「大きなお喜びを告げる」 ルカによる福音書2章8節~21節

クリスマスおめでとうございます。

主イエス・キリストのご降誕を特別に祝うクリスマス礼拝に、今日、わたしたちは集まってまいりました。

日々の日常生活から、今、わたしたちは、今も生きておられる救い主イエス・キリストのもとにやって来たのであります。

わたしたちは、「伝えられたこと」に聴き、今日ここに辿り着いたのであります。

これまでに、わたしたちはさまざまな経験をしてまいりました。

この世において、楽しいことだけではなく、悲しいことをも経て来たのであります。

愛しき人をなくし、愛する人を送るということ。

そしてまた、今まであったことが、ものが、消えてしまうという失うことによる痛み。

わたしたちは少なからず不安の中を、幾夜の暗闇の中を通って来たのであります。

そして、その道は、その不安の歩みは、まだ続くかのように見えます。

しかし、この寒い冬の日に陽が射すように、神の憐みの御心の中に、今、わたしたちは包まれ、神の御心に触れるのであります。

わたしたちは、この神の憐みに包まれて光を見るのです。

高い所からあけぼのの光がわたしたち訪れ、暗闇に座してる人たちを神は照らしてくださるのです。

それにより、わたしたちの歩みを、神は平安へと導いてくださるのです。

わたしたちのもとに届けられました福音書は、その喜びをわたしたちに告げています。

わたしたちは、この世にあってこの喜びに生きてよいことを告げ知らせているのです。

まだしばらくは心に流れている涙は消えないかもしれない。

誰とも話したくないとも思うかもしれない。

そして傷つき痛んだ心は、そのままであるかもしれない。

しかし、高い所からのあけぼのの光が、ほのぼのと夜が明け始めるころの光のように、新しいことが始まろうとしているのであります。

神が我らを導こうとされているのです。

神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛されたのです。

それは、独り子、御子イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであります。

神は、御子イエス・キリストによって、この世を救おうとされ、それは今この時も変わりはなく、御子イエスは人々を救いへと導いておられます。

今日の聖書、ルカによる福音書2章は、わたしたちを救いへと導いてくださる主イエス・キリストの誕生を記しています。

ユダヤのダビデの家に属するヨセフ、そのいいなずけのマリア、ふたりは一緒にナザレの町からダビデの町であるベツレヘムへと住民登録のため上って行きます。

ところが、そのベツレヘムにおいてマリアは月が満ちて初めての子を生み、その子を布でくるんで飼い葉桶に寝かせました。

それは、この世の人々が怖がることのないように、近づいて、平安の心が与えられるように、そのお姿をもって、救い主は現わされたのでありました。

御子イエスが、ダビデの町ベツレヘムにお生まれになったころ、今日の聖書ルカによる福音書2章8節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。

救い主がお生まれになった時、その知らせはこの世の人々の伝え方とは異なっていました。

この世の力ある者が、何かを公式に発表するということでは決してありませんでした。

この世の王が、あるいはこの世の皇帝が、何かを公表し、それを伝えるという仕方とは全く違っていました。

人々に広く知られないところで、人々の気がつかないところで、神がお働きになられるのであります。

当時、羊飼いたちは大切なものを守っていました。

生きる羊たちを襲ったりする動物や、奪ったりする人間から羊を守り、夜通し番をしていたのであります。

暗がりの中、その闇の中で備え、夜が明けるのを彼らは待っていたのでありました。

すると、9節「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」

落ち着くことのない暗い夜に、主なる神の遣わした天使が近づいたのです。

日が落ち、暗い夜を通るときに、主の天使がその目を向け、そっと耳を傾けるようにすぐそばに近づいて来るのです。

「主の栄光が周りを照らした」とあります。

主がここにおられるという主のご臨在。

かつて、捕らえられていたエジプトの国を脱出したイスラエルの民は、指導者モーセを主なる神により立てられて、荒れ野へと出て行きました。

その数、壮年男子だけでおよそ六十万人という人々が出発したのでありました。

その出発した日の夜、主なる神は寝ずの番をされたのでありました。

滅ぼす者が家に入ってイスラエルの民を打つことがないため、彼らの家を主は救われたのでありました。

それ故、イスラエルの人々は代々にわたってこの夜を記念し、主のために寝ずの番をするのであります。

そして、主なる神の導きにより、指導者モーセのもとイスラエルの民は、荒野を旅して行くこととなりますが、主なる神は共におられたことを旧約聖書、出エジプト記の最後、40章34節から38節でこのように記されています。「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて上ると、イスラエルの人々は出発した。旅家にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。」

地上を旅するイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれたということですが、それは主なる神のご臨在、主がここにおられるという重みによりました。

旅路にあるときはいつも主が共におられる、その主のご臨在によって出発し、また、出発しないという判断をしていたのでありました。

幕屋というのは、荒れ野を旅する途上、神を礼拝する移動式の聖所のことであります。

その幕屋に主なる神はご臨在され、主の栄光が満たされると、モーセもその場に入ることができないくらいであったというのです。

「主の栄光が周りを照らす」ということは、そのような重みと圧倒的な力がそこにあったということであります。

ですから、暗闇の中、いつものように夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちは驚いたのであります。

かつて、イスラエルの民を導かれた主なる神の栄光が、そこに在ったからです。

羊飼いたちに、非常な恐れがやって来て、それが何重にも重なってやって来る大きな恐れに彼らは包まれました。

その力の中で、天使は言いました。

ルカによる福音書2章10節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」

天使は伝えるのです。

恐れる者たちに「恐れるな」と言うのです。

その必要はないということを、それを選ばなくてもよいことを告げるのです。

その音にならない声を聴くことができるのは幸いです。

野宿をしながら羊の群れの番をしている羊飼いたちに、民全体のことが告げられるのです。

そしてそれは、大きな喜びが与えられるということでありました。

当時のイスラエル、すなわちユダヤの民は、ローマ帝国の支配のもとにありました。

この世の大きな力によって、ユダヤの人々は押さえつけられていたのです。

そのような状況の中、天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いたちに告げるのであります。

そしてそれは、ユダヤの中心地であるエルサレム神殿においてではなく、野においてでありました。

天使は言います。11節、12節「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

天使は「今日」と言います。

そしてそれは、わたしたちにとっても「今日」なのであります。

天使は、時間と空間を超え、「今日」と言っているのであります。

ダビデとは、かつて、ユダヤの王の中の王と呼ばれる人物でありましたが、もともと羊飼いの少年でありました。

ダビデも夜通し羊の群れの番をし、羊を襲う動物を打ち倒すということをしてきた人物でありましたが、主なる神により選び出され、王となったのでありました。

そのダビデは、主なる神は羊飼いのようであることを身をもって知った人物でもありました。

その歴史的つながりの中に、わたしたちの救い主がお生まれになったということを、野宿する羊飼いたちは知ったのです。

天使は「このお方こそメシア、油注がれた王、王の中の王、救い主だ」と言うのです。

しかしそれは、この世の神殿や王宮にお生まれになったのではなく、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子であるのです。

それが民全体に与えられる大きな喜びのしるしです。

すると13節、14節「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

いと高きところで神に栄光がある、そして、地の上に、神に喜ばれる人々に、平和、平安があるのです。

天使に軍勢の大軍が現れて、神を賛美して言うのです。

羊飼いたちの歩みを、わたしたちの歩みを、平和の道に、平安の道に、導くのです。

15節、16節「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」

羊飼いたちは見い出したのです。

今日、天使の音にならない声を聴き、その知らせに従って行くと、しるしを見、救い主を見い出したと言うのです。

17節から20節「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

羊飼いたちは、大きな喜び、神がおられるという喜びにより、神をあがめ、神を賛美しつつもとのところへ帰って行き、歩みを進めます。

この話を聞いた人々は皆、不思議と思っていましたが、マリアはすでに天使ガブリエルを通して助けられ、支えられていたので、すべてのことを静かに思い巡らしていました。

ですので、21節「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」

神の子イエス・キリストはやがて、少年、成人となられ、人々の罪の赦しのため苦難を受けられ、十字架につけられますが、死と滅びに打ち勝ち復活され、今、生きておられます。

わたしたちがこの世の中で夜通し苦悩する中にあっても、今、生きておられます。

救い主はお生まれになったのです。

神の子はお生まれになり、わたしたちを救いに入れてくださったのです。

わたしたちに光は上り、恐れの影は消え去り、大きな喜びが与えられたのです。

このことを祝い、心より、クリスマスおめでとうございます。