「ただ主に仕えよ」 マタイによる福音書4章1節~11節

「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と主イエス・キリストはお語りになりました。

わたしたちの内外には、多くのことについての知らせがあふれていると言えます。

多くのニュースが毎日同じ時間、同じ枠におさまって人々に向かって発信されていますが、ともすると、それらのことに圧倒され、押し倒されるかのように心が押さえつけられてしまうことがあるかもしれません。

心が、また、その考えが、どのように生きるか、その向きがこの世において定まるその出来事を、今日、わたしたちの開きました聖書マタイによる福音書は語っています。

わたしたち一人ひとりを救い出してくださる主イエス・キリストへの道を、洗礼者ヨハネは備えました。

この世の荒れ野において、洗礼者ヨハネは叫ぶ声となり、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよと人々に呼びかけたのでありました。

そして人々を悔い改めに導くために洗礼をヨルダン川において授けていましたが、その場に主イエスが来られて、主イエスも洗礼をお受けになられました。

「正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです」と主イエスはおっしゃったのです。

主イエスが洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきました。

この天からの声は、「わたしの」とおっしゃって、御子イエスに父なる神がお語りになられたのです。

それよりも前、御子イエスは、天のみ使いにより、そのご降誕が告げ知らされ、その通り実現しました。

しかしこの世は、御子イエスがこの世の人々を救い出す救い主であることを受け入れませんでした。

しかし、神の救いの出来事は、神のみ心の中、進んで行くのです。

洗礼者ヨハネが、多くの人を神である主のもとに立ち帰らせるのです。

主に先立って行き準備のできた民を、主のために用意するのであります。

わたしたち一人ひとりの人生においても、あることのために先立って備え、準備するということがありますが、洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストに人々を導く供えをするため、主イエスと同時期に生まれ、彼ヨハネの誕生も天のみ使いを通して知らされていました。

主イエスが「正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです」とおっしゃった「正しいこと」とは、神の御思いであり、御心である神の救いの出来事です。

神のなされることの中にあるということです。

洗礼者ヨハネも、主イエスも神の遣わした天のみ使いを通して、その誕生が告げ知らされたのであり、それは天の父なる神のなされる救いの出来事の中にあります。

ですので、主イエスはそのことをすべて行うのは「わたしたちにふさわしい」とされたのでありました。

わたしたちがふさわしいから行うというよりは、ふさわしいことがあって、それをわたしたちが行うということであります。

その神の御心の中にあって、その神の御心にそって行うということであります。

わたしたち人は、そのことに完璧を求めてしまいやすい傾向があるかもしれません。

そしてそれを数え計ろうとすることもあるもしれません。

しかし、その数字が大きいか小さいか、多いか少ないかというよりは、御心にふさわしいか、そっているかということが重要であり、それは、一人ひとりに天がお与えになることなので、その豊かさにより多様であり異なっていると言うことができます。

主イエス・キリストは、主なる神への道を人々のために備える人物から洗礼を受けになられ、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と告げられたのでありました。

「愛された」「御心に適う」その生き方をふさわしい生き方というものを与えられたのでありました。

そのことを主ご自身に、また、まわりの人々に、現されたのでありました。

そしてさらに、今日の聖書マタイによる福音書4章1節から11節で、明らかにされるのです。

何が現されているのかと言うと、主イエス・キリストは父なる神に愛され、御心に適う救い主だということであります。

そしてそれは、まことの人であり、まことの神である神の子、主イエス・キリストです。

マタイによる福音書4章1節にはこうあります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」

神の子であることが現され、明らかにされたことにすぐ続いて福音書は、主イエスが“霊”すなわちここでは神の霊に導かれて行ったことを記します。

神の子が、神の霊に導かれたというのであります。

神の霊は道案内をして目的の所に連れて行くのであります。

そしてそれは、神の霊がなされることであるので、正しい方向に手引をされ、そうなるようにと働きかけておられるということであります。

目的の場所というのは、荒れ野でありました。

かつて、神の宝の民であるイスラエルの民は、エジプトの国において強制労働により重労働が課せられておりました。

イスラエルの人々は酷使され、生活は脅かされていました。

神は、そのエジプトからイスラエルの人々を出発させられたのです。

指導者モーセを立て、助言者アロンを付けて、イスラエルの人々をエジプトの国から力強い御手をもって導き出されます。

そして向かった先は、荒れ野でありました。

その荒れ野を旅する途上、神によって召し出された指導者モーセは、シナイ山において、十の戒め、十戒を授かります。

そして主なる神は、モーセにこう語りかけました。

「もし、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。」

マタイによる福音書は、かつてイスラエルの人々が荒れ野に導き出されたように、キリストが神の霊により荒れ野に導かれたことを記し、そして、この福音書を読み聴く人々が、主なる神は、力強い御手をもって今も導き出されるお方であることを重ねて思い起こさせるのです。

それは歴史上、わたしたちを「宝の民」と呼んでくださった主なる神は今も生きておられるということであり、導き出される神は、わたしたちを救い出してくださる神だということであります。

しかしそれは、福音書によると主イエスが、このとき導かれたのは、悪魔から誘惑を受けるためであり、荒れ野において主イエスは、マタイ4章2節「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」のでありました。

「四十日間」ということでは、あのモーセもシナイ山において四十日四十夜、そこにとどまって、パンも食べず、水も飲まず、そして、十の戒めからなる契約の言葉を石の板に書き記したのでありました。

そこには、「渇き」があり「枯渇すること」があっても、その中に「満たされること」「与えられること」があったことを語っています。

旧約聖書に登場する預言者エリヤも、かつて逃亡する中、「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください」というまでに、心身ともに疲れ果て、心身ともに渇き枯渇したときに、主なる神は「起きて食べよ」と食べ物をお与えになり、エリヤは起きて食べ、力づけられ四十日四十夜歩き続けることができ、ついに目的地に辿り着くことができました。

神は、渇くこと、枯渇することを通して、満たされること、与えられること、そして、辿り着くことを教えられるのです。

マタイによる福音書4章3節、4節「すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

主イエスが悪魔から誘惑を受けるため荒れ野に行かれました。

すると誘惑する者が来たというのです。

悪魔とはサタンのことであり、もともとは敵対者を意味します。

渇き、尽き果て、あるものがなくなると、そこに誘惑する者、惑わす者がやって来たというのです。

そして主イエスに言うのです。

「神の子なのだから、石をパンに変えたらどうだ。」

「神の子、救い主なのだから、当然できるはずだ」と迫るのです。

それに対して主イエスは、旧約聖書の申命記8章3節という聖書箇所からお答えになられますが、その申命記8章2節、3節にはこうあります。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

主イエスは、神の宝の民が、苦しみを受け試されたことを思い起こされました。

神は生きておられ、必ず備え、準備してくださっておられるので、その神の御言葉によって生きるのです。

すなわち、神がわたしの中におられ、生きておられるので、もはや、わたしではなく、神の命によってわたしは生きる、ということを主イエスはお語りになるのです。

そこには、ただまっすぐ神とつながる力強さがあり、その力の源は、どこにあるのかを顕わされます。

そして、主イエスは神であるのです。

マタイによる福音書4章5節、6節「次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて言った。『神の子なら飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じるとあなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

サタンは荒れ野から聖なる都に主イエスを連れて行きます。

それはエルサレム。

その神殿の高い所そこから集まる群衆を見下ろすことのできる場所に主イエスを連れて行きます。

サタンは主イエスの内面でそのように働きかけているのです。

そのような場所に立たせ、サタンの言う言葉が聞こえてくるのは、主イエスの内面においてであります。

サタンは、そのように人の内面においてもその手を伸ばして来ますが、主イエスは、それに打ち勝ち、わたしたちは主イエスによって導かれ、救い出されます。

主イエスは、聖書の御言葉をもってお答えになられるので、サタンも聖書の言葉をもって対抗し、迫ってきます。

「神の子なのだから高いところから飛び降りても支えられる」とサタンは言います。

サタンは、旧約聖書詩篇91篇11、12節の御言葉から引用しますが、大切な点を抜かして言っています。

それは、「どこにおいても」ということです。

詩篇91篇11節は「主はあなたのために、御使に命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる」とあります。

この「どこにおいても」ということが抜けているのです。

それは、主なる神のお与えくださる深い平安を抜かしているということであります。

主イエスはお答えになられます。マタイによる福音書4章7節「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」

主イエスは、ここでも旧約聖書申命記6章16節からお語りになられます。そこにはこうあります。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

この「マサにいたときしたように」というのは、かつてイスラエルの民が荒れ野において、飲み水がなかったことに不平を言い、モーセに訴え、争い、張り合うことがありました。その不平は、激しさを増したので、モーセは主なる神に向かって叫ぶと、主は「岩そ打て言わおうてそこから水を飲むことができるとおっしゃって、モーセがその通りにすると水が出てイスラエルの民は水を飲むことができました。

モーセはその場所を、マサとメリバと名付け、その名の意味は「試し」「争い」でありました。

それはイスラエルの人々が、主なる神のみ前に「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、もう主と「争い」、主なる神を「試し」たからでありました。

この出来事から主イエスは、「あなたたちの神、主を試してはならない」とおっしゃったのでありました。

さらに、マタイによる福音書4章8節から10節「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

サタンは、さらに誘惑します。

神の御旨に敵対する者として仕向けます。

それは、この世の支配、そしてこの世の権力に関わることでありました。

サタンは、「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と条件をつけています。

世も、世にある欲も過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

主イエスはサタンを退けられ、ここでも旧約聖書、申命記6章13節からお答えになられます。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えよ。」

そして主イエス・キリストが畏れ、仕えるのは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、愛する神のみです。

この神から人を導き救い出す愛が、主イエス・キリストに現わされたのです。

神は熱情の神であって、人々の中にあって、また、あなたのただ中におられるあなたの神です。

サタンは、主イエス・キリストに現わされた神の愛を前にして、マタイによる福音書4章11節「そこで悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」

この世に、神の御子イエスの御降誕を、愛する人たちに告げた天使たちは、主イエスの御降誕から苦難と十字架の死、そして復活に至るまで仕えることになります。

そして、主の使いは、そのまわりに陣を敷き、神を畏れる人をどこにおいても守り助けてくださるのです。

主イエス・キリストは、どのように生きるのか、この世においてその向きを定められ、今日、わたしたちに呼びかけておられます。

「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」