「目を留めてくださる」 ルカによる福音書1章46節~56節

「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

今日、わたしたちに届けられ開きました聖書には、そのように賛美の歌が記されています。

教会暦の待降節は、主イエス・キリストのご降誕を特別に記念する日を前に備える季節であります。

祈りをもってお受けする、その準備をする時であります。

わたしたちは日常生活の中でさまざまのことを準備していると言えます。

今日一日のことの中で、また、一か月や一年といったある期間のために、そして、人生を大きく変えるための準備、備えということがあります。

そのどこにおいても、わたしたちは、神により遣わされた主イエス・キリストによって救われ、その中に生きています。

そのような歩み、主イエス・キリストによる救いの中に生きるということを、使徒パウロはコリントの信徒への手紙4章1節から5節というところでこう述べています。「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」

使徒パウロは、キリスト・イエスの救いの中に生きる者、主を待ち望むわたしたちは、このように考えるべきだと言うのです。

それは、「キリストに仕える者」、そして、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」ということです。

そうでなければならないというのではありません。

そうしなければならないというのではなく、神がすでにしていてくださっているからであります。

神がすでにキリストに仕える者、神の秘められた計画にゆだねられた管理者としていてくださっているからであります。

ですから、待ち望むことができます。

それでも、現在進行形のものがあります。

これが現実だとわたしたちは考え、今もこの現実は進行、前進しており、ほかにどうしようもないと考えます。

いわば現実の力が幅を利かせることがあります。

そしてそれが唯一絶対であるかのような現実が、いつのまにか偶像になってしまうことがあります。

しかし、わたしたちは、キリストの救いの中に生き、キリストに仕える者として勇気を出し、信じる信仰の希望を持つことができるのです。

主なる神は、わたしたちの根源なるお方です。

このお方に立ち返り、わたしたちは、考え、思い巡らし、そこから見るのです。

するとそのとき、すべての現在進行形の現実を打ち破るものが引き出されるのであります。

それが信じるということであり、あなたは救われているのだ、ということであります。

わたしたちのできませんという弁明、不可能という説明に、主イエス・キリストはおっしゃっておられます。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

今日、わたしたちの開きましたルカによる福音書1章には、主イエスがを語りになられる前、天使が告げていたことが記されています。

1章37節です。「神にできないことは何一つない。」

天使ガブリエルは、神から遣わされナザレという町にいたおとめマリアに現れて、神の御子イエスがお生まれになることを告げたのでありました。

驚くマリアに、天使ガブリエルが言ったのが、「神にできないことは何一つない」という言葉でした。

天使ガブリエルは、人と人、そして、神と人との間で、伝えることに関わる事柄を助けます。

マリアは、夫となるヨセフとの間、そして、天使ガブリエルが告げている通り、自分、すなわちマリアと神との間において、大切なことを伝達されたのでありました。

このような天使ガブリエルの助けがなければ、マリアはこの世の現実の力により、裁き、裁かれ、自分で自分を裁くこともしたことでありましょう。

しかし、マリアはそうしませんでした。

「あなた」という呼びかけを天使ガブリエルを通して聞いたからでありました。

「主が、あなたと共におられる」と天使ガブリエルは伝えました。

天使自身、「わたしが」と言っているのではなく、「主が、あなた共に」と言っていているのです。

マリアは、天使ガブリエルの伝える神の御言葉に助けられ、信じる信仰の目を開いたのでありました。

そして、ルカによる福音書1章38節でマリアはこのように言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

「はしため」という言葉を「伝えられたことをお手伝いする人」と言い換えると、マリアは主なる神のなさるそのお働きの中にあって、仕える者と言うことができます。

マリアは、神の秘められた計画に仕える者として、神の御言葉が成るようにと願っているのです。

神の御心が成るようにと祈り願う者は幸いです。

この人は、神に愛され、祝福された人だと、天使ガブリエルは助け、確かめたところで去って行きました。

マリアは、そこで、力を与えられたのでありました。

神の秘められた計画が、この身にあることを知った、そのことが行動となりました。

祭司ザカリア、その妻エリサベトの家に出かけて行きました。

エリサベトは身ごもっていました。

それは、夫であるザカリアに天使ガブリエルが告げた通りでありました。

ザカリアの家に入って、エリサベトにマリアは挨拶をしました。

すると、マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その体内の子がおどり、エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言ったのでありました。

「あなたは祝福された方です。」

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアの行動と挨拶が、エリサベトの魂を震わせたのでありました。

そして、聖なる霊に満たされ、神の祝福をその目で見たことを喜び、感謝するのです。

神が天使を通して伝え、告げられたことを受けとめ、信じる信仰が与えられた、その救いを喜び感謝するのです。

神のご計画と神のお働きの中を共に進み、共に仕える者と出会ったマリアは言いました。

今日の聖書、ルカによる福音書1章46節47節「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。』」

マリアは会いに行ったエリサベトの言葉を聞き、そして、神を賛美したのでありました。

それは、神なされる出来事の中に、今、わたしたちはいるということによります。

それまで戸惑い、困惑し、迷いに迷った中にあったのでありますが、それは、神の秘められた計画の中であり、今や、その神の秘められた計画をゆだねられた管理者、神に仕える者となったことを、神が遣わされた天使ガブリエルの助けを受け、知ったのでありました。

そこでマリアは、仕える者として、神を賛美する賛歌をうたうのです。

神と自分という関係の中で、マリアの意識は、「わたしの魂は主をあがめます」と言います。

それは、魂の慰め主であり、魂の救い主であるお方をほめたたえるということであります。

そしてマリアの霊は喜ぶ霊となって神をたたえます。

神を喜ぶということは、霊的領域においてなされます。

神は、わたしたちがどのような判断をしたとしても、どこまでも愛してくださるお方であり、そのいつくしみは絶えることなくとこしえであります。

わたしたちはそのことを魂において、そして、霊において、お受けするのであります。

48節にはこうあります。「身分の低いこのはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」

神の目は、わたしたちに届けられているのです。

そして、「あなたと共に」とその目は語りかけておられるのです。

それは、どのような場所においても、どのような時においても、変わらないのです。

変わるとすれば、わたしたち人の側が変わって行くのであります。

現実の力に目を注ぎ、神の力に目を向けなくなってしまうのであります。

神は、聖なるお方であります。

この世の延長におられるのではなく、この世を造られた聖なるお方がこの世におられるのです。

神は他に並ぶもののないお方であり、わたしたちをはるかに超えておられますが、わたしたちと共におられ助けてくださいます。

そして、神は信頼できるお方であります。

マリアからお生まれになる御子イエス・キリストは、人々を救います。

神から離れ、この世において罪の重さに苦しむ人々の罪を赦し、霊と魂を回復させます。

そのために御子イエス・キリストは苦しみを受けられ、十字架の死につかれますが、神により復活させられます。

神の愛は大いなる愛であり、信頼できるのです。

このお方が目を留めてくださったのです。

これ以上の幸いはありません。

マリアは歌います。

49節50節「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

マリアは、その身に神の御言葉が実現し、成ったことを知りました。

それは何かを外に求めて、それが実現し、成ったのではありませんでした。

神が先です。

神が先に動かれ、神が先にお働きになられ、すでに実現し、成ったということでありました。わたしたちの考える順とは違っています。

主は、すべてのことを超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝いているのであります。

神は、この地を超え、天をも超えて、光り輝いておられるのです。

このお方が、わたしに、偉大なことを成してくださったというのです。

マリアはそこに深い憐みを知ったのです。

それは、このようなものにも神の愛は届いているという感謝です。

何かをもってっているからではない、何かができるからでもない、ただ、「あなたと共に」とおっしゃってくださる主が深く、限りなく、憐れんでくださったのです。

それ故に、主を畏れるのであります。

51節から53節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散し、身分の低い者を高く上げ、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

わたしたちの主なる神に並ぶものはありません。

主はその御座を高く置かれますが、低く下って天と地をご覧になられます。

弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げてくださいます。

そして、自由な人々の列に、目覚めた人々の列に、返してくださるのです。

主はこのように喜びを与えくださるのです。

主なる神により、高く上げられたマリアは、主がそしてそうしてくださったことを確信しています。

そしてそれは、神の大いなる救いの中で起きていることを歌います。

54、55節、主なる神の「その僕イスラエルを受け入れて、憐みをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」

神の宝の民と云われるイスラエルの民、そして、神の祝福を約束されたアブラハムとその子孫、その神の憐みと、救いのお働きの中にあることを覚えるのです。

「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」とおっしゃるお方をわたしたちは待ち望みます。

そしてこのすぐ近くにおられる神は、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」とおっしゃいます。

その支えてくださる神の御手の中に、56節「マリアは三ヶ月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」のでありました。

今、わたしたちは、マリアが歌い語ったように、わたしたちの魂は主をあがめ、わたしたちの霊は救い主である神を喜びたたえます。