「受けるということ」 マルコによる福音書10章23節~31節

「今、この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。」

主イエス・キリストの御言葉であります。

季節は、11月の後半に入り、教会の暦では早くも年の終わりを迎えました。

ここ最近は、小春日和も続き、光は快く、太陽を見るのは楽しいこと、実感させられます。

陽の光がこの地に降り注ぐように、主イエス・キリストはこの世へと父なる神より遣わされ、その与えられたとき、その与えられました場所を、ひたむきに歩みました。

その道を行くのには「言葉」が必要であり、主イエスは、父なる神の御言葉に聴き、父なる神と共に在りました。

その与えられたとき、与えられました場所において、渇いていれば渇きをいやす水が与えられ、足りなければ満たされ、父なる神の御言葉が主イエスを導いて行きました。

その道を行くのには「言葉」が必要であり、その父なる神の御言葉が与えられるのには、つながりがなければなりませんでした。

それゆえ、主イエスは父なる神とつながっておられることを大切にされたのでありました。

それがなければ、人々を救いへと導くことができないことを、主イエスご自身よくご存知であられたのです。

愛された者として、愛する者の思いをよく聴き、よく知ろうとされたのであります。

父なる神の御言葉を聴き、ご自身に何が語られているのかを知ろうとされる中で、主イエス・キリストの道は造り上げられ、それは、神の道そのものとなったのでありました。

そして、神の道が通ることにより、神の国が伝えられていくこととなるのでありますが、その目には見えない神の道が通ることを快く思っていない人々がいたことを聖書の福音書は語っています。

主イエスの行くところにおいて、当時の宗教的指導者たち、そして、時には、主イエスの弟子たちさえもその進んでいる道を見誤りそうになります。

主イエスはそのたびごとに、愛とゆるしをお示しになりますが、神の国に入る、神の国へ招くことをお教えになり、勧め、促しておられました。

主イエスがガリラヤ地方からエルサレムへ向かう旅の途中、主イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた時、その人たちを弟子たちが叱ってしまったということがありました。

その道を進んで行くのに「これはいけない」と弟子たちは思ったのであります。

しかし、主イエスはこれをご覧になられた時、激しく憤られ弟子たちをお叱りになられました。

子どもたちを、そして、子どもたちを連れてくる人々を止めてはならなかったのです。

なぜなら、神の国はこのような者たちのものであったからです。

そして主イエスは、子どものように神の国を受け入れる人でなければ決して入ることはできないとおっしゃいます。

その時、子どもたちは何も話してはいません。

福音書に記されていないだけで何かを言っていたかもしれませんが、ただ受けるだけであり、子どもたちを連れてきた人々もただ受けるだけであった、と言えます。

主イエスに触れていただくそのことのみの信仰と言えます。

主イエスは人々を祝福するためその御手で触れてくださいます。

わたしたちの人生の旅の途中において、さまざまなことに妨げられてしまうことがあるかもしれません。

しかし、主イエスに触れていただくということをお受けする、そのことは大切なことであります。

わたしたちが道を行こうとするように、主イエスも道を行かれます。

エルサレムへと向かう旅を進め、出ようとされる主イエスのもとに、ある人が走り寄って来ます。

その姿には何か真面目であり熱心であるそのような姿が見えて来るようです。

この人は、主イエスに尋ねます。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

すると主イエスは、父なる神がお語りになった十の戒めを上げられますが、その人は、それをすべて「子どもの時から守って来ました」と言います。

これほどの真面目さ、熱心さの向こうに、自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わない強い自信のほどが窺えます。

その人を主イエスは見つめられました。

その目は、何かに向けられ熱心に注意深く見つめる目でありました。

そして、決して厳しい目が向けられているのではなく、愛とゆるしの目、慈しんで見つめられる主イエスの姿がそこにあったのです。

そして主イエスは、その人を慈しんでおっしゃいました。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持ってる物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

するとその人は、この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。

たくさんの財産を持っていたからでありました。

走り寄って来た人が、立ち去って行きました。

それを主イエスは見つめておられました。

やがて人々の罪のゆるしのため、主イエスが人々に捕らえられ、苦しみを受けられ、十字架の死へと向かう夜、エルサレムで裁判が行われている大祭司の屋敷の中庭に入って、火に当たっていた弟子のペトロ。

大祭司の女中がじっと見つめ、次に他の人が見て、そしてまた別の人が見て、主イエスの仲間だと言い出した時、ペトロは強くそれを否定します。

まだ言い終わらないうちに突然、鶏が鳴きました。

主イエスは、振り向いてペトロを見つめられました。

ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃった主イエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。

主イエスの目は、愛とゆるしの慈しみの目であったからです。

走り寄って来た人が、立ち去って行く、しかしそこには、愛とゆるしへと招くまなざしがあります。

エルサレムに向かう途中、主イエスと弟子たち一行は、「悲しみながら立ち去った人」を見送りました。

その人は、自分の「大きさ」に悲しんだのでありました。

しかし神は、それよりはるかに大きなお方であることを受け止め、お受けすることの前に、悲しみながら立ち去ってしまったのでありました。

そして今日の聖書箇所、マルコによる福音書10章23節「イエスは、弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは何と難しいことか。』」

主イエスは、神の国に入ることについてお語りになられます。

その人の持っているものというよりは、主イエスは、父なる神の御言葉に従うことを望みなっておられます。

しかし、24節、25節「弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは重ねて言われた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。』」

主イエスの弟子たちは「祝福はどこにあるのだろう」と思ったのでありました。

主イエスの御言葉に、うろたえてしまったのでありました。

しかし、狼狽し、困惑する弟子たちを、主イエスは受けとめておられます。

それは、父が子に対するようであり、母が子に対するようであります。

主イエスは重ねておっしゃるのです。

「それはなんと難しいことか」ということですが、そうおっしゃることの中には、愛とゆるし、その慈しみが溢れています。

主イエスは、弟子たちを「子たちよ」「子どもたちよ」と読んでおられます。

主イエスが弟子たちをそう呼ばれることはそうありませんでした。

ここに主イエスの思いが込められています。

しかし、「難しい」ということを重ねておっしゃる主イエスの御言葉に、26節「弟子たちはますます驚いて、『それでは、誰が救われることができるのだろうか』と互いに言った。」

弟子たちの考え方と、主イエスのおっしゃることの間には大きな開きがあって、重なり合うことがないかのように思えます。

それまでの人の言い伝えであることと、今、生きておられ、目の前にされる主イエスの御言葉と、まったく違うようにさえ思えます。

弟子たちは、より一層驚いて、意外なことに対して心に衝撃を受けてもいます。

どう受け止めたら良いのか、判断がつかず、困惑した表情を見せています。

誰が救われることができるのだろうかと、心もとなく思う弟子たちに対して、主イエスはお答えになられ、示されます。

27節「イエスは彼らを見つめて言われた。『人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。』」

弟子たちは、「誰が」と言っています。

その「誰が」という言葉の中には、「どのような人々が」ということが含まれ、それは、社会的地位、財産、生育歴、あるいは、健康状態、人間関係であると言えます。

またあるいは、この世での実績や功績ということもあります。

主イエスの弟子たちは、「誰が」と言います。

主イエスは弟子たちに、二つのことを答えになりました。

一つは「人にはできない」。

二つ目は「神にはできる」ということです。

主イエスは、「神には何でもできるからだ」とおっしゃいました。

主イエスがおっしゃるのは、「誰が」という人の側の視線ではなく、神の大きなお働きに視線を向けるように、と促されておられるのです。

人の思いを超えて、主の恵みは大きいのであります。

その恵みと慈しみは大きく、溢れるほどに与えられたのです。

救い主キリスト・イエスは、罪人、すなわち、罪悪感と無価値感に縛られ、神の御心から的を外してしまった人々を救うために、世へ来られました。

神の御心は人々の救いであります。

そして救いは、神が始められ、神の愛とゆるしが人の内に、人と人との間に、広げられるのを神は望んでおられます。

このお方を信じて罪ゆるされ、救われて、永遠の命を得るのであります。

神は大いなる力を振るわれます。

この天とこの地をお創りになられたのです。

神の御力の及ばないことは何ひとつありません。

この神が、キリスト・イエスを通して、招いておられるのです。

ですから、救い主キリスト・イエスはおっしゃるのです。

「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

しかしそれでも、弟子のペテロは以前のままの視線で言いました。

28節「ペテロがイエスに、『このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました』と言い出した。」

主イエスがおっしゃっておられることを受け止めきれずにいるペトロを、主イエスは否定せずに、慈しんでお答えになられます。

29節から31節「イエスは言われた。『よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」

主イエスは、弟子たちを招かれたガリラヤ地方からエルサレムへと向かい、そのエルサレムにおいて十字架の死につかれます。

人々の救いのために命が献げられます。

人の罪の苦しみと悲しみを拭い去るため命を捨てられ、全身全霊を尽くされます。

父なる神がお遣わしになられた主イエス・キリストは、死と滅びより復活され、わたしたちが今この世で豊かな祝福を受け、来るべき世では永遠の命を受けることの出来るように成し遂げてくださいました。

神の大いなる愛が、キリスト・イエスにおいて現わされました。

主イエスは、今この世で受け、来るべき世で受けるということをおっしゃいます。

神の愛と神の力によって、救いの御業、救いのお働きをこの世で、来るべき世で、成してくださっておられるのは主です。

そして主は、招いておられます。

愛と慈しみをもって、救いの道をこの世で示してくださっておられます。

神の愛と神の力によって、先のものが後になり、後の者が先になることがあります。

そしてさらに、神の愛と神の力により、主イエス・キリストに従い、わたしたちは喜びを受ける者、そして、喜びを受けた者として、この世の道を歩むのであります。