「イエス、ただちに御手を伸べ」 マタイによる福音書14章22~33節

「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」

この世の風とこの世の波、不透明であり不確かであるとも言える今この時においても、主イエス・キリストの御言葉がわたしたちに、静かに語りかけています。

そしてそれは、音としては聞こえないかもしれません。この世のさまざまな音がやって来てわたしたちの耳をふさいでしまう、そのようなこともあるかもしれません。

しかし今日、聖書は、わたしたちの心に語っているのであります。

そして主イエス・キリストは、今も語り続けておられるということを明らかにしてくださるのです。

今日、わたしたちのもとに届けられ開きました聖書は、マタイによる福音書14章22節から33節です。

わたしたちの新共同訳聖書では、「湖の上を歩くと」小見出しがつけられています。

そして、このマタイによる福音書14章は、13節以下でキリスト・イエスの奇跡について述べています。

今日の聖書箇所の前後の小見出しが「五千人に食べ物を与える」また「ゲネサレトで病人をいやす」とある通りです。

マタイによる福音書は、インマヌエル、「神は我々と共におられる」というお方が、この世の諸々の力をふるっていた者たちにより受け入れられなかったことを語ります。

この世は、理解しなかったのであり、この世は認めなかったのでありました。

そして、その理解せず、認めない、この世の暗闇が人々の心を覆っていたのでありました。

当時、ユダヤの宗教的指導者たちは、この世の諸々の力を用いて、支配を強くし、それを維持しようとはかりごとをめぐらしていました。

そしてひそかに計画を立てていたのは、主イエスを退けることでありました。

そして、この主イエスの命を狙うという計画は、普段、傾向の違う人々を一つにするほどの強い考え、もくろみでありました。

この世の暗闇の手が伸びていました。

当時、救いを求める人々に、悔い改めのバプテスマを授け、また、正しいことを語った洗礼者ヨハネを、当時の王は捕らえて、投獄し、ついに斬首の刑に処してしまいます。理不尽な力が人々の心をまたいっそう暗くしていたのでもありました。

そのような知らせが人々の間に伝えられる中、主イエス・キリストは、群衆に、すなわち大きな群れとなった多くの一人ひとりの人たちに、食べ物を与えになるという奇跡を行われました。

それはほんのひと時であっても、人々の命を支え満たす喜びの出来事として、人々の心に大きな光を灯すこととなりました。

そしてそれは、人々の間にひさかたぶりとも言える歓喜に沸いた出来事でもあったのかもしれません。

「それからすぐ」と聖書にはあります。

今日の聖書、マタイによる福音書14章22節「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」

五千人に、多くの人々に、食べ物が分け与えられるという大いに喜び躍り上がるかのような出来事があって、それからすぐに主イエスは行動を起こされたのでありました。

人々に喜びの感情がわき起こっている中、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せられたというのです。

弟子たちの中には、「まだその場にいたい」「もう少しこのままでいたい」と思っていた弟子たちもいたかもしれませんが、主イエスは強いられるのです。

強いるというのは、強制するということであり、相手の意志とは全く関係なく押しつけるという意味でもあります。

主イエスの弟子たちにとって、この時、主イエスのなされることは、自分たちを強いることであったと彼らは受けとめたのでありました。

そしてそれは、舟に乗るということであったのです。

わたしたちの人生も、強いられて舟に乗るということがあるかもしれません。

それは、自分の思ってもみなかったような仕方であるかもしれません。

そしてまた、その舟の行く先もよく分からないということも、わたしたちの人生では度々起こることかもしれません。

しかし主イエスは、この時、舟に乗せた弟子たちを「向こう岸へ行かせ」とある通り、ある一定の目的地に向けて進ませるのであります。

舟に乗り込む、それは明らかにそれまでの場面が変わるということであります。

そしてそれは、あの大きな歓喜に満たされた場面から弟子たちを、そして人々を進ませるために、でありました。

主イエスは、人々がそのまま滞ることなく前に進むよう、群衆を解散させられました。

そして23節「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」

主イエスは、人々が人里離れたところにそのまま残りとどまるのではなく、それぞれ進むように、また、帰るところへ帰るよう前へ進み行くことを促されるのでありますが、主イエスはひとり山に登られ、それは祈るためにであったというのです。

そしてそれは、「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」という、時の過行く中でも、物事のうつり行く中においても、主イエスはひとり祈っておられたことを聖書は語っています。

そして福音書は、主イエスひとり、今、このときも祈っっておられることを思い起こすようにと、わたしたちにそっと語るのです。

ところが、24節「舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされいた。」

主イエスは、ひとり祈っておられる。

「神は我々と共におられる」というお方はひとり祈っておられる。

ところが、今や、弟子たちは強いて乗せられた方角へ向かっているその途上、先の目的地には、まだまだという所で悩まされていたのであります。

出発したときはよかったのかもしれません。

また、強いられてとは、言うものの、あの主イエスがそうおっしゃったのですから弟子たちはいささか晴れやかな気持ちでいきおいよく舟を進ませたのかもしれません。

しかし、それにもかかわらず、彼らは悩まされていたのです。

強い逆風に、その波に、彼らは悩まされていたのです。

思うように行かず、はかどらず、苦しみます。

対応は難しく、解決の方法も見出せず、また、それを決めることもできず、流され、心は痛みを増していきます。

彼らは悩まされていました。

そして、わたしたちにも悩まされる経験があります。

逆風はやみ、順風となるのか、波はもうおさまるか、もうおさまるか、と待つ間を彼らはまんじりとしている。

すると、夕方から夜、夜から夜中、その暗がりがほのかに明るみ、25、26節「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。」

弟子たちは、逆風と波に悩まされていたので、まだ薄暗い中、主を見ても、それが主イエスだとは分からず、しかも、湖の上を歩くという超自然的な姿に、恐怖を抱いたのです。

そこに、また、ここに、主がおられるとは誰も思ってもいなかったのです。

そしてそのお方がこちらに近づいて来られるのを見て、恐れのあまり弟子たちは叫び声を上げたのでありました。

主イエスの弟子たちでありますから、よくよく主イエスを知っていたはずと思えるのでありますが、彼らは大きく広い海のような湖の船の上、不安定であり、揺れ動く環境の中で強い風と波に翻弄されていました。

見失いそうになっていたのです。

彼らが恐怖のあまり叫び声を上げたのは、見失うことへの、また、見失ってしまったことへの、はげしい喪失の痛みの声であったということができます。

その声にならない声に、27節「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

主イエス・キリストの道は海の中にあり、主の通られる道は大水の中にある、と言えます。

この世のこの時代の中で、主イエスは道を通し、道となってお語りになられるのです。

恐れる者に、主イエスはすぐにお語りになられます。

「安心しなさい」とは「勇気を出しなさい」という意味の言葉です。

そもそもあなたはこの世に生まれながらにして持っているものは何もない。その身ひとつでこの世に生まれたのではなかったのか。本来無一物。失うものは何もない。

勇気を出せ。

安心しなさい。

そうお語りになられる救い主イエス・キリストが「わたしである」とおっしゃって、すぐ目の前におられるのです。

そして命じられるのです。

「恐れるな。」

主の道は海の中にあり、主の通られる道は大水の中にあります。

すると、28節。弟子の「ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』」

弟子のペトロは、語りかけられるお方に応えたのでありました。

自分たちがどういう状況にあるのかをペトロは全身で分かっていましたが、主イエスがそこにおられることにペトロは、「あなたのおられるところに行くよう、わたしに命じてください。」と言うのです。

逆風の中、ペトロは主イエス・キリストのみと向かい合うのです。

29節「イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」

主イエスが、おっしゃったのです。

誰かほかの人が言ったのでも、また、自分の中でつくり上げた考えが言っているのでも、思い込んだことを感情もなく自ら言っているのでもなく、生ける主イエス・キリストが、救い主が、ペトロに、おっしゃったのです。

そしてそれをお受けしたのです。

ですから、ペテロは主イエスに向かって近づいて行くのです。

お語りくださっておられる主イエスのところへ行くのです。

主イエスが「来たれ」とおっしゃったので、ペトロは行ったのです。

しかし、ペトロは、30節「強い風に気づいて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」

舟の上のペトロが、湖の上の主イエスに「そちらに行かせてください」と言ったとき、ペテロは強い風と波があることをすっかり忘れていたのでありましょうか。

ペトロは舟を降り、水の上を歩き出し、主イエスの方へ進み出していたのであります。

しかし、気がついたのであります。

ペトロは、見たのです。

強い風を見たのです。

福音書が語っているのは、主イエスを見ることから強い風を見たペトロ。

彼が、主イエスではなく、強い風を見たとき、彼は恐れたのでありました。

そして、恐れると沈み始めたのでありました。

沈んだから恐れたというよりは、恐れたから沈んだということであります。

そして沈んだのでさらに恐れたのです。

そこで、31節「イエスはすぐに手を伸ばし捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」

湖の上に、水の上に一歩を踏み出すということだけでも非常に大きなことといえますが、主イエスは、「信仰小さき者よ」とペトロにおっしゃいました。

そして「なぜ、あなたは疑ったのか」と主イエスはおっしゃいました。

しかしそれは、咎めることでもなく、裁くことでもなく、愛をもって諭し、愛をもって導くためでありました。

そしてペトロの手は、すぐに伸ばして捕まえる主イエス・キリストの御手を知っていました。

それはやがて、この世の人々の妬みと憎しみにより苦しみを受けられ、太いクギを打たれ十字架にかけられる御手でありました。

しかし主イエス・キリストは、十字架の死より復活され、この世の浮き沈みの中においても、あらゆるもくろみからわたしたちを救い出してくださったのです。

そして32、33節「二人が船に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」

主イエスはすぐに御手を伸ばして捕まえてくださり、向こう岸に進み行くことのできる舟に乗ると、風はやむのです。

主イエスと一緒に舟に乗り、共に進んで行き、主イエス・キリストを礼拝するのです。

主の行われた大いなる御業を見たのです。

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は苦しみから導き出されたのです。

主イエスは、ただちに御手を伸べてくださり、わたしたちをつかんでくださるのです。

この世という海の上、強い風、強い波を受けるときにも、主は働きかけてくださり、沈黙させられ、波はおさまったのです。

主イエスの弟子たちは、波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行ったのです。

そして今、わたしたちは、主に感謝いたします。

主はいつくしみ深く、この世の風と波の中で、わたしたちに御手を伸ばされ、驚くべき御業を成し遂げられるからであります。

これらのことを心に納め、今、わたしたちは、主の慈しみに目を注ぐのです。