「御顔を仰ぎ見る」 ヨハネの黙示録21章22節~22章5節

「神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。」

主の年2021年が暮れようとしています。

先週、主イエス・キリストのご降誕を特別に記念するクリスマスを共に祝い、今日、今年最後の主の日を迎えました。

教会暦では、神の御子イエス・キリストのご降誕を待ち望む待降節(アドベント)から降誕節に入り、今日がその第一主日になります。

今日は大変寒い日になりましたが、一年のうちでは冬至を越え、昼が最も短く、夜が長い時から、日がこれから次第と伸びて行くころとなりました。

わたしたちのこの一年間は、年間聖句「憐れみ深い人々は幸いである。」マタイによる福音書5章7節からでありました。

主イエス・キリストの教え、山上の説教とも云われるところでありました。

幼子から成人となられた主イエスは、弟子たちにおっしゃったのでありました。

「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」

主イエスは、幸いである人、祝福された人をどこにご覧になっておられるのかがこの御言葉によって捉えることができます。

それは「憐れみ」であります。

主イエスは、マタイという徴税人をしていた人物を「わたしに従いなさい」と弟子として招かれたとき、徴税人をこころよく思っていなかった人々におっしゃったのです。

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

そして、主イエスと弟子たち一行が共に歩んでおられたとき、人々が、主イエスの弟子たちは安息日を守らないと言ったとき、再び主イエスはおっしゃいました。

「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえはではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」

そしてそのとき、主イエスは、「ここに、神殿よりも偉大なものがある」とおっしゃって、人の子、すなわち主イエスは、「安息日の子なのである」と語りになられました。

当時、ユダヤの民にとって、エルサレム神殿こそが神がおられる所と強く考えられていたことからすると、その神殿よりも偉大なものがここにあるとおっしゃる主イエス、そして、安息日の主であるとおっしゃることの人々に対する影響は大きなものがありました。

また、あるときは、群衆が飼い主のいない羊のようであることをご覧になられて、主イエスは深く憐れみ、その中の病人をいやされたこともありました。

かつての預言者エレミヤは、こう歌っています。

「主の慈しみは決して絶えない。

主の憐れみは決して尽きない。

それは朝ごとに新たになる。

『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。」

主なる神の憐れみは決して尽きないということを知っているからこそ、自分の魂は言うことができるのです。

主なる神こそわたしのお受けするお方であるということであります。

悲しみの時に、うたう歌のない時にも、主なる神の憐れみを待ち望む、その朝を幸いなのものとしてくださるのであります。

二十世紀のドイツのある牧師は、「主のよき力に守られて」という歌を、厳しい時代背景の中でうたっています。

「主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、不思議にも守られ、慰められて、

私はここでの日々を君たちと共に生き、

君たちと共に新年を迎えようとしています。

過ぎ去ろうとしてる時は、

私たちの心をなおも悩まし、

悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。

ああ、主よ、どうかこのおびえおののく魂に、

あなたが備えている救いを与えください。

あなたが、もし、私たちに、苦い杯を苦汁にあふれる杯を、なみなみとついで、差し出すなら、

私たちはそれを恐れず、感謝して、慈しみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。

しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、

この世と、まぶしいばかり輝く太陽に対する喜びをお与えくださるなら、

私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。

私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。

そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。

あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

深い静けさが私たちを包んでいる今、

この時に、

私たちに、聞かせてください。

私たちの周りに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、

あなたのすべての子どもたちが高らかにうたう讃美の歌声を。

主のよき力に、不思議にも守られて、

私たちは、来るべきものを安らかに待ち受けます。

神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。

そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。」

御子イエス・キリストのご降誕を、東方でこのお方の星を見て知った占星術の学者たちも、主のよき力を、主のよき導きを、知った人たちでありました。

東方でよき知らせとして、ユダヤ人の王としてお生まれになったお方がおられることを、夜空の星を通して知ったのです。

そしてはるばる東方からエルサレムにやって来て、当時のヘロデ王に言ったのです。

「わたしたちは、ユダヤ人の王としてお生まれになったお方の星を見たので、拝みに来たのです」

主のよき導きは、御子イエスに向かっているのです。

そしてそれは、「ユダヤ人の王」と占星術の学者たちは言っていましたが、このお方は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるお方であります。

この世の力を振るっていたヘロデ王は、このことに大きな反感と敵意を抱きます。

しかし、占星術の学者たちは、エルサレムからベツレヘムへ東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まったので、ヨセフとマリアと一緒にいる幼子イエスの御顔を拝し、喜びにあふれたのでありました。

東方で見た星が導き、神のよき力が我らを守りたもうたということを知ったのです。

献げものをささげた学者たちに、これよりのち、危険な道を進むことがないよう夢でお告げが与えられ、彼らは別の道を通って自分たちの国に帰って行ったのでありました。

神は、朝に、夕に、彼らと共におられ、守り導かれたのでありました。

そしてその旅は、御子イエスへとつながっており、それは、すべての人々の救い主とつながっているのであります。

主なる神は、恵みのときにあなたに答え、救いの日にあなたを助けられるのであります。

闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとするのです。

御子イエスは成人となられ、神の国を宣べ伝えられます。

しかしこの世の暗闇は、救い主イエス・キリストを理解せず、主イエスは苦しみを受けられ、十字架につけられます。

死につかれますが、それにもかかわらず、復活されます。

主は、人々の罪を赦し、大いなる愛と憐れみが、あふれ出ました。

主イエスの弟子であったヨハネは、主イエスは神の子であり、メシア、すなわち救い主であると語ります。

そして救い主イエスを人々が信じるように、良い知らせを、福音を語ります。

信じてイエスの御名により、人々が命を受けるためにヨハネは語ります。

生きていても命を失ってしまっている、そのことに気づき、人々を救いへと導こうと、ヨハネは語ります。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、そのため御子イエスをお遣わしになり、わたしたちの罪を償ういけにえとしてくださったのです。

ここに愛があります。

ヨハネは、神の愛にとどまることを語ります。

しかし、そのヨハネも、この世の人々に捕らえられてしまいます。

神の御言葉と、主イエスの証のゆえに、パトモスと呼ばれる島に捕らえられてしまいます。

そこで、ヨハネは、聖なる霊に満たされ幻を見るのでありました。

そして、新しい世界をヨハネは見たのでありました。

新約聖書、ヨハネの黙示録21章22節から25節にはこのようにあります。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。都の門は、一日中決して消して閉ざされない。そこには夜がないからである。」

ヨハネは、幻を見て、また、聞いたのです。

これらのことは信頼でき、また真実であると聞き、見たのです。

都には神殿はなかったのです。

全能者である神と神の小羊であるイエス・キリストがおられるので、人のつくった建物としての神殿はないのです。

そして、神がおられるので、その光が満ちあふれているので、都を照らす太陽や月もないのです。

そして人々は、その主なる神の光のもとに都を行き来しているというのです。

その都の門は閉ざされるということがありません。

夜がないからです。

26節、27節「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。」

人々は光を携えて都に来ます。

その光は、人の光、人の栄光ではなく、神の栄光であります。

その神の栄光が現されるのです。

神の小羊なるイエス・キリストによって入るのです。

ただ主イエス・キリストの御名によって、命の書に名が記されているのであります。

その主イエス・キリストを、わたしたちへ、神は、遣わされたのです。

ヨハネの黙示録22章1節から4節「天使はまた、神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」

命の水が流れているのです。

その命の水は流れ下り、汚れた水に入って行くと、その水はきれいになるのです。

その水の流れていくところでは、どこでも生き物は生き返り、生き生きと豊かになります。

この水が流れるところでは、水がきれいになるからです。

この命の水の川が流れるところでは、すべてのものが生き返るのです。

そしてその源である神と神の小羊イエス・キリストを礼拝し、その御顔を仰ぎ見る者には、神の名が記されているというのです。

神が共におられるというしるしがあるのです。

それは、救い主イエス・キリストの御名です。

このお方の御顔を仰ぐのです。

あの星に導かれ辿り着き、御子イエスの御顔を仰いだ東方の占星術の学者たちのように、よき力に守られ、導かれ、わたしたちの救い主イエス・キリストの御顔を仰ぐのです。

5節「もはや、夜はなく、ともし火の光も、太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」

神である主がその光をもって満たし治めてくださっておられるのを、ヨハネはこの世で仰ぎ見たのです。

そして、今ここで、わたしたちを憐れみ、導かれる主イエス・キリストは、あなたをまたわたしたちをお見つめになっておられます。

この年を閉じ、新しい年を開こうとするこのとき、救い主イエス・キリストの御顔を仰ぎ望みます。