「御心によって創造された」 ヨハネの黙示録4章1節~11節

「御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」

今日、わたしたちに与えられた聖書は語っています。「御心」とは、神の御心であって、神の思い、神のお考えと言うことができます。

すべてのものは神の思いとお考えによって存在しているということです。

現代の科学技術などを優先した考え方からするとやや不思議に思えるかもしれませんが、聖書は創造主なる神を語ります。

聖書の初めの書、創世記の始まりにはこうあります。

「初めに、神は天地を創造された。」

そして、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。

そのようなところに、神が御言葉をお語りになられます。

「光あれ」

何もないというよりは、混沌としたところに神の御言葉があると、その通りになりました。

光があって、神は光を見て、良しとされたと聖書の初め、創世記に記されています。

わたしたちが光を認識するのは、神が「光あれ」とおっしゃってくださったからでありました。

そして、昼と夜、大空と海と大地、植物、天体、動物、そして、人を神はお造りになられたのでありました。

そして、この天地創造の働きは、神の御心によるので、その造られたすべてのものに「神はこれを見て、良しとされた」と聖書には記されています。

神はただ思いをお考えになられるだけではなく、これを見て、良しとされたのです。

ということは、すべてのもの全被造物は神に良いものとして認められているということであり、それぞれのものが良いものとして存在しているということであります。

そしてその大きな恵みは、人間の目に見えるものと見えないものが勿論ありますが、「見る」ことの重要性を聖書は語ります。

天地創造のお働きのとき、「神はこれを見て」と言われている通り、「良し」とされたものは、神によって造られたものですが、そのお造りになられたものを神は見て、その思いと考えを表明されるのです。

そこに神の御心が鮮明に現わされています。

そして、表面的に見えるもの、現実として見えるものだけではないものを見ることは、わたしたちの生き方に大きな影響を与えると言えます。

文字通り、生き方に大きな影響を与えられた人物、使徒パウロも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と述べています。

パウロは、目を注ぐものに注意をしていたと言うことができるでしょう。

この世の見えるものは過ぎ去り滅びるものでありますが、それを突き抜け、いつまでもあり続けるものがあるという現実に、彼は目を注いでいたのです。

それは、このわたしを本当に生かす命にたどり着きたいという切なる願いでありました。

救い主イエス・キリストと共にいたいと熱望し、このお方がはるかに望ましいと彼は考えていたのです。

聖書は、「目を開いて見えるようにしてください」という人の内にある祈り願いを、主がお聞きくださることを語ります。

主が目を開かれたので、その人は「見た」ということを聖書は述べているのです。

がそれは、天が開かれるのを見たということでありました。

「天」というのは、神の領域ということであります。

目に見える人の領域から、それまで目に見えなかった神の領域が開かれ、見えたということです。

天が開かれるのを見ると、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、その階段を神の天使たちが上ったり、下りたりしているのが見えるのであります。

天が開かれると、主が傍らに立って「見よ、わたしはあなたと共にいる」とおっしゃるのが聞こえるのであります。

そして、「あなたを守り、連れ帰り、見捨てない」と主がおっしゃるのが聞こえるのであります。

そしてまた、天が開かれると、神の聖なる霊が降って、ある人にとどまるのを見ると主はお語りになります。

その主なるキリスト・イエスの弟子であったヨハネは、ある主の日のこと、聖霊に満たされ、幻を見たのでありました。

神の霊感を受けたヨハネは、それまで見ていたこの世の世界と異なる、見えていなかった世界を見たのです。

神が示されたのです。

現実には存在しないものや、異常とも言える現象を通して、神が示されたのでありました。

それはもはや、昨日、今日、明日、という、過去、現在、未来、というものを超えた世界と言えます。

しかしヨハネは、この幻を見たとき苦難の中にいました。

主イエス・キリストが人々の救いのため、十字架の死を遂げられましたが、復活され、天に上げられ、神の大きな愛とゆるしが人々の間に広げられて行きましたが、この世の力により、ヨハネとキリスト者たちは迫害を受けていたのであります。

紀元一世紀当時、皇帝を礼拝しなかったからでありました。

神でないものを神とすることをしなかったのでありました。

それゆえ、この世の力は、ヨハネをまたキリスト者たちを激しく追い詰め、苦しめていたのでありました。

いわゆる「忌まわしき人間」が力をふるっていたのでありました。

ヨハネは、そのような状況の中で幻を見、神の御心を見ているのであります。

今日の聖書箇所、ヨハネの黙示録4章1節にはこうあります。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後、必ず起こることをあなたにしめそう。』」

ヨハネは、神の聖なる霊に満たされ幻を見ています。

天に開かれた門があります。

そして、ラッパが響くような音が語りかけます。

それは、神がなさろうとすることに進んで行く合図のような響きです。

ラッパの響きは、神のご意図されていることが開かれるそのことを表しています。

そしてその御声は「来なさい」「示そう」と語っています。

2節、3節「わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っておられる方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。」

門の開かれていた天には玉座がありました。

玉座とは、天における王座を表し、神のご支配と栄光がここにあるという神の臨在を意味しています。

その座に座っておられるお方は輝いておられるのです。

碧玉は青、赤めのうは赤、エメラルドは緑。

青、赤、緑の光が輝いているのです。

そして、この青、赤、緑の光を一つに集めると、白色の光になります。

光ではなく色のまま三色合わせると黒になるのですが、三つの光を一つに集めると白い光になるのです。

玉座の中央は、白色に光り輝いているのです。

そこに神はおられます。

そして、ヨハネは幻でその玉座の周りを見ます。

4節、5節「また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。」

まことに不思議な光景でありますが、ヨハネは見たのです。

玉座の周りに席があるのを。

その座が、その場所が用意されていて、その座に白い衣を着、金の冠をかぶった、苦難を通り抜け、迫害をくぐり抜けた者たちの代表ともいえる二十四人の長老たちが座っています。それが誰であるのかというよりは、その者たちの場所が用意されているということであります。

それはこの世にあって、自分の居場所がどこにもないと思える中にあって、救い主イエス・キリストによる救いです。

主イエスは、「あなたがたのために場所を用意して戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」とおっしゃいました。

玉座には力があります。

その力は物理的に強制する力ではなく、愛とゆるしによる力です。

その力が稲妻となって、雷鳴となって、愛とゆるしはそれほどの力となって、玉座にあるのです。

そして七つのともし火は、七つの霊と合わさって燃えています。

神の霊は燃えていて、あなたの暗い夜をも明るくともす常夜灯のようです。

このともし火は、暗いこの世と、暗くなった心を照らすのです。

6節「また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。」

神の玉座の前は、すきとおった輝きの海のようであり畏敬の念を抱く、恐れを呼び起こす海でありました。

わたしたちはこの世の海を、神を畏れ敬いつつ航行し、渡って行くのであります。

そして、玉座の中央の周りにいる四つの生き物には多くの目があります。

それは、わたしたちを究め知っておられる目です。

前からも後ろからもわたしたちを囲み、通じておられ、知っておられ、わたしたちはその中にいるのであります。

その目は、神のもとにあって驚くべき働きをされるのです。

四つの生き物がいます。

7節「第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。」

旧約聖書エゼキエル書に登場するケルビムという存在にも四つの顔があり、ケルビムの顔、人間の顔、獅子の顔、鷲の顔がありました。

ケルビムは、神のものである聖なるものを守るために仕える存在であります。

ケルビムは、神を永遠に賛美する御使いであり、そのようにして聖なるものを守るのです。

ヨハネは幻を見つづけ、聖なるものを守り、神を賛美するその中にいます。

そして、8節、9節「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると」

神の光と神の風を受ける翼は、わたしたちに愛と平安を与える羽です。

わたしたちは、その御翼の陰に隠れます。

そしてその御翼のもとにあって神を賛美いたします。

10節、11節「二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。『主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力と受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。』」

ヨハネの見た幻は、玉座におられる神と、キリスト・イエスを礼拝する者たちを映し出しています。

そして、ヨハネは厳しい苦難の中にいます。

それは自分一人だけではなくキリスト者である仲間たちも同じく苦難の中にあり、痛みを負っているのです。

しかし、それにもかかわらず、また、そうであるからこそ、そのこととはまったく異なる光景を、主なる神はヨハネに見せ、示し、「ここへ上って来い」とおっしゃいます。

そしてそれは、白く光り輝く神の臨在の中での礼拝であり、疑いもない救いがあり、平安があります。

ヨハネは、魂を回復させ、深い慰めを与えられ、あらゆるものに勝利される神の力に覆われたのです。

神は、御心によって万物を存在させ、また創造されます。