「生きている者の神」 マルコによる福音書12章18節~27節

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

わたしたちの主イエス・キリストはそうおっしゃいました。

近年、コロナ禍の中で人を「数」にして、その数字が大きく取り上げられることが日常的に重なり、心を痛めることも多い中、今日、わたしたちの主イエス・キリストは、お語りになっておられます。

主イエス・キリストは、かつて広く人々にお語り伝え始められた時、そのはじめの言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉でありました。

それは、主イエスご自身が、どういうお方であるのかを言い表している言葉であったと言うことができます。

すなわち、主イエスは、ご自身をお語りになられて、人々を救おうとされるのであります。

主イエスは、神の独り子としてこの世へと遣わされました。

「その時」は、父なる神がお定めになられたのでありますが、それは、数字を用いて、例えば、何時間、何分間というように数字、数量で測られるものではなく、質的なものでありました。

「時が満ちた」のであります。

それは、神のまなざしよってであり、人の目で計ったものではありませんでした。

神がこの地上を見わたされよくご存知であられたので、ふさわしいことを、ふさわしい時に、なされたのです。

そのような質的なご判断とご意思により、神はお働きになられて、「時が満ちた」のでありました。

神は、時を注いでおられるのです。

ですので「満たされた」のです。

そしてそのことを、主イエス・キリストはお語りになられました。

「時は満ちた」。

時の質的な意味においては、神のご意思とご判断が働いているということでありますが、それは「かつて」という昔あったこと、過去にあったこと、というだけではなく、今あること、現在あること、と言えます。

時は満たされ、今、主イエス・キリストは、お語りになっておられるのです。

「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスは、時が満ちているので、今ここでお語りになられておられます。

主の日において、日常生活において、病床において、心を痛めておられる人のすぐ近くにあって、主イエスは、告げ知らせておられるのです。

神の国は近づいたのです。

主イエス・キリストが来られたことにより、わたしたちのそばにおられ、わたしたちと共におられることにより、神の国は近づき、ここにあるといえるほどまで到来したのです。

神の国は、神が支配してくださること、神がお働きくださっておられるということであります。

ですから神の国は、祈る人々を招き迎え入れるのであります。

朝に夕に学校で祈っていた人、その後しばらく経っても、その祈っていたということ自体を忘れずに、友人を思い出し、友人の苦労と痛みを思い起こし、祈る人を神の国は招いています。

何年も続く闘病生活、夫婦で相談し、命を次世代につなぐという手立てと努力。

せめて生まれてくる子どもの顔を見せてあげたいというご家族と友人。

しかし、余命いくばくもないことに心騒ぎ立ち、どこに行けばいいのかと途方に暮れる人を、神の国は招いているのです。

方法や手段が尽きてどうしてよいかわからないと祈る人々を、神の国は招き、救い主イエス・キリストは招かれるのです。

神の国に迎え入れるのは、キリスト・イエスです。

主イエスは「神の国は近づいた。悔い改めて向きを変えて、福音を、良い知らせを信じなさい」とおっしゃいます。

わたしたちには、良い知らせである福音が目に見えないかもしれません。

そしてこの世において、この福音は隠されていると思えるかもしれません。

しかし、主イエス・キリストが来られたことにより、福音を信じることができるようになったのです。

すなわち、隠されてはいないのです。

福音に至る道を旧約聖書時代、神の御言葉を人々に告げ知らせる預言者イザヤを通して主なる神はこう語りになりました。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そして神は、主イエス・キリストに至る道を、備える者をこの世に生まれさせたのでありました。

しかし、この世は固くなり、暗く重く沈んでしまったかのようであり、主の道を、その道筋を整え、まっすぐにすることが難しくなってしまったのでありました。

そして、主イエス・キリストへ至る道を塞ごうとする人々がいました。

今日の聖書、新約聖書のマルコによる福音書12章18節から27節には、紀元一世紀当時ユダヤの宗教的指導者たちが出てまいります。

18節にはこうあります。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。」

ここに宗教的指導者であったサドカイ派という人々が出てまいります。

指導者たちということでありますが、当時、そのサドカイ派の人々の活動範囲はエルサレム神殿内に限定されていましたが、この世で、この世の力を彼らは保持していました。

ある時、ガリラヤ地方から弟子たちと一緒にエルサレムに来られた主イエスの所へ、サドカイ派の人々が来たというのであります。

今日の聖書箇所の前、マルコによる福音書12章の13節というところには、このようにあります。「さて、人々はイエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派のへロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」

マルコによる福音書は、主イエスのところへサドカイ派の人々が来る前に、ファリサイ派やヘロデ派の人々が主イエスのところに遣わされていたと記しています。

この時、主イエスのもとには、ユダヤの宗教的指導者たちがやって来ていたというのであります。

それは会派を越えて主イエスに反対し、論争し、言葉じりをとらえ陥れようとする者たちでした。

ファリサイ派の人々は、死者が復活するということと天使がいるということを信じていました。

しかし、サドカイ派の人々は復活も天使もないとしていました。

彼らは、エルサレム神殿の体制を国内外において保ち守ることを第一としていたのでありました。

それは、自分たちのこの世での地位、名誉、安全と深く関わっていたからでありました。

ファリサイ派、ヘロデ派の人々の次に、サドカイ派の人々が主イエスのところに来て尋ねます。

19節「先生、モーセは私たちのために書いています。ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけなければならない。」

サドカイ派の人々は、これのみが聖書としていた旧約聖書モーセ五書の中より申命記25章5節から10節に記されている「家の名が絶えないように継がせること」を引用しています。

彼らは、「聖書の申命記に記されています」と言うのです。

そして「さて」20節から23節「七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが、子を残さないで死にました。次男が彼女を妻にしましたが、子を残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、彼女は誰の妻となるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

サドカイ派の人々は、主イエスを陥れようと質問しています。

そして、旧約聖書をもとにして質問するその内容は歪められています。

悪意から問うているからです。

主イエス・キリストを退けようとするその思いから来ています。

サドカイ派が、復活について取り上げているのはそれについて認めないという態度からと言えます。

そして主イエスは、その時すでに三度、ご自分の死と復活を予告されていたのでありました。

主イエスがその弟子たちとともに、エルサレムに向かう途上のことです。

ご自身のことを主イエスは「人の子」と言いかえて弟子たちにおっしゃいました。

「人の子は祭司長たち(サドカイ派たち)や律法学者(ファリサイ派の人たち)に引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、その子は三日の後に復活する。」

主イエスが繰り返し三度予告されたその時が近づいていたのでありました。

人々の罪をゆるされ、救うため、主イエスは苦しみを受けられ、十字架の死につかれますが、復活されます。

死とを滅びに打ち勝ち、神からそれてしまって、的はずれになってしまっている罪から人を救い出されます。

主イエス・キリストは、復活の力を現されるのです。

その出来事への道を前にして、主イエスはサドカイ派の人々にお答えになられるのです。

24節「イエスは言われた。『あなたがたは聖書も神の力を知らないからそんな思い違いをしているのではないか。』」

多くの人々が国内外からやって来るエルサレム神殿を取り仕切るサドカイ派の人々、聖書をもとに、モーセ五書をもとに、取り仕切っていた祭司であり、貴族的でもあった彼らに、主イエスははっきりとおっしゃいました。

「あなたがたは聖書も神の力も知らない。」

そして、「思い違いをしている。」

主イエスは、サドカイ派の人たちの質問に直接お答えになる前に「あなたがたは思い違いをしている」とおっしゃいます。

なぜなら聖書と神の力を知らないからであります。

聖書は、神の力を神の御言葉によって証しています。

しかし、サドカイ派の人々は、聖書の全体ではなく、モーセ五書のみによって神殿を縛り、人々を縛ることになってしまっていたのでありました。

神の力、神の愛とゆるしの力から、はずれてしまっていたのでありました。

主イエスは、サドカイ派の人々にお答えになられます。

25節「死者の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。」

主イエスが死者の中からの復活についてお語りになっておられます。

その時には、めとることも嫁ぐこともない、と言うのです。

この世のこの地上における存在の秩序から変えられるのです。

新しい秩序に属する者となるのです。

そして、天の御使いのような存在にしてくださるのです。

わたしたちは、変容する、姿、形が変えられるのです。

今とは異なる状態に変えられます。

死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

復活の力、神の力によってです。

主イエスは、サドカイ派の人々が、旧約聖書を引用したように、聖書を用いてお答えになります。

26節「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」

神はご自身のことをそう呼ばれたと主イエスはおっしゃるのです。

アブラハム、イサク、ヤコブは、モーセにとって時代の全く違う人と言える人々です。

どの人物たちも、神に導かれ、守られ、この地上を歩んだ人たちでありました。

問題がまったくなかったのではありません。

ただ、神と共に歩んだのであります。

主イエスは続けておっしゃいます。27節「神は死んだ者の神ではなく。生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」

サドカイ派の人々に、主イエスは、大変大きな思い違いをしているとおっしゃいます。

それは、モーセに現れた神は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とおっしゃって、アブラハムの、イサクの、そしてヤコブの、神だった、かつてそうだった、とおっしゃらなかったのであります。

モーセに現れたように、神は、今も生きておられ、その神が、アブラハム、イサク、ヤコブの神とおっしゃられるのです。

アブラハムは神にあって今も生きており、イサク、ヤコブも神にあって今、生きていると主イエスはお語りになります。

この炎は燃え尽きないのであります。

そして、この生ける神の力によって、わたしたちは力強いものに復活するのであります。

わたしたちは変えられます。

このように、復活の力によって、永遠の命に生きる希望の中を、わたしたちは生きるのです。神にあって、今、生きるのです。

救い主イエス・キリストはおっしゃいます。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

神は、今、生きておられます。