「神のものは神に」 マタイによる福音書2章22章15節~22節

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と主イエスキリストはおっしゃいました。

今日の聖書、新約聖書マタイによる福音書22章15節からの新共同訳聖書では「皇帝への税金」と小見出しのつけられた聖書箇所において、主イエスはお語りになられました。

マタイによる福音書の始まりには、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とある通り、この福音書は主イエス・キリストがお生まれになるまでのことから書き記し始めています。

このお方はどこから来られてどこへ行かれるのかということを述べ、そして、このマタイによる福音書が深い交わりを造り上げていたユダヤの人々との関係を系図というかたちから表そうとしているのであります。

「アブラハムの子」というのは信仰の父と呼ばれるアブラハムの子孫ということであります。

そしてそれは信じる信仰において「アブラハムの子」であるのです。

ここでは血縁、血のつながりのある間柄というよりは、目には見えないけれども霊的な意味において、アブラハムが主なる神からお受けした祝福の約束、その祝福の源につながっているということであります。

確かに、主イエス・キリストにつながっているということでは、人間として血のつながっている親族ということもできますが、福音書は主イエス・キリストとつながっている者たちは、信仰による祝福の源とつながっているということを語ろうとしています。

そして、「ダビデの子」のダビデという人物は、ユダヤの歴史において王の中の王と呼ばれる人物であります。

ユダヤ初代の王はサウルでありましたが、その次に主なる神がお選びになったのがこのダビデでありました。

ユダヤにおいて、人間として人々とのつながりということが言えますが、ここでも福音書は、主イエス・キリストとつながっている者たちは、王による祝福の源にとつながっているということを語ろうとしています。

王の中の王ダビデのように勇気と希望が授けられ、罪の赦しと慰めが与えられている、それは主イエス・キリストによるのだということを、福音書は系図を通して描き出そうとしています。

そしてここに、マタイによる福音書が宛先としているユダヤの人々の誇りとしている系図を通して主イエス・キリストこそが神の子であり、救い主であることを語るのであります。

主イエスはユダヤの人々の間にお生まれになり、成人になられてからは、ガリラヤの町や村を巡って、神の国について教え、病を癒され、悪霊を追い出され、神のよい知らせを伝えられました。

それらの働きを通して人々の意識を神へと向けようとされたのでありました。

それが、人々の救いへとつながっているからであります。

ある時、主イエスはガリラヤ地方からエルサレムへ上って行かれ、エルサレム神殿に入られます。

しかし、神とつながる場所とされていた神殿の境内において売り買いをしていた人々が多く、主イエスは、「わたしたちの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と強くおっしゃって、売り買いをしていた人々を追い出されたということがありました。

その後、主イエスがエルサレム神殿境内で教えておられた時、ユダヤの宗教的政治的指導者たちはやって来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。誰が権威を与えたのか。」と問いただします。

主イエスはその時、人々の心を見つめられ直接はお答えにはなられませんでした。

この世の権威は大切なものではありますが、主イエス・キリストには父なる神の権威が与えられているのです。

ですので、エルサレム神殿において主イエスは、「わたしの家は」と神殿についておっしゃることがお出来になったのでありました。

しかし、ユダヤの指導者たちはそれを脅威、自分たちを脅かすことと受け止め、そこに恐れを抱いたのでありました。

当時、ユダヤの群衆は、主イエスを神の御言葉を語る預言者だと思っていたので、それを否定し、主イエスを捕らえようとしても、群衆への恐れから宗教的政治的指導者たちは手を出せずにいました。

主イエスは、たとえ話をお語りになられながら、「神の国はあなたたちから取り上げられる」、「外に放り出される」とおっしゃいます。

当時のユダヤの宗教的指導者たちは、まったく的を外してしまっていたのでありました。

どれだけ熱心であっても、どれだけ正しくあっても、的を外してしまっていたのであります。中心であるものを中心とせずに、中心から離れてしまっているのです。

弓から矢は放たれているのですが、矢は的から外れているのであります。

力がないのではありません。

何かが欠けているのでもありません。

向きが違っているということであります。

そのことによって人々が神のもとへと辿り着くことが出来なくなってしまっていること、神から離れてしまっていることを、主イエスは苦しみと痛みとして負っておられるのであります。

ですから、主イエスはたとえを通して指導者たちに警告されたのです。

そのような中で、マタイによる福音書22章15節から15節「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようか相談した。」

ファリサイ派というのはユダヤの宗教的指導者の一派、ユダヤ自治の行政にもかかわっていました。

彼らは、群衆に対する恐れを持っていました。

そしてそれは不安となってますます不安が増して行き、すっかり的を外してしまうこととなったのです。

ファリサイ派の人々は出て行きました。

恐れと不安にとりつかれ、とびついて出て行きました。

待っていることが出来なくなってしまっていたのです。

主イエスの言葉じりをとらえ、罠にかける、主イエスを陥れる目的で、相談に出て行ったのであります。

主イエス・キリストが、言いそこなうこと、失言されることをファリサイ派の人々は考えていたのであります。

それは、彼らの日常的な働き、また、あり方であったのかもしれません。

断片的に部分的に、人の言葉をとらえるということであります。

そしてそこから非難をつくり出すのです。

しかし、父なる神から権威を授かった主イエス・キリストに、言いそこなうこと、失言されることはあるのでしょうか。

ファリサイ派の人々は、恐れと不安により、権威がどこにあるのかを、すっかり見失ってしまったのです。

16節17節「そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どう思うでしょうか、教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか、適っていないでしょうか。』」

ここに、当時のユダヤの社会的事情が表されています。

この時、ユダヤはローマ帝国に直接支配され、ユダヤの民はローマ帝国に税金納めなければならなくなったのです。

ユダヤのファリサイ派の人々はそのことを許すことができなかったのであります。

それは経済的な問題というよりは、異邦人から税金を求められることにユダヤの民として強く抵抗するということでありました。

それに対して、ユダヤのヘロデ派の人々というのは、先代のヘロデ大王時代に戻りたい、戻りたいと言う人々で、その目的のためローマに積極的に協力し納税を人々に勧めてもいました。

ユダヤの中にあって、ファリサイ派とヘロデ派の立場は正反対だと言えます。

しかし、主イエスを陥れようという目的において、ファリサイ派の人々は出て行き、ヘロデ派の人々と相談し、主イエスのもとにやって来て尋ねるのであります。

不思議なことですが、ここで彼らが始めに主イエスについて言うことはその通りであることをマタイによる福音書は語っています。

イエスは真実のお方で、真理に基づいて神の道をお教えになられ、だれをもはばからないお方であられるのです。

彼らが表明していることは確かなことと言えるのですが、彼らの心は違うところにあるのです。

それは恐れと不安、そして、的を外してしまっているという重荷です。

主イエス・キリストは、神に対して的を外してしまっているという人の罪の赦しのため苦しみを受けられ、十字架の死につかれ、そして復活されます。

神の愛と赦しがあふれます。

主イエスにへだての壁はありません。

あなたの行くその道が平安の道であるように、心ふさぐ雨の日にもおだやかな心でいますように、主イエス・キリストがどんなときもつつんでくださっておられるのです。

ユダヤの指導者たちは、ローマ皇帝に納税するのは律法にかなっているか、主イエスに問います。

その問いの心を主イエスはご存知です。

主イエスは神であるのにもかかわらず人となられ、しもべとなられて、人の苦しみと悲しみを知っておられます。

人の苦しみと悲しみが歪んで現れます。

18節から20節「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。」

主イエスは、人の心の中には何があるのかをご覧になられます。

そして、神に背き、離れ、的を外してしまっている者たちにおっしゃいます。

「見せなさい。」

彼らは、皇帝の肖像と銘の入った銀貨を持って来ました。

確かにそれが刻まれていることを主イエスは彼らに確認させました。

「だれの肖像と銘か。」

21節「彼らは『皇帝のものです。』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」

ユダヤのファリサイ派とヘロディアの人々は、主イエスを陥れようとの目的で、ローマ皇帝の納税は律法に適うかそうでないかと尋ね、その悪意を主イエスはご存知でありました。

しかし、人々の間違いは主イエスの御言葉を引き出すこととなりました。

「皇帝のものは皇帝に」、それは銀貨について、納税についてです。

そしてさらに、適うか適わないか、正しいかそうではないかの問いについて、主イエスは、「神のものは神に返しなさい。」とおっしゃいます。

22節「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」

神はご自分にかたどって人を創造されたのです。

人は神のかたちにかたどって造られたのです。

ですので、神にかえり、神につながる者であるのです。

人の心の中にその御言葉が授けられ、人の心にその御言葉が記されているのです。

ですから、神に背き、神から離れ、的を外した生き方ではなく、神に属する、神につながった者であることを主イエス・キリストは人々に示されるのです。

ひたむきに歩いて行けるように、「神のものは、神に返しなさい。」