「救いの徴」 マルコによる福音書13章3節~13節

「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」

主イエス・キリストが、その弟子たちにお語りになられました。

「宣べ伝えられなければならない」と主イエスはおっしゃっておられます。

それは何を伝えようとするのかと言うと、福音であります。

福音とは、良い知らせのことであります。

人は、良い知らせを受けると他の人に伝えたくなるものです。

そのこと自体はよいことであると言えます。

その人のみにとっての良い知らせだけではなく、この世の一人ひとり、この世界の一人ひとりにとっても良い知らせは伝えられるべきものであります。

わたしたちの日常生活においても、伝えられるべきことが伝えられている、伝えられていない、ということがあるかもしれません。

ひとり心の内にとどめておきたいという良い知らせもあると思いますが、この良い知らせは、人を救うのであります。

悲しんでいる人を慰め、途方に暮れている人を労り、泣いている人の涙を拭うのであります。

そもそも神の御言葉である聖書は「伝えよう」として書き記されているように、わたしたちは、その良い知らせが伝えられていることに耳を傾けています。

そして、今日の新約聖書のマルコによる福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とある通り、福音である良い知らせは、神の子から始められ、イエス・キリストから始められると述べています。

すなわち、何が福音であるかと言うと、それは神の子であり、イエス・キリストであるということ、そして、誰がその初めであるかというと、それは神の子であり、イエス・キリストが福音の初めということであります。

そのことから「伝えられなければならないこと」とは何か。

この世に生き、わたしたちが送る日々において、誰が、また何が、伝えられなければならないのかというと、それはわたしたちの救い主イエス・キリストであると福音書は語っています。

しかし、そのことの前に、この世では目に見えないさまざまな網が張られ、見ることのできない壁が造り上げられてしまっていたのでありました。

今日の聖書は、新約聖書のマルコによる福音書13章3節からでありますが、この13章の始め1節2節には、新共同訳聖書では「神殿の崩壊を予告する」という小見出しが付けられこのようにあります。「イエスが神殿の境内を出て行かれたとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」

弟子の一人は、弟子たち、そして人々の代表と言うことができるかもしれません。

目に見えるものに夢中になって、目に見えるものにすっかりとらわれてしまっていたのでありました。

勿論、この世においてどのように見えるのかということはとても大切なことです。

しかし、人は惑わされるということがあるのです。

そして、主イエスの弟子の一人ペトロがのちに手紙で述べています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。」

わたしたちは過剰に恐れることはありませんが、思い当たるようなことことがこの世にはあるのではないでしょうか。

マルコによる福音書13章で、主イエスとその弟子たちが行くとき、主イエスを狙う者たちがいました。

主イエスを退け、排斥しようとする者たちがいました。

その目には見えない壁は固く、目には見えない壁は強いものでありました。

そのような中、弟子の一人は、目に見えて大きく、堅固で、立派な、神殿にすっかり夢中になっていたのでありました。

「なんとすばらしい建物でしょう」と言うのです。

本当にそう思ったのではないでしょうか。

当時の技術を結集し、人と物、そして、長い年月を費やしての工事により、壮大な神殿であったのです。

しかし、主イエスはおっしゃいました。

「この大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない。」

主イエスは、その時には目に見えていないものをご覧になっておられました。

それはのちに、神殿が大炎上崩壊し、破壊され、そこは誰も住んだことのなかったかのように見えた、と言われるほどのありさまとなるのを、主イエスは見ておられたのであります。

それは、いつわりの惑わす者たちにより、荒れはてる前兆、何かが起こる前に現れる徴に注意を払わず、また、それを信じようともしなかったことによる、とユダヤのある歴史家は述べ、彼らは落雷にあって目も心もそれに奪われた者のように、神の警告に聞きしたがなかった、と伝えています。

神殿崩壊より四十年前、主イエスの弟子の一人は「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物」と見ていましたが、その時、主イエスは神の御言葉に従わなかった人々を同時に見ておられたのでありました。

そして、マルコによる福音書13章3節、4節、人々を救いに導く主「イエスがオリーブ山で神殿の方向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがひそかに尋ねた。おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

主イエスの弟子たち、ここでは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、そしてアンデレだけが上げられていますが、マルコによる福音書は、彼らだけで、多くの弟子たちに、ではないことを強調していると言えます。

「ひそかに尋ね」ているということも、これから主イエスがお語りなられることは、多くの人には理解されないことを表しているということができます。

それは、人の内面にある悲しみが、他の人には見えず分からないというようであるかもしれません。

やがて、人々の救いのため、苦しみを受けられ、十字架の死につかれる主イエス・キリストの悲しみを、人は見ることができないのです。

しかし、主は復活され、死と滅びから救い出されることを主イエスご自身はご存知であるので、5節「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。』」

人に惑わされ、判断や考えが混乱し、見失ったとしても、主イエスのもとに戻るように。

そして、救い主イエスが続けておっしゃいます。

6節「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすであろう。」

救い主を名乗る者が大勢現れるのです。

それはヒト、モノ、コトに現れるのです。

それらのことに気をつけるのであって、恐れること、臆病になって不安になることはありません。

主イエスのもとに戻るのです。

主はおっしゃいます。

7節、8節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」

地震、戦争、飢饉など、これらの事は現代のわたしたちもよく聞き知っています。

どの事々もわたしたちの心と体をひどく苦しめますが、これらは起こるに決まっていると主イエスはおっしゃって、それらは、わたしたちの目には世の終わりのように見えますが、 主イエスは「まだ世の終わりではない」とおっしゃいます。

わたしたちにはこの世で苦難があります。

しかし、それにもかかわらず勇気を出すことができます。

主イエス・キリストは、既に世に勝っておられるのです。

主イエスは、この世の苦難を「産みの苦しみ」とおっしゃいます。

そこに、はじまりが始まるとおっしゃいます。

信じる信仰が始まるのです。

かつて主なる神が、苦しむイスラエルの民をエジプトから脱出させるため、指導者モーセをお立てになられましたが、そのモーセが生まれた時のことからを新約聖書ヘブライ人への手紙11章23節から27節でこう述べています。

「信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、エジプトの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」

神と共に進むモーセは、この世のからみつく網、この世のさまざまな妨げとなる壁ではなく、目に見えない方を見ているようにして進んで行ったのであります。

気をつけて。

主イエスはおっしゃいます。マルコによる福音書13章9節、10節「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」

ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレという主イエスの弟子たちに、あなたがたは引き渡され、打ちたたかれる、そして証しをすることになると主イエスはおっしゃいます。

それはすべて自分たちのためではなく、主イエスのみ名のためであります。

そして、主イエス・キリストから出て、始められたことなので、主イエス・キリストが証しされることになります。

彼らは、主イエス・キリスト、すなわち何を語り、誰を語るかと言うと、救い主イエス・キリストを語り、光である新しい言葉を語り始めます。

彼らは、苦しめられ、悲しみのうちに言葉を失ってしまうかもしれない。

しかし、主イエス・キリストの内にあって、静かな沈黙から、新しい言葉が語られるのです。

そこには、死と滅びの悲しみしかないと思っていたところに、福音が語りかけ、福音が語り始めるのであります。

あなたに、また、わたしたちに。

主イエスはおっしゃいます。11節から13節「引き渡され、連れてれて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労してはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

救いの徴は、救い主イエス・キリストのみ名にあります。

この世では労苦と悲しみが途切れることがありません。

しかし、そのときには救いの徴があります。

十字架の死と復活の主イエス・キリストがおられます。

この主のみ業を思い続け、いにしえに主のなさった奇跡を思い続け、主のお働きを一つひとつ口ずさみながら、主のみ業を思い巡らします。

主の聖なる道を思えば、主のような良い知らせはありません。

救いの徴は、人々の間に、一人ひとりの中に、お力を示された主イエス・キリストにあります。

ですから、主イエスはおっしゃいます。

「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」