「涙ぬぐわれ」 ヨハネの黙示録7章9節~17節

「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

今日、わたしたちむさし小山教会において、天に召されました敬愛する兄妹姉妹を想い、追慕しつつ記念礼拝をおささげしています。

ともに同じ時、同じ場所を歩んだ敬愛する兄妹姉妹を一人ひとりに与えられました賜物、そして、一人ひとりに備えられました神さまの導きをも、今、思い起こします。

悲しかったこと、そして、楽しかったこと、数多くの思い出と記憶がよみがえってまいります。

ただ愛して、愛してくれた方がたを思い出します。

そばにいて、そのお声に触れていたいとも思います。

そして今日、涙の雨の降るこのとき、わたしたちはすべてのその思いを主なる神のもとに、大切な宝を携えやって来たのであります。

今日、わたしたちの開きました聖書は、新約聖書、ヨハネの黙示録であります。

聖書は旧約聖書、新約聖書で一つの聖書でありますが、この聖書の一番最後におさめられている書がヨハネの黙示録です。

そしてこのヨハネの黙示録1章1節にはこう記されています。

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すでに起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そしてキリストが天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」

聖書は、その終わりの書で、「イエス・キリストが示してくださったこと」を語ります。

この世に、神はイエス・キリストをお遣わしになられました。

キリストとは救い主であることを表しています。

すなわち、イエスは救い主であるということです。

そして黙示とは、一般的な意味では暗黙のうちに意思や考えを表すこと、隠された真理を示すことであります。

わたしたち人の中には暗黙のうちにということがあります。

口に出さないで黙っているということがあるかもしれません。

言葉にすることが「できない」ということが、言葉にすることが「できる」ことよりもはるかに多く、広く、深いと言えます。

その暗黙のうちに、あたかも隠されているかのようなことが示されるのです。

そして、1章2節、3節で続けてこう述べられています。「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。」

ヨハネの黙示録には、キリスト・イエスの弟子であったヨハネに、神から与えられたものが記されています。

その言葉を読み、聞き、分かち合い、守る人たちは幸いであるというのであります。

そして「時が迫っている」とありますが、それは、未来から現在にやって来る、迫っているというよりは、今ここにあること。

今、ここにあるけれどもそれは、言葉にすることができずに、あたかも隠されているかのようであるということです。

これからの未来というよりは、今ここにすでにあると言えます。

お一人おひとりの人生には隠された言葉にならないものがある、しかし、その中に光があって、それは未来ではなく、今ここで輝いているのであります。

わたしたちは、その光を見出すのです。

「ヨハネの黙示録」のヨハネは自分のことについて1章9節でこう述べています。「わたしは、あなた方の兄弟であり、ともにイエスに結ばれて、その苦難、支配、忍耐に預かっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」

そしてヨハネは、その島で主の日に、見ることとなったことについて書き記すのです。

それは何か付け加えることも何か取り去ることもまったくないものでありました。

ヨハネはキリスト・イエスにより、多くのことを聞き、見て、今日の聖書箇所ヨハネの黙示録7章9節10節でこう記しています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数える数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」

人々の救いのため、十字架の死につかれ、復活し、天に上げられた救い主キリスト・イエスの弟子であったヨハネは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」を見たというのです。

それは、あらゆる時、あらゆる場所を歩んできた人々であります。

環境が違う、文化が違う、時代が違う、生まれが違う、育ちも違う、この世においては多種多様とも言える違いのある、数えることのできない、しかし、その一人ひとりが集まったというのです。

その大群衆といえるほどの人々は、白い衣を身につけ手になつめやしの枝を持っています。

その色と枝は勝利を表しています。

勝利の衣に身につけ、勝利の枝を手に持っているのです。

その人々が、神の玉座み前と、小羊なるキリスト・イエスのみ前に立って、大声で叫んだというのです。

ヨハネが見たのは「証言」でありました。

勝利を身に纏うこととなった人々は、父なる神と、その独り子であるキリスト・イエスのみ前で、この勝利はどこから来ているのかを言い表しています。

救いは主なるお方のもとにあります。

この人々の主は、父なる神であり、その子であるキリスト・イエスであります。

この人々は、主なるもの、主なるお方を見出し、見つめているのです。

そしてヨハネはそれを見続けています。

そしてまた、11節、12節「天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々を限りなくわたしたちの神にありますように。アーメン。』」

ヨハネがその目を向けたのは天使たちでありました。

神のみ心を受けて、願いがあれば人を支える天使たち。

白い衣の勝利の人々の言う「救いは主のもとにあります。」という言葉に応えて「アーメン」と天使たちは言います。

「アーメン」とは、「確か」に「まことに」という意味です。

ここで「その通りだ」と応じているのです。

一人ひとりの通って来た道は違う、見てきた風景もう違う、出会った人や物も違う、しかしその中に、「その通り」「確かに」「まことに」と共に応え得るものがあるのです。

天使たちは、神を礼拝しつつ言います。

「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力」これら七つのものは、神にあると言うのです。

そしてそれぞれの一つひとつのことは「あらゆるものを超えている」のです。

すなわちあらゆるものを超えた賛美、あらゆるものを超えた栄光、ということです。

この世にあって、あらゆるものを超えてやって来るもの、それが「世々限りなく神にありますように」と礼拝しているのであります。

ここに魂を慰め、魂を回復させる礼拝があり、それをヨハネは見ています。

13節「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』」

おびただしい数の証言する証人の群れが、大空を厚くおおう雲のようにわたしたちを囲んでいます。

それを目の前に長老という人物が尋ねるのです。

この白い勝利の衣を着た者たちは誰であり、どこから来たのか、長老はその答えを知っています。

わたしたちの人生が、わたしたちに問いかけています。

それと同じように長老は問いかけます。

しかし、ヨハネは14節「そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです。』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」

ヨハネに長老という人物が問いかけていますが、ヨハネは「わたしの主よ」と答えて呼びかけています。

ヨハネにとってその問いは主からのものであったと受けとめることができます。

表面的には長老であるかもしれない、しかし、それがだれからの呼びかけであるのかを彼は見抜く力を与えられたのです。

そしてわたしたちは、その光を見出し、光を見つめます。

長老は、そして、主は、答えています。

「彼らは大きな苦難を通って来た者だ。」「その衣は小羊の血で洗って白くしたのである。」

あらゆるところから集まってきた人々は、苦難という道を通ってきましたが、主なる神とキリスト・イエスのみ前に、大きな、そして、深い喜びのうちに礼拝をおささげしています。

救いがあるからです。

人々の罪の赦しのため、十字架の死につかれ、死と滅びに勝利し、復活され、神の大いなる愛を現した小羊なるキリスト・イエス。

このお方によって勝利を与えられた人々がここにいるのです。

それは、人の想いを超えています。

しかし、神のみ心によるものであります。

それだからこそ、わたしたちは神にまったくゆだねることができます。

それゆえ、15節「彼らは神の玉座にの前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」

ヨハネが見るのには、苦難を通りキリスト・イエスによってやって来た人たちが神に仕え、神を礼拝する姿、そして、神がその人たちの上に幕屋を張っているのが見えます。

幕屋とは、荒れ野を旅する時に、その所々でこの幕屋を張って神を礼拝する場所としたことから、そこに神がおられる、神の栄光があるということを表しています。

神の光がこの人たちの上に表され、その光がとどまっているというのです。

ですので、16節、17節「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

主なる神の栄光がある。

それは神の重みがそこにあるということです。

神が幕屋を張ってそこにおられるので、あなたを見守り、あなたを覆ってくださるのであります。

主はまどろむことなく眠ることもありません。

神にあって、小羊なるキリスト・イエスは「羊飼い」であるのでわたしたちには何も欠けることがありません。

小羊なるキリスト・イエスは、牧者となって玉座の、神の座の中央におられ、わたしたちを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴ってくださります。

わたしたちの魂は生き返ります。

キリストにより死と滅びに勝利したのです。

キリスト・イエスを仰ぎ望む魂は、そのすべての顔から涙をぬぐい去られたのです。

そしてヨハネは、主の日に隠されていたことを見ました。

もはや死はなく、もはや悲しみも、嘆きも、労苦もない。

永遠の命の希望を生きるのです。

天にある敬愛する兄妹姉妹と、この地にあるわたしたちと、救い主キリスト・イエスにあって生きるのです。

わたしたちは、命の水が湧き出る泉に招かれました。

その命の水がそそがれる神の玉座と、キリスト・イエスのみ前に、今、わたしたちは集まりました。

同じ時、同じ場所に、わたしたちはいます。

永遠の命の希望に生きるため、キリスト・イエスが命の水の泉へ導き、神がわれらの目から涙をことごとくぬぐわれるからであります。