「神の種」 ヨハネの手紙一3章1節~10節

「神の種がこの人の内にあるからです。」

今日、わたしたちに与えられました聖書は、人の中にあるものについて述べています。

そしてそれは確かなものとして、わたしたちに与えられていると聖書は語るのです。

季節は、早く紅葉や蔦が色づくころとなり、秋深まる十月最後の日曜日となりました。

秋の中には、すでに冬が与えられ備えられているかのようです。

それとまた同じように、黒く暗い闇の中に、白く明るい輝きが与えられているということがあります。

古代の詩人がうたった歌、旧約聖書の詩篇130編1節から6節にはこのような言葉があります。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら

主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり

人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき

わたしの魂は望みをおき

御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして

見張りが朝を待つにもまして。」

この世にあって、神を信じる信仰によりうたう詩人は、その心に暗く重いものを持っています。

「深い淵の底」に入り込み、そこにいることを感じています。

詩篇130編には、「都に上る歌」と名が記されていますが、それは日常生活の場から神のおられる神殿のある都へ上って行くその道行きを表しているかのようです。

その旅の道のり、人生という旅の途上で、うたわれる歌のようです。

その道の途中では、深い淵の底があり、幾度もその暗黒の夜を通らなければならないことがありますが、古代の詩人はその時、知っていたのであります。

何から始めるべきなのか、をです。

深い淵の底にあって、そのような所に立つこととなって、心の中で声を聞いたのです。

「始めよ。主を呼ぶことから。」

その内なる声を聞き、そしてそれこそが主なる神からの呼びかけであると信じ、「主よ」と呼びかけることから始めるのであります。

足が動かない、手が動かない、そして、心を動かすことも困難な状況に陥ることがあるかもしれない、しかし、内なる声を与えられ、その御声が語りかける方向に向きを合わせ、「わたしの魂は望みをおきます」と詩人は、主なる神へとうたうのです。

主に望みをおき、魂は望みをおき、御言葉を待ち望むのです。

暗く重い夜を過ごし、夜通し見張りをしている人が朝を待つように、必ず夜は明け朝がやって来ると待ち望むのです。

始めよ。

主に望みをおくことから。

そこにあなたの光は昇り、そこにこそあなたの明るさはあるのです。

今日の聖書ヨハネの手紙を記した主イエスの弟子ヨハネは、その青空の晴れ渡った朝のような明るさを知ったのです。

ヨハネは手紙の初めでこう述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言(ことば)について。」

この「言(ことば)」とヨハネが言っているのは、命の言葉であり、生きているという意味内容を持った言葉で、死んだ言葉ではないということであります。

光があり、熱があるのです。

人を生かし、生き返らせる言葉です。

ヨハネは、その命の言(ことば)を目で見たと言います。

そして、この世にあって押し潰されそうになっている、その人、その心に、伝えようとします。

始めよ、この命の言(ことば)から始めよ、と言うのです。

ヨハネが伝えようとしている知らせとは、神は光であり、神には闇がまったくないということです。

このことは、わたしたち人間にとって、まったく大きな慰めです。

わたしたちに闇がまったくないというのでは決してありません。

神には闇がまったくないということこそが、人間にとって大きな慰めです。

ヨハネは、主イエス・キリストの弟子として共に歩みました。

主イエスの苦難と十字架の死、そして、復活の後、天に上げられたその後も、ヨハネは主イエスの弟子であり続けました。

多くの年月が過ぎていきました。

太陽が上り、また、太陽が沈み、巡りめぐり行く多くの季節の中で、人々と出会い、そして、送り、別れを繰り返しました。

闇の中を歩き、光の中を歩いて来ました。

心と体のその体力も落ちて来たかもしれません。

口数も以前よりは少なくなったかもしれません。

その手と額には年輪が刻まれ、この世で大切なものを重ねて受けてきたことを証ししています。

そして、目もかすんで来たかもしれません。

しかし、何が本当に大切なことなのかが見えて来たのであります。

そして、その明るさが増して行くのです。

ヨハネは闇がまったくない光を見たのです。

そしてその語る御言葉は、命の言葉であったことを繰り返し知ったのです。

そしてその繰り返されること、反復されることは、神の愛であり、神のゆるしであることを知ったのです。

しかしヨハネは、光であり命であるキリスト・イエスを伝えるのでありますが、それを「偽り」とする人々に対しているのです。

救いがこのお方にあるのに、慰めがこのお方にあるのに、そして、すべての始まりがこのお方にあるのにもかかわらず、そのことを認めない者たちをヨハネは、目の前にしています。

しかし、ヨハネは共に歩んで来たこのお方をよく知っていたので、このお方を「偽り」とするその人たちのことを非難することはしませんでした。

ただ、愛とゆるしがどこにあるのかを伝え、そのために歩み、手紙で命の言葉を記しました。

そして、今日の聖書ヨハネの手紙一3章1節「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、その通りです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」

御父とは、父なる神であります。

神はその独り子イエス・キリストを与えになったほどに、世を愛されたのであります。

独り子イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであります。

なぜ、キリスト・イエスが来られたのか、それは、信じることを呼び起こすため。

そして、信じる者が一人も滅びないためです。

永遠の命に生きる希望によって、この世でわたしたちは生きるのです。

ヨハネは呼びかけます。2節「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」

ヨハネは、わたしたちは、キリスト・イエスにより神の子だと言います。

しかし、それがどのような姿になるかは分かりません。

しかし、神の御子のみ前においてその似姿となると言うのです。

キリスト・イエスの霊的感化を受けた者となるのであります。

神の霊によって導かれる者は、神の子なのです。

神の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、主なる神の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊のお働きによることなのです。

3節、4節「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。罪を犯す者は皆、法に背くのです。罪とは法に背くことです。」

神の御子キリスト・イエスに望みをおいている人は皆、希望によって生きています。

そしてその望みは、キリスト・イエスからのものであり、キリストが生まれたようにその似姿となるようにとヨハネは述べます。

「清さ」は、父なる神と御子キリスト・イエスとの関係に現わされ、キリスト・イエスを見た者は、父なる神を見たことになるのと同じように、その関係の「清さ」にとどまり続けよ、との勧めです。

父なる神の愛に思いを致し、キリスト・イエスを見つめながら命の道を歩みなさいと言うのです。

主の愛とゆるしは深く、わたしたちの主の忍耐深さは、救いです。

わたしたちはその救いの中で励むのです。

5節、6節「あなた方も知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。」

キリスト・イエスは、人の罪のゆるしのためにこの世に来られました。

それは、わたしたち一人ひとりの間に来られ、わたしたちに平和があるように、平安があるようにと主イエスは願っておられるからです。

主イエスには、罪一つも見いだせませんでした。

しかし、人の罪が救い主を退けたのです。

その人の心の闇をヨハネは見たのです。

そして、主イエス・キリストに罪のゆるしを見た者は、御子イエス・キリストの内にいますと言います。

御子イエス・キリストを見ること知ることが命にとって必要なのです。

ヨハネは、この手紙を読み、聴き、分かち合うすべての人々が、死と滅びから救われることを願っています。

愛に満たされること、ゆるしにあふれていることを、見ること、知ることを自分に許可することを願っています。

ですので、数多くの経験を経たヨハネは、わが子を諭すよう呼びかけます。

7節、8節「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。」

この世で「惑わされないように」とヨハネは言います。

しかし、この世でわたしたちは揺れに揺れ、踏み外しそうになり、また、踏み外し不安を抱いています。

しかし、救い主キリスト・イエスは来られ、このお方から始めることができます。

キリスト・イエスのみ名によって、立ち上がり、歩き始めることができます。

キリスト・イエスのみ名によって、思い、祈ることができます。

そして、わたしたちではなく、神の子キリスト・イエスが悪魔に打ち勝ち、悪魔の働きを滅ぼしてくださるのです。

ここに、神にゆだねることのできる平和と平穏があります。

そして、9節、10節、ヨハネは述べます。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。」

ここでわたしたちは「罪を犯す」ということに意識が強く向いてしまうかもしれません。

しかし、神が生まれさせてくださるのです。

キリスト・イエスによって。

キリスト・イエスによって朝が始まり、キリスト・イエスによって生活が始められるのです。

一日の始まり、今ここで、わたしたちを愛してくださった神の愛を心いっぱいにします。

その神の愛という神の種は、光によってわたしたちの内にあたためられ、わたしたちの命を生かします。

信仰の根を伸ばし、希望の葉を開き、愛の花を咲かせます。

それが、神の祈り願っておられることであるからです。

その神の種がわたしたちの内にいつもあるように、キリスト・イエスは、神の愛を確かなものとしてお与えくださったのです。