この主の日に、わたしたちむさし小山教会 献堂記念礼拝の時を迎えました。

現在、わたしたちが礼拝を献げしておりますこの会堂の献堂式が執り行われたのは、今からちょうど五十年前、1971年(昭和46年)2月7日のことでありました。

当時、教会の名誉牧師小林寿(ひさし)先生、主任牧師小林宥(すすむ)先生、そして、教会附属アライアンス幼稚園の阿部和子先生をはじめ、多くの敬愛する兄妹姉妹の方々、また、幼稚園母の会ならびに関係者の方々とともに、大きな喜びに満ち溢れた献堂となったのでありました。

当日の教会週報お知らせ欄を見てみますと、「本日献堂式!」とあってこう印刷されています。

「待ち望んでいた献堂式を、今日迎えることができ感謝に堪えません。みんなが『わたしたちの教会』という愛情を基として、祈りと努力をなし奇跡的に新会堂を生み出しました。『キリストの体なる教会』として神にささげ『教会の頭なるキリスト』に従って、さらに神を愛し、人を愛する『暖かい教会』になりたいものです。本日は、新会堂完成にあたり、ともに神を崇め、喜びをわかち合いましょう。」

この会堂は、奇跡的に生み出されたと記されていますが、そこには愛情と信仰、そして祈りと努力があり、「キリストの体なる教会」を「教会の頭なるキリスト」に従って、さらに「暖かい教会」になりたいとの願いが語られています。

今日、献堂記念のこの時、礼拝堂においてあらためて思うのは、五十年前当時の言葉であるけれども、今もかわらず、これからも変わらない、「キリストの体なる教会」であるということです。

教会はキリスト・イエスではありません。

キリスト・イエスが教会であり、キリストの体であり、キリストの存在が教会の存在であるということです。

ということは、半世紀前も、また、今から半世紀後も、このことはかわらず、今、わたしたちは共にキリスト・イエスを祝い、かつておられ、今おられ、やがて来られるお方を共に礼拝しているのです。

五十年前の2月7日、主の日の礼拝では小林宥牧師がルカによる福音書19章「徴税人ザアカイ」から説教をなされ、その要約が翌週の週報に掲載されています。

「ザアカイは、エリコの町の取税人のかしらで、大金持ちだった。当時、税金は請負制度なので、非常にきたない税金の取り立てをして、そのさやを取って金持ちになっていた。ローマ人の手先となり、人民から搾り取るのだから、取税人たちは罪人と言ってののしられ、きらわれるのも無理もない。彼は地位も金もできたのだが、心の喜びはなく、そのむなしさはひろがるばかりである。しかも、人の言うことに耳を貸さない頑固者のザアカイ、このようないやな者に、イエスはご自分の方から『ザアカイよ、今日、あなたの家に泊まる』と言って、だれもがいやがる、しかも初対面のザアカイを受け入れ給うたのである。そして、悪人ザアカイに人生の革命が起こった。彼の心は喜びに満たされ、全く手のひらを返したような、人を愛していく新しい生き方が始まったのである。イエスは、今日、救うために人々に愛の呼びかけをなし、友となり給う。イエス・キリストを頭とするわたしたちの教会は献堂にあたり、心を新たにして、一人のどのような魂をも愛していく教会として用いられたい。人を今日救うためにつかわされたい。」と、記されています。

献堂にあたり、魂の救いのために用いられるようにとの祈り願いです。

そして五十年後の今日、わたしたちに与えられました聖書は、マタイによる福音書15章21節から31節、新共同訳聖書では、「カナンの女の信仰」そして、「大勢の病人を癒す」という小見出しが付けられている聖書箇所です。

ここに、教会の頭であるキリスト・イエスがなされたことが記されていますが、ここにある人物たちが出て来るのです。

マタイによる福音書は、救い主キリスト・イエスについて語るのでありますが、それは、さまざまな人々が登場し、その全ての人々がキリスト・イエスとどういう関係にあるのか、ということを語っています。

マタイによる福音書15章21節にはこうあります。「イエスはそこをたち、ティルスとシドン地方に行かれた。」

主イエスは、ガリラヤ地方において、「神の国、天の国は近づいた」とおっしゃって、すでに宣教活動を行っておられました。

人々が悔い改めることを、向きを変えて神に立ち帰ることを、伝えていたのでありますが、そこに宗教的指導者たちと度々論議が交わされ、主イエスに対する非難がより一層強くなって行きます。そして主イエスは、預言者イザヤに告げられた神の御言葉を通しておっしゃいます。

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」

主イエスは、人々の口から出てくる悪意、殺意、悪口などは、人の心から出てくることをお語りになられ、当時の宗教的指導者たちであるファリサイ派の人々、律法学者たちと主イエスの違いがより明確になったのでありました。

そこで主イエスは、ひとたびそこをたち、そこから出て行かれたと21節は述べているのです。

主イエスを頑なに厳しく非難する人々、そこから出て、離れて行かれ、ガリラヤからティルスとシドンの地方に行かれたのであります。

それはユダヤから見ると、異教徒のいる地方でありました。

ガリラヤ地方からフェニキア地方へと行かれ、それは主イエスのこの地上でのご生涯ではこの一回だけと言われます。

すると22節「この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」

主イエスはこの時、避難する人々から離れ、それまで、ユダヤの人々からはよく思われていなかったティルスとシドンの地方に入られたのでありました。

すると叫びを聞いたのです。

その声は「主よ、ダビデの子よ」と主イエスに向かって言っています。

なぜ叫んでいるのかというと、「わたしを憐れんでください」と言うのです。

それは、この叫ぶカナンの女性の娘が悪霊に取りつかれてひどく苦しんでいるからでありました。

ユダヤではあまりよく思われていない地方において、キリスト・イエスを呼び求める叫び声があって、その声は、ユダヤの王の中の王とされるダビデ、その「ダビデの子よ」と主イエスのことを呼び、切に願っているのであります。

ユダヤの人々から見ると、異教の地とも言える所でそのようなことがあるとは思ってみないことであったかもしれません。

母が子を思うその心が、叫び声となってキリスト・イエスを呼んだのでありました。

ことは非常に差し迫っていたのです。

このカナンの女性の心は、母として娘のことで打ちひしがれていたのであります。

その心が打ち砕かれた叫びでありました。

しかし23節「イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」

カナンの女性は、主イエスがそれまで多くの御業をなされて来られたことを知って叫んでいたのであります。

「あの主が、ダビデの子が、今ここにおられる」という思いからです。

しかし主イエスは、沈黙されるのです。

主イエスとその弟子十二人がこの時一緒でありました。

その一行のあとをひとりの人が叫びながらついてくるという状況に、弟子たちは主イエスに言ったのでありました。

「さらせてください。わたしたちの後ろから叫ぶこの人を。」

主イエスとその一行は、宗教的指導者たちからの殺意ある非難もあって、だれにも知られたくないと思っておられたのでありました。

主イエスは弟子たちに、そして、カナンの女性にお語りになられました。

24節「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになられたのです。

イスラエルの家とは、イスラエルの民のことであります。

主イエスは、父なる神から遣わされた者として、その働きをこの時、イスラエルの民に対するものとされていたのであります。

そのことをユダヤ、すなわちイスラエルの民と、そしてその外に位置づけられるカナンの女性に主イエスは示されるのであります。

主イエスは、「イスラエルの家の失われた羊」のところに遣わされたのであり、そのところにしか遣わされていないとお答えになられたのです。

しかし、25節「女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。」

この女性は、沈黙される主イエス、そして、「イスラエルの家の失われた羊」すなわち「イスラエルの民のほかにはわたしは遣わされなかった」とおっしゃる主イエスに、それでも、ひれ伏して言うのです。

「主よ、どうかお助けください。」

これが母の願いです。

「主よ、どうかこの子を助けてください。」

しかし、主イエスは26節でこうお答えになられます。

「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない。」

ここで主イエスがおっしゃっておられる「子どもたち」とは、ユダヤの人々であり、イスラエルの民であります。

そして、「小犬」と主イエスはおっしゃっておられますが、当時ユダヤの人々は異邦人を「犬」と表現することがありました。しかし主イエスは、ここで「犬」ではなく「小犬」とおっしゃって、家で飼われている「小犬」と言い表されたのでありました。

それは、「子どもたち」と「小犬」は一緒に暮らしているということを意味することになりますが、主イエスは、カナンの女性の切なる心の叫びを受け止めつつ、「子どもたちのパンを取って小犬たちに投げてやるのは良くない」とおっしゃったのです。

すると、カナンの女性は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

「小犬」は主人と一緒に暮らしている。

そして、その主人の食卓から落ちるパン屑を小犬は食べることができる。

その「小犬」と表現される「このわたしもあなたの救いをいただき、あずかることができるのです。」とカナンの女性は言うのです。

この切にしきりに願う希望に、主イエスは28節「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」

主イエスは、このカナンの女性という一人の人物を通して、それはひととき沈黙、またいっとき聞き入れないことを通して、この人物の祈り願い、そして、信仰を見つめられたのでありました。

ですから、「あなたの信仰は」とおっしゃって、「立派だ」とおっしゃったのです。

さらに主イエスは、29節「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。主イエスは再びガリラヤへ戻り、山に、または丘に、お登りになられたのでありました。

すると30節「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」

マタイによる福音書は、「主人の食卓から落ちるパン屑」にあずかる人々は、カナンの女性のみならず大勢いて、その範囲は大変広いことを一人ひとりの人物をあげて語っています。そしてその人々とキリスト・イエスはどういう関係であるのかを示します。

31節「群衆は、(人々は、)口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」

この「イスラエルの神を賛美した」の「イスラエルの神を」というのは、そこにはイスラエルの民でない人々が含まれているということを意味し、そこにはさまざまな一人ひとりがいることを表しています。

その人々に、賛美がわき上がり、わたしたちに賛美の歌がわき起こるのであります。

福音書は、主のいやしの御業をこのようになったと書き記し表現いたしますが、それは、神に向かって、その高みと深みへ向かって霊的に成長して行くためであります。

主イエス・キリストのなしたもうのは、十字架と復活、その愛による救いであり、わたしたちは神に献げられたこの会堂にて、キリスト・イエスの救いを共に生き、キリスト・イエスを賛美いたします。

信仰によって歩んだ先達の方々と一緒に、この魂の救いのため全身全霊を献げ、今も生きておられるキリスト・イエスをほめたたえるのです。

神に献げられたこの会堂にて、天にある者も、地にある者も、かつておられ、今おられ、やがて来られるお方、すなわち、永遠なるお方を信仰により、共に賛美するのであります。