「主が来られる」 マルコによる福音書13章28節~37節

「目を覚ましていなさい」と主イエス・キリストはお語りになられました。

「目を覚まして」というのは一日の生活の中で、眠っている時と起きている時という時間の区別というよりは、眠っている時も、起きてる時も「目を覚ましていなさい」ということであります。

勿論、人間の心と身体の健康ということでは申し上げるべくもなく、眠るということはとても大切です。

しかしここで、主イエスのおしゃっておられのは、いつで、もどこにおいても、ということであります。

それは何時起こるかわからない出来事が、起きるから、想定外の時に、意外な時に、備えなさいという意味で「あなたは目覚めていなさい」とおっしゃるのです。

冬が始まり、冬が深まり、暗い夜が長くなって行くこの時、主イエスは眠りではなく、目を覚ますということをお語りになられます。

教会の暦では、本日より待降節(アドベント)に入りました。

歴史的な教会ではこの季節を「主を待つのにふさわしいかをふりかえり、悔い改める季節」と呼んでいます。

「主」というのは、父なる神がこの世にお遣わしになられた主イエス・キリストであります。

主は、救い主としてこの世に生まれになられた、その御降誕を特別に記念し祝うその時を前にして、その主イエス・キリストを待つのであります。

この世において、わたしたたちは「待つ」ことの難しい中に生きているのかもしれません。

時間を計算し、そうでなくとも先を急ぐ気持ち、いつも先のことを、未来のことを、という思いにとらわれて、早くしなければと急き立てられているかもしれません。

そのような中にあっても、今、待つということ。

そしてわたしたちは、主イエス・キリストをお迎えするにふさわしい歩みを、在り方をしているかどうかふりかえる季節と云われます。

ふりかえり、向きを変えるのです。

そのふさわしい先は、主イエス・キリストであります。

アドベントという言葉は、ラテン語のアドベントゥスが由来と云われています。

その意味は、「接近」「到着」です。

そこから、「到着する」「やって来る」そして「今しも来つつある」という意味となります。

今、待ち望んでいるお方がやって来るのであります。

そのお方は主イエスです。

人の子であり、神の子であり、救い主です。

わたしたちが、待ち望んでいるのは、わたしたちのために苦しみ、十字架の死につかれ、 その愛とゆるしを現わされた主イエスです。

わたしたちは、今がどんな時であるかを主イエス・キリストにより知っています。

わたしたちはが眠りから覚めるべき時が既に来ているのです。

信じる信仰により、眠りから目を覚まし、救いに近づいているのです。

この世の絶望と徒労の中にあっても、それにもかかわらず、救いは近づいているのであります。

この世の日々を悩みと思い煩いの中で送り続けていようとも、それにもかかわらず、救いは近づいているのであります。

嘆き悲しみの谷を行くときも、冷たい風に心凍えてしまうそのときも、夜はふけ、日は近づいたのです。

ですので、闇を脱ぎ捨て、執着を捨て去り、与えられた主イエス・キリストという光の武具を身につけるのであります。

わたしたちは、キリストを衣とし、身にまとうことがゆるされたのです。

夜歩くようにではなく、日中を歩むように、であります。

キリストを思い、キリストに心を用いることを追い求めるのであります。

ドイツのある牧師はこう言いました。「神は上から眺めておいでになるだけの方ではない。神は地上の神であって、人間がもっとも困難とする場をご自身の働き場とされる。だから地上のことがイヤになったからといって、そこから目をそらしてはならない。世の中がイヤになればなるほど、そこに神の働き場を見る。」

苦しみと悲しみを御自身に引き受けてくださった主イエス・キリストが、共に苦しみ、共に悲しんでおられ、圧倒的な力で寄り添ってくださるのです。

神は、わたしたちを、わたしたちの主イエス・キリストの救いにあずからせるように定められたのです。

主は救いの光により、わたしたちすべてが光の子、昼の子となることをお望みになられ、眠っていないで目を覚まし、信仰と愛を胸当てとしてつけ、救いの希望を兜としてかぶり、慎んで主を待ち望むことを願っておられるのです。

この世で、ひたすらに生きるためにです。

そして、今日の聖書、新約聖書マルコによる福音書13章で、どのように主を待ち望むのかを主イエス・キリストご自身がお語りになっておられます。

マルコによる福音書の13章は、これまで覆いがかかっていて見えなかったものが、見えるように覆いを取り去る、そのような章であると云われます。

眠りから目を覚ます、そのことを主イエスは、わたしたちに示され、苦しみと悲しみの続くような中にあっても、主の到来が近づき、救いのときが近づいているのを知らせてくださっておられるのです。

マルコ福音書13章28節、主イエスはおっしゃいます。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。」

主イエスは「教えを学びなさい」とおっしゃいます。

その教えは、誰か他の人から学びなさいというのではありませんでした。

多くの人を惑わす人に惑わされないようにであります。

主イエスは、神がお造りになられたこの世界の被造物、自然をもとにお語りになられます。

神の被造物は、人に語りかけ、すべては関連している事柄を通して、主イエスはお示しになられるのです。

いくつもの季節、生き生きと葉が茂り、そして時が来ると、葉が落ち、木は枯れたようにも見えます。

多くの日の光を浴び、多くの暖かさを受けて木は、時を巡って行き生長します。

いちじくの木もそうです。

枯れたようにも見えた枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏が、その季節が、近づいたのが分かると主イエスはおっしゃいます。

そして、29節「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」

人の子とは、主イエス・キリストのことであります。

主イエスは、人の子であり、神の子です。

このお方が戸口に近づいて来られるのです。

主の到来が近づいているのであります。

だから「備えよ。悔い改めて向きを変え、方向を正しく合わせよ。」と言うのです。

主イエスが戸口に立っておられるのを見るのです。

主は戸口をたたいています。

だれか主の御声を聞いて戸を開ける者があれば、主は中に入ってその者と共に食事をし、その人もまた主と共に食事をするのであります。

死と滅びに対し、勝利を得る者、永遠の命の希望を得る者と、主イエス・キリストは、ご自分の座に共に座らせてくださるのです。

主は、招き、引き寄せてくださるのです。

そして、マルコ福音書13章30節、31節「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

戸口に立っておられるお方は、裁くお方であります。

しかし、主イエス・キリストにより、招かれ、引き寄せられた者にとって、そのときは、救いのときです。

わたしたちに寄り添い、共にあって、心の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。

古代の詩人も詩篇126篇で歌っています。「涙とともに種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

戸口に立っておられる主は、共に喜びの歌をうたおう、と戸をたたいておられるのです。

その戸を開ける者は、主の御言葉が決して滅びることのないのを知ります。

主は、十字架の死と復活により、滅びに勝利したもうたからです。

それゆえ、「慰めよ、わたしの民を慰めよ。」とわたしたちの神はおっしゃるのです。

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の御言葉はとこしえに立ち、滅びないのであります。

マルコ福音書13章32節、33節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

主イエスは、その日、その時が来るということをお語りなりますが、それがいつなのか、主イエスご自身も、天使たちも知らないとおっしゃいます。

天使たちは、求めればわたしたちを助けてくれる存在と言えますが、その天使たちも知らないとおっしゃるのです。

ただ、父なる神だけがご存じであるのです。

それは、天地を造られ、全宇宙を創られた全知全能なる神であられるからです。

わたしたちには、「その日、その時」すなわち、裁くお方が来られるその日その時は分かりません。

しかし、その時には、すべてのことが開かれて、わたしたちの悲しみと嘆きと労苦は過ぎ去って、喜びの歌をともにうたうときを迎えるのです。

それがいつなのかはわかりませんが、その日その時は来るのです。

そして、近づいているのです。

ですから、気をつけること、慎んでいること、目を覚ましていること、を主イエスはお示しになられるのです。

わたしたちは、目を覚ますのです。

父なる神が、御自分の権威を持って、お定めになった時や時期があるからです。

わたしたちには、その時と時期は知るところではありませんが、目を覚ますことに備えるのです。

力を受けることができるようにです。

34節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」

神の御言葉を取り、どのような時にも、主イエスに助けられて祈り、願い求め、絶えず目を覚まして根気強く祈り続け、福音の、良い知らせの神秘が大胆に示されるように、祈り、備えるのです。

このようにして責任を果たし、主を待ち望むのです。

主はすぐ近くにおられます。

ですから、何事も思い煩ってはなりません。

どんな時にも、感謝を込めて祈りと願いと献げ、求めているものを、心を開いて神に打ち明けるのです。

そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、わたしたちの心と考えとキリスト・イエスにあってお守りくださるのです。

35節「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなた方には分からないからである。」

主人が家に帰って来た時、それがいつなのかはわかりませんが、すぐに戸を開けることができるように、目を覚ましているのであります。

そして、主が来られたときにはわかります。

愛とゆるしの主が来られたときには、その愛とゆるしのお働きの故に、その救いの故に、わかります。

しかし、36節、37節、主はおっしゃいます。「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

わたしたちの主イエス・キリストは、繰り返して特に強く「目を覚ましていなさい」とおっしゃいます。

それは、この世においてわたしたちの務めであります。

眠りを選び、眠りにつく人は多いのです。

主イエスは、わたしたちが目を覚ましていることをお望みになっておられます。

わたしたちの救い主が、すべての人にそうおっしゃっておられます。

そして、わたしたちは、愛の主イエス・キリストにより目覚めるのです。

主イエス・キリストはおっしゃいます。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」