「神の国はすでに」 マタイによる福音書12章22節~32節

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主イエス・キリストはお語りになられました。

今日、わたしたちの開く聖書マタイによる福音書は、わたしたちの救い主、主イエス・キリストがこの世界に、また、この歴史の中に入り、この世へ来てこられたことを語ります。

暗く冷たい世情にあって、悲しい思いをする人々の中に、神はわたしたちと共におられるのだ、との光がさしていることを告げ知らせています。

それは、寒い冬の間にたくわえていた命の息吹が外へ現れるような、春の陽光を受ける草木のようでもあります。

木の芽が膨らむのを助け、花を咲かせるために大切な光と水を、神は時に応じて注いでくださっていることに思いをいたすのです。

そして今、わたしたちも主イエスが来られておられることを思い巡らすのであります。

それは、時の流れの中、世の中はいつも変わっている中においてでもあります。

マタイよる福音書は、主イエスが人々の間に来られて、神の国を宣べ伝え、病をいやされ、悪霊を追い出されますが、ある時、ご自分のことを言いふらさないように戒められたと記しています。

光が来られて、ここに光が注がれているのに、言いふらさないようにと主イエスはおっしゃるのです。

それは、主の働きが十分になされるようにでありますが、マタイによる福音書は、12章18節から21節というところで、旧約聖書イザヤ書を通して「言われていたことが実現するためであった」と述べます。

そしてそのイザヤ書42章の1節から5節というところには、このように主なる神は預言者イザヤを通して語られています。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天地を創造して、これを広げ、地とそこに生じるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。」

この預言の中に出てくる「裁きを導き出す」は「公正をもたらす」ことであります。

また、「裁きを置く」というのは「公正を確立する」ということであります。

公正が行われないところでは、奪われてしまうのであります。

ですから、主は公正、慈悲、誠実をないがしろにすることなく、これこそ行うべきことであるとされるのです。

しかし、「彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない」のであります。

「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず」に、主なる神はその霊を、神の霊を、授けられるのであります。

この世に来られ、わたしたちのもとにまで来られた主イエス・キリストに、神の霊がある。そのことをマタイによる福音書は預言を通して語ろうとしています。

そして今日の聖書、マタイによる福音書12章22節「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。」

口の利けない人を主イエスがいやすという出来事は、マタイによる福音書の9章32節から34節にも記されていてこうあります。「二人が出て行くと、悪霊に取りとりつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』」

口の利けなかった人が語りだす、それは荒れ野に水が湧き出て、砂漠に川が流れるような驚くべき出来事です。

水路も何もなかったような広大な荒地に、いろいろな妨げや邪魔が入ったとしても、大きな石、小さな石がよけられ、整えられて、豊かな水路が出来上がり、広大な荒れ野に水が流れ、緑が育ち広がって行くかのようであります。

そして人は、そのいのちによって生きるのです。

マタイによる福音書は、ここで、「口の利けない人がものを言い始めた」という主イエスのなされた出来事を通して何かを語ろうとしています。

重く閉ざされていたのが、開かれたということであります。

閉ざされていると思う、また、そうであると思う、しかし、そうではないということ、開くお方がおられるということ、新しい水を、新たな命を、お与えになられる方が、今ここに、来られているということであります。

マタイによる福音書14章22節には、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない」とあります。

悪霊は見えないというのです。そしてまた、口が利けないというのです。

悪霊はそのようにして、そのようなところまで、動いているということであります。

しかしそうであっても、主イエス・キリストが来られいやされるとものが言え、目が見えるようになったのであります。

マタイによる福音書9章33節では、「口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し」た、とあります。

そして人々は「こんなことは今までイスラエルで起こったためしがない」と言ったというほど驚いたのでありました。

そして、12章でも群衆と言われる人々は、皆驚いているのでありますが、さらに人々はこのように言っています。

12章23節「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。」

マタイによる福音書は、悪霊に取りつかれている人、目が見えず口の利けない人がものが言え、目が見えるようになる、主イエスのいやしのみ業を通して人々の、群衆の、受け止め方が広がっていくのを記します。

はじめは、驚き、「いまだかつて見たことがない」と言っていたのが「まさかこの人がダビデの子ではあるまいか」と驚嘆し、言うこととなったのです。

それはこの世で、この荒れ野で、目に見えるもの、また目に見えないもの、壊れ、崩れていく中で、人々が待望していた救い主、王の中の王と云われていたダビデ、そして、時代を重ねてその「ダビデの子」と天使に言われるヨセフとマリアの間に御降誕された主イエスは、「救い主ではないか」と人々は驚いて言っているのです。

その驚きの中には、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながら主イエスのあとについて行った、あの二人の目の不自由な人たちもいます。

しかし、マタイ12章24節「ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った。」

「ベルゼブル」というのは、「悪霊の頭」と言われている通り、「悪霊の支配者」という意味であります。

当時のユダヤの宗教的政治的指導者であったファリサイ派の人々は、復活も天使も霊も認めていましたが、主イエスのなされたことに、これは悪霊の頭であり、支配者であるベルゼブルの力だと言うのです。

彼らはそのように言うのではありますが、25節26節「イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」

主イエスは、どんな国でも、町でも、家でも、内輪で争い合えば荒れ果ててしまうとおっしゃいます。

そしてそのことは、この世を生きるわたしたちもよく知っています。

宗教的指導者たちは、主イエスのなさることに、「これは悪霊の頭のすることだ」と言います。

しかし主イエスは、「彼らの考えを見抜いて言われた」と聖書にはあります。

主イエスは、人の内にひそむ思いや考えをすばやく見抜かれたということです。

主イエスは、父なる神より遣わされ、人々の罪を赦し、死と滅びから救うため、苦しみを受けられ十字架の死につかれますが、復活されます。

人々の中に、また人の中に、何があるのか主イエスは教えよくご存知で、人の内にある思いや考えをすぐに見抜かれるのであります。

そして、ファリサイ派の人々に対して主イエスは反論されたのでありました。

それは、彼らの中に、主イエスを陥れようとする思いや考えがあることを見抜かれたからでありました。

主イエスはおっしゃいます。27節「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」

主イエスがこのようにおっしゃられた当時、ユダヤの中には、ほかに悪霊を追い出す人々がいたと云われています。

ですので、主イエスは、そのものたちの扱いはどうなるのかを、ファリサイ派の人々に問いただしておられるのです。

ほかの悪霊を追い出している者たちも、ベルゼブルの力によってなのか、とおっしゃるのです。

しかし28節「主イエスはおっしゃいます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」

主イエス・キリストは、ここではっきりと、とても重要なことをお語りになっておられます。

主イエスは、神の霊で悪霊を追い出しておられるのです。

神の霊は、聖なる霊です。

聖なる霊は、悪霊ではありません。

聖なる神の霊は、聖霊です。

この聖霊の力によって、主イエスは悪霊を追い出され、そこに、ことばが生まれるのであります。

愛のことばが生まれ、ゆるしのことばが生まれるのであります。

大丈夫。

生きていける。

あなたの魂はすでに恵まれている。

そのことばを否定し、拒む、悪霊は退き、立ち去り、神の国は来ているのです。

主イエスは、聖霊の力により、悪霊を追い出されます。

また主イエスはおっしゃいます。29節、30節「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

主イエスは、強盗のたとえでお語りになられます。

たとえの「強い人」は悪霊のことです。

主イエスは、悪霊の支配から、神のご支配に、人々を入れるため、悪霊を追い出されます。

悪霊は、滅ぼしますが、聖霊は、愛し、ゆるし、救い出します。

「だから言っておく」と主イエスはおっしゃいます。31節、32節「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

悪霊は、悪い霊と漢字で書きますが、その反対は、善い霊ではなく、聖なる霊、すなわち聖霊です。

善悪の問題と言うよりは、聖なるものを認めようとしない、聖なるものを否定する、そのことについて主イエスはおっしゃるのです。

聖なる霊のおられるところに神はおられ、愛とゆるしのことばが開かれるのです。

閉じようとし、荒らし、滅ぼすものから、主は魂を生き返らせてくださるのです。

ですから、主イエス・キリストは、今日、わたしたちに来られ、語っておられます。

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」