「信仰によりて」 ヘブライ人への手紙11章17節~22節

「信仰によって」と今日の聖書は、この地を歩む人々にくりかえし語っています。

台風が過ぎ、再び暑さが残る中、十月を迎えました。

教会の暦では聖霊降臨節という長い期節を歩んでいます。

今月十月の第四主日からは、降誕前節という期節に入り、その後、待降節、降誕節と教会暦は進んで行きます。

そのように時を刻み、今この時は、実りの秋。

夏に花を咲かせた後に実った穂が垂れ下がり、いよいよ稲刈りの時期が日本国内各地域で訪れようとしています。

実りの早いものを早稲(わせ)、遅いものを晩稲(おくて)、その間のものを中稲(なかて)と呼ぶそうですが、とても多くの人の手がかけられ育てられてきたことでしょう。

信じて、期待して。

そして何よりも成長させてくださるのは神さまであります。

太陽を昇らせ、雨を降らし、天と地の恵みが加えられ、わたしたちの命の糧が与えられますことを感謝いたします。

今日、わたしたちの開きました聖書は、新約聖書ヘブライ人への手紙であります。

この手紙の受取人は、キリスト者となってある程度の年月を経ていたと云われていますが、その信仰はあまり成長していなかったのでは、と言われます。

このヘブライ人への手紙を、誰が書き記したのかは明確ではありませんが、その宛先はユダヤ人キリスト者たちと言えます。

時代としては紀元60年代後半で、まだエルサレム神殿がローマ軍によって破壊、炎上する前というユダヤの民にとってとても大きな苦難が襲ってくるそのすぐ前と言ってよい時期であります。

ヘブライ人への手紙はユダヤの歴史的な厳しい苦難を前に、そのユダヤのキリスト者たちに語っているのです。

そしてわたしたちの信仰の始まりであり、完成者であられるお方、主イエス・キリストから目を離さないでいなさいと呼びかけているのです。

わたしたちは、苦難を前に、すっかりその物事に目を奪われ、心を奪われてしまいます。

そして、目を離すことによって物事が色々と入り混じってしまい、整理がつかなくなって混乱してしまうということもあります。

その中で判断つかないこともあります。

ヘブライ人への手紙は、目を離さないで、見つめながら、ということを勧め、語ろうとしています。

神はかつて神の御言葉を告げ託した預言者たちによって、多くのかたちで、また、多くのしかたで語られました。

そして、時至って神の独り子である主イエス・キリストによって、ユダヤのために語り伝え、わたしたちにお語りになられたのでありました。

救い主イエス・キリストはわたしたちを死と滅びから救い出し導き出してくださること、そして、ユダヤのエルサレム神殿にて大祭司が司っていたように、神と人との間に立ち、人と人の罪の赦しを主イエス・キリストは成し遂げてくださったのです。

しかも、罪の赦しの神への供え物は、主イエス・キリストご自身の命でありました。

主イエスはまことの神の独り子であり、まことの人でありました。

ですので、自分自身の弱さもよくご存知であられました。

主イエス・キリストは、肉体においてこの地上を生きておられた時、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自身を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その神を畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。

主イエス・キリストは、神の独り子であるのにもかかわらず、苦しみを通して従順を学ばれたのでありました。

そして、この神への従順によって、完全な者となられた主イエス・キリストは、ご自分に従順な者たちの永遠の救いの源となられたのであります。

主に従う人は、いつまでも残るもの、それを主イエス・キリストに見い出し、その光に照らされたのでありました。

永遠の救い、その源の光であります。

主イエス・キリストが、神の御心によってただ一度ご自身の体を十字架の死にかけられ、献げられたことにより、わたしたちは救われたのです。

ただ主イエス・キリストによって救われたのであります。

ですからこのお方を信頼しきって、真心から神に近づくことができるのであります。

「自分の確信を捨ててはなりません」とヘブライ人への手紙は語ります。

この世で、肩を落とし、落胆し、力を失い、信じることも難しくなっているかも知れない人々に語ります。

与えられた自分の確信を捨ててはなりません。

この確信には大きな報いがあります。

神のみ前に正しい者は信仰によって生きるのです。

自分は正しい者ではない、とひるむようなことはしなくてもよいのです。

神はここにおられます。

わたしたちはおびえ、ひるみ、滅びることを心配するのではなく、信仰によって命を確保するのです。

主イエス・キリストが命をかけてくださったその主の命によって、わたしたちは命を失わないようにしっかりと保つのであります。

そしてこの世にあって、わたしたちは絶望ではなく、信仰によって生きるのです。

ヘブライ人への手紙11章1節にはこうあります。

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

わたしたちは日々何を確認しているのでしょうか。

心配でしょうか、不安でしょうか、そして、思い煩いでしょうか。

その一つ一つを確認しているのでしょうか、それらの確認をどうしてもしなければならないこともあるでしょう。

しかし、それらの心配事をどこから見ているかをあらためて振り返ることも必要であります。

心配から心配を、不安から不安を、思い煩いから思い煩いを、ただ大きくし増幅しているだけのことも多いのです。

わたしたちは、わたしたちを愛し望んでおられるお方を確信し、このお方から目を離さないのであります。

この確認によって、わたしたちは主イエス・キリストの中を生きることへと解放されるのであります。

そしてそのことによって、わたしたちは自分自身の存在の意味を与えられていることを知るのです。

ヘブライ人への手紙は、信仰へと確信する歩み、信仰へと確認する歩みへ進んだ人々について述べています。

それは望んでいる事柄を信じ、見えない事実を見る歩みでありました。

主が、人々を恐れと不安から解放されたのであります。

恐れと不安がすべてすっかりない、なくなる、と言っているのではありません。

主イエス・キリストを見つめながら、確信を与えられることを確認することへと解放されるのであります。

ここに慰めと平安があります。

ヘブライ人への手紙11章2節にはこうあります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

そして、信仰によって歩み出し、歩み続けた人々ヘブライ人への手紙は書き記しています。

旧約聖書に登場する人物たちの信仰を見つめつつ、神より賜った信仰が働くそのことを分かち合うのです。

アベルとカインの兄弟からは、その信仰によってアベルは神に正しいものと証明されました。

エノクは、死を経験しないように天に移されましたが、神に喜ばれていたことが証明されていました。

ノアは、神のお告げを受け、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

そして、アブラハムは、神により自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのでありました。

旧約聖書創世記12章から、まだアブラムと呼ばれていたアブラハムが、神に召し出されるところです。

主なる神は、アブラムにおっしゃいました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」

そして、アブラムは、この主の御言葉に従って旅立ったのでありました。

アブラムの心の内はどうであったのかということ、また、アブラムは主の御言葉に対してどんなことを言ったのか、聖書には記されていません。

ただ信仰によって旅立った、行動したということだけが語られています。

ヘブライ人への手紙は、これらの人々が地上では仮住まいの者であり、自分の故郷を探し求め、さらにまさった天のことを熱望し、神は彼らのために都を用意されていた、と述べます。

そして、ヘブライ人への手紙11章17節から19節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

アブラハムは、その独り子イサクを、山の上で神への献げ物としてささげるよう神から命じられると、その通りに出て行き、行動しました。

ヘブライ人への手紙は、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる、とアブラハムは信じていたと語ります。

神は信仰を与え、アブラハムはその信仰によって生きたのです。

神はイサクをアブラハムに返され、信仰による祝福をさらに確かなものとされました。

ヘブライ人への手紙はそのことを力強く確かなことと認め、わたしたちと一緒に確認しているのです。

失意と思えるような中にあって無理をして説明する言葉を言うこともなく共に扉を動かそうとしているのです

信仰によって、20節から22節「イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」

アブラハムに続くイサクは祈り、ヤコブも祈り、神を礼拝し、ヨセフは語り、指示を与えましたが、それはすべて信仰によって、ということでありました。

そしてこれらの人々の祈り願いは、後に続く一人一人に神の祝福があるようにということでありました。

限られた時の中でどれだけのことができたかというよりは、言葉にならないほどの想いを信仰により神に伝えることができるということです。

ですから彼らは、祈り、礼拝し、語り、言葉を遺しました。

そのようにして造り上げたのであります。

そして神はすでに用意をされているのであります。

信仰によって歩む者たちがこの世の喜びにまさる喜びの席に、アブラハム、イサク、ヤコブらと共に着くことを。

この世には、動かされなければならない山、しかし、動かしがたい山があります。

心の痛み、失望、不満、落胆という山々があるかもしれません。

しかしこの世にあって、アブラハムのように神の祝福の約束に従う信仰によって希望を輝かせ、愛され守られているという確信を、主イエス・キリストは実現されました。

永遠の救いが与えられるその希望が成就し、成し遂げられたのです。

信仰によりて、この命の糧が与えられ、神により造り上げられた人々と共にあって、わたしたちは一人ではないのです。

主がわたしたちを守るからであります。