「神の掟が授けられ」 マルコによる福音書7章1節~13節

「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」と主イエス・キリストはおっしゃいました。

空寒い冬となるこの季節、教会暦では待降節(アドベント)の第二主日を迎えました。

主を待ち望むアドベント、わたしたちは、主イエス・キリストを待ち望む者として歩みを進めています。

それでも、わたしたちの歩むその道は遠く険しく見えることもあります。

しかし、近づいて来てくださるのは主イエスであり、到来されるのは、救い主イエスであることに大きな喜びがあります。

待ちに待ったお方が来られる、その期待と不安が混ざりあった思いで心待ちにするのです。

期待すること、それは実現するだろうと望みをかけて待ち受けることです。

主が救い主となってこの世に来られた、その救いが実現する望みです。

主により罪ゆるされる、その実現を望むのです。

しかし、わたしたちが待ち望むのは、罪をゆるされることと共に、罪を裁かれるお方であります。

そうであるので、そこに期待と共に不安があるのです。

主の到来は、罪を裁かれるという恐れと不安をも人々に与えることになるのです。

ですので、主が来られることを待ち望むのではありますが、そのことは、恐れと不安のしるしとなり得る出来事であります。

しかし、主イエスの御言葉を聞き、主イエスのみあとに従って行った主の弟子たちは、この世にあって、恐れと不安の中にあっても、身を起こし、救いが近づいていることを確信することができたのです。

この世において、希望のないかに思える時にも、固く信じることができたのでありました。

それは、この世の荒れた道を行く時にも、主と共にあることによってでありました。

与えられた時間、与えられた場において、何がどうあろうとも、主イエス・キリストと共にあるという確信を、主の弟子たちは与えられていたのであります。

彼らの歩みはさまざまでありましたが、主の道を整えることとなりました。

そして、彼らの歩みは曲がりくねってるようであっても、その道筋をまっすぐにすることとなったのでありました。

主イエスの弟子たちは、主の愛する子、主の御心に適う者、となって行ったのでありました。

そして、主イエス・キリストによって、主のしもべとなり、神の福音、良い知らせのために選び出され、召されて、使徒となったパウロは、この世において、どのように歩んだかを書き記しています。

新約聖書のローマの信徒への手紙15章4節から6節にこうあります。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

使徒パウロは、困難と苦難の多いこの世の道をどのように歩んだかと言うと、「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」と述べました。

パウロは、ただじっと我慢をしていたのではありませんでした。

苦しいこと、辛いこと、嫌なことをじっと我慢をしたのではなく、学んだのでありました。

その学ぶきっかけをパウロは与えられたと言うこともできます。

聖書から忍耐を学び、聖書から慰めを学んだのでありました。

すると、救い主イエス・キリストが共におられ、教え導いてくださることを知ったのでありました。

目には見えませんが、このお方がわたしたちを教え導いておられるのであります。

神は、このお方の苦難と十字架の死、そして、復活を通して、わたしたちに忍耐と慰めを教えになられ、わたしたちが希望を持って進むことができるようにしてくださったのであります。

行け、行け、進め、と主はおっしゃっておられるのです。

忍耐と慰めの源は、主イエス・キリストにあります。

主にある希望と忍耐、そして、慰め、これらによって育てられ、はぐくまれて、主イエス・キリストとの交わりに生き、主の愛が示されるのであります。

日々の苦しさ、辛さ、そして、その悲しみの中を生きていた人々に、主イエスは、かつてパンと魚、すなわち生きる糧を分け与えられ、多くの人々に分配されるということがありました。

救い主のいない羊のようなありさまとなっていた人々を、主イエスはご覧になられ、深く憐れみを覚えられたのでありました。

主イエスの憐みが多くの一人ひとりに分け与えられたのでありました。

その後すぐに主イエスは、弟子たちが留まることなく前に進んでいくことを求められました。

それは、湖の向こう側へ舟に乗って弟子たちに行かせることでありましたが、舟は逆風によって一向に進みません。

すると、その荒れた湖、その湖面を主イエスが歩いてこられ、主イエスが一緒に舟にお乗りになられると、湖に荒れ吹いていた風は止み、舟は前へと進んで行きました。

こうして主イエスとその弟子たちが進んで行くと、そこに、病の人々が、人々に連れられて来ました。

「あのイエスが来られた」「あの主イエスがここにおられる」と言って、病の人々を連れて来たのです。

そして、主イエスに「せめてその服の裾にでも触れさせてほしい」と願ったのでありました。

触れた者は、皆、いやされました。

そのような奇跡が、そのような神のお働きが、力強く進んで行くと、今日の聖書マルコによる福音書7章1節、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」

主イエスのお働きを聞き、見て、当時の宗教的指導者たちは反応したのでありました。

反感を持ち、妬みと憎しみを持ってやって来たのでありました。

人の行動を規制し制限する働きを担っていた彼らは、人々が大勢、主イエスのもとに集まって来るのを見過ごすわけにはいかなかったのであります。

しかしそれは、それだけ、主イエスのお働きには力があったという事実も明らかにすることとなります。

ファリサイ派と律法学者の人たちが、主イエスのもとに来て、2節「そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。」

聖書、マルコによる福音書は、ここで宗教的指導者たちの目がどこに向けられているのか、そして、彼らの心にあるものがどのようにその目の向きに現わされるのかを記しています。

彼らが見ているのは、宗教的「汚れ」ということです。

マルコ福音書は、「洗わない手」と記していますが、それは宗教的「汚れた手」を意味しています。

彼らの規則では、清くない、汚れている行為、正しくない行いとされていたのです。

その事情を3節、4節でマルコ福音書はこう述べています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ってきたときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」

宗教的指導者たちが、主イエスの弟子たちに見たのは、「人の言い伝え」でありました。

当時、ユダヤの民、そして、ファリサイ派の人々は、聖書の律法を大切なものとしてどこまでも守ろうとしていました。

しかし、それをどのように守ろうかということとなると、そこにたくさんの具体的な規則が人によってつくられることとなりました。

これが、「人の言い伝え」と今日の聖書が述べているところです。

定められたとき、人が動かせるのはこれとこれだけ、人が移動できるのは、人が行えるのは、など、さまざまな場面で、規則が出来上がり、それが積み重なって人の言い伝えとなっていたのでありました。

そこで、5節「ファリサイ派の人々と律法学者たちが訪ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』」

ここで言われている「汚れた手」は、宗教的汚れで、人の言い伝えによって定められた汚れのことを表しています。

彼らは、ユダヤの民にとっていわゆる正しくないことを見つけ、それを取り上げて言ったのです。

それは、彼らの心から出てくる言葉でありました。

そこで6節、「イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」』

主イエスは、忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることのできる聖書からお語りになります。

主なる神の御言葉を告げ知らせる預言者イザヤの預言です。

「この民は、口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」

人の正しさを求め、人の言い伝えがたくさんになればなるほど、それに合ってるのか、合っていないのか、そのことに気が向いて、気が取られ、いつしか人の言い伝えが厳しく守らなければならないという立場に人を引っ張っていく力が働きます。

そしてその中に入り込んでしまい、それを自分の心と思い込んでしまうことがあります。

人の言い伝えにつながれてしまったのです。

しかし、神の言葉はつながれていません。

神は、人の心を求めておられます。

その心が、主なる神から遠く離れてしまっている、と主イエスはおっしゃいます。

そして、7節、8節「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

預言者イザヤを通して語られた神の御言葉を、主イエスはお用いになられ警告しています。

「人間の戒めを覚え込んでしまった」とおっしゃるのです。

そのことにより、人々の業、働きは闇の中にあることになってしまったのです。

主なる神を避けてそのはかりごとを深く隠す者たちは災いとなるのです。

さらに、9節、10節「イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、「父と母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っている。』」

主イエスは、「人間の言い伝え」と「神の掟」についてお語りになり、神の掟がないがしろにされていると語りになります。

そして、神の掟、十の戒め、十戒より、「父と母を敬え」を取り上げておられます。

かつて、神がお立てになったモーセに、主なる神はお語りになったのです。

その戒めを守るように。

それなのに、11節から13節、主イエスはおっしゃいます。「あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうしてあなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

「コルバン」とは、ある物が「コルバン」と宣言されれば、それは、神へのささげ物となり、他の目的に用いることが禁じられていました。

この慣習をいろいろな口実にする行為を主イエスは指摘しています。

そこには敬うということがなく、あるのは「人の言い伝え」であることを主イエスはおっしゃいます。

人々は、人の言い伝えを守ることこそが救いに必要なことだと考え、そして、人を裁いていました。

しかし主イエスは、神の御言葉を聞き、神の掟から学んで、確信したことから離れないようにとお語りになります。

救い主キリスト・イエスへの信仰を通して、わたしたちは救われます。

折りが良くても悪くても、励み、励まし、忍耐と慰めの源なるお方に聴くのです。

神の言葉を無にすることなく、生ける神の御言葉を聴き、わたしたちは心から主なる神を待ち望みます。