「憐れみを受ける」 マタイによる福音書5章1節~12節

「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受ける。」

主の年2021年になりました。この新しい年を主なる神が力強く守り導いてくださるようにと、心より祈り願います。

むさし小山教会2021年の年間聖句は、「憐れみ深い人々は幸いである。」新約聖書のマタイによる福音書5章7節からです。

昨年の疫病感染拡大から年を越えて、わたしたちは思い煩いを抱えたままこの時を迎えていると言えるかもしれません。

2021年の初めの聖なる日、わたしたちを取り囲む波は高くなったままであるかもしれません。

しかし、わたしたちに主を礼拝することを教え、語り継いでいるあのクリスマスの出来事は、マリア、ヨセフ、ザカリア、エリサベト、また、羊飼いたち、占星術の学者たちなどと、その人々を守る天使たちの語る言葉と行いによって、主イエス・キリストを礼拝するその恵みを、今も分け与えていてくださいます。

主イエス・キリストはある時おっしゃいました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」そしてこう続けておっしゃいました。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、お父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、父が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

父なる神の御子イエス・キリストは、幼子としてこの世にお生まれになり、そして心が幼子のような人にお示しになりました。

その純粋さをもって父なる神へと近づく人に、主イエス・キリストはお語りになったのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

思い煩いを抱えたままで年を越したわたしたちに、主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」とおっしゃいます。

そして「思い煩うことはない」との神の御言葉をもって、主を礼拝する恵みの一年へと招いてくださいます。

年が改まっても、わたしたちの力が改まるわけではないかもしれません。疲れは疲れのまま残り、重荷には重く積み重なったまま、わたしたちの身体と心を捕らえようとしているかもしれません。

わたしたちの進もうとするこの先が、不透明であり、不確かであることも、年が改まることによってその嘆きが改まることはないかもしれません。

しかしそれでも、主イエス・キリストは、約束の御言葉をわたしたちにお与えくださり、その約束を変えようとはなさいません。

わたしたちは、そのことを信じるがゆえに、主を礼拝し、主の栄光をほめたたえるのであります。

わたしたちの新しい一年は、主なる神の御心を訪ね求め、さらに、主の御言葉に聴く歩みになります。

待ちつつ急ぎつつ、焦らないで、波に巻き込まれ、風に飛ばされても、それでも目をつぶらないで見つめ続け、耳を閉ざすことなく聴き続けるのであります。

何故なら、今も生きておられる主イエス・キリストがおられ、主を礼拝するわたしたちがいて、この一人ひとりを愛するお方はどこへも行かず、今ここにおられ、お語りになっておられるからです。

福音書は、主イエス・キリストが人々の暮らしを深く心配され、深く思い巡らしておられたことを記しています。

今日の聖書は、新約聖書マタイによる福音書5章1節からでありますが、その前の4章では、主イエス・キリストが、ただ主なる神に仕えるお方として、福音の宣教活動を始められ「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え、ガリラヤ湖で漁師をしていた者たちを弟子に招かれたことが記されています。

そして、4章23節にはこうあります。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

主イエスは、「ガリラヤ中を回って」とある通り、人々の暮らす町や村を巡られたのでありました。

そして、その場、その場において、主イエスは人々と出会い、いろいろな病気や苦しみに悩む人、悪霊に取り憑かれた人などをいやされたのでありますが、そのお働きと行いは、人々の暮らしへの深い心からの思いがおありになってということでもありました。

人間として心配であり、その当事者たちへの深い配慮と言うことができるかもしれません。

主イエスは、それらのことを通して神の栄光、神がここにおられ、そして、お離れにはならないことを現されたのでありました。

人々の目と関心が、何ものかに奪われ、どこかに取り上げられてしまっているかのような中にあって、主イエス・キリストは、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」こと、「あなたの神である主を試してはならない」こと、そして「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」ということを、深く思い巡らしておられ、それらのことが、人々を救い出すために必要であることを明らかにされたのでありました。

そして主イエスは、ご自身の中で深く思い巡らしておられることを、人々の傍らに寄り添い、言葉を添えて、人々を支え、助けようとされるのであります。

主イエス・キリストの人々への大切な助言とも言える「山上の説教」を、主イエスはお語りになられます。

マタイによる福音書5章1節、2節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」

主イエスは「群衆を見て」とあります。そこには一人ひとり生きる人々がおり、毎日をそして明日を頑張って生きる人々がいます。

主イエスはその人々をご覧になられ、そして、その助言が人々によく伝わるよう、身近な存在である弟子たちを通して教えられます。

マタイによる福音書5章3節から10節で、主イエスは「幸いである」を8回繰り返しています。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐みを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

主イエスは、今、目の前にされる人々、今を生きる人々に向かって「幸いだ」ということを強調するように繰り返し語りかけておられます。

そして、その主イエスのみ心は、今、幸いとは思えない立場にあり、主から遠く離れている人々にも及んでいるのであります。

心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、

このような人々は、この世にあって弱さの中にあると言えるかもしれません。また、小さな者とされているかもしれませんし、そのことにより、自分の居場所さえ見失ってしまっていることもあります。

この世で生きる意味を失い、そう思ってしまっている人々に、主イエスは、信仰と希望と愛を注ぐのであります。

この先を進む、その旅のために必要を満たし、また、足りなければ注ぐようにして、主イエスは御言葉を通して人々を回復させようとなされます。

この一つ一つの御言葉によって生きることができるように、主は心を尽くしておられるのです。

そして「幸いである」と主がおっしゃるその人々は、この世で、天の国に入り、慰められ、地を受け継ぎ、義に満たされ、憐みを受け、神を見、神の子と呼ばれ、天の国はその人たちのものとなります。

主イエスは、これらのことを、すなわち、「幸い」を約束されます。

しかし、そのことのために困難に遭うということを、主はお語りになられます。11節、12節「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

ここでも、主イエスは「幸いである」とおっしゃいます。ののしられ、迫害され、悪口を浴びる、そのようなときにも、とお語りになられます。

それは、主イエス・キリストの御名において引き起こされる困難であり、苦難であります。

救い主が来られ、しかし、このお方と共におられることによって、受ける困難です。それはある他者から何らのことを受けるということをお語りなっておられるのでありますが、その苦しみ、悲しみは、自分の中から引き出されることもあります。

自らの中から、自らに向かって、罵りと、自らに向かって迫害、そして、悪口が出て来るのであります。

それは喜ぶこと、感謝すること、微笑むことを、自ら力強く抑え止めることであります。

あの人をゆるせない、この事をゆるせない、そして、自分をゆるせない、そのようなことをぐるぐると繰り返して力強く喜びを圧し押し止めているということがあります。

主イエス・キリストは、この世で、人を助け、救い出そうとされます。

どこからともなく伸びてくる苦い根を取り除き、罪からその魂を救い出そうとされ、神の御言葉を、主イエスは弟子たちに、また、人々へ、お語りになられますが、そのことを妬み憎しむ人々により、主イエス・キリストは、苦難を受けられ、十字架にかけられてしまいます。

人々が見守る中、ある人々は十字架上の主イエスに向かってののしり、虐げ、悪口を浴びせます。「他人は救ったのに、自分は救えない」と一緒に十字架につけられていた強盗たちも、主イエスをののしります。

主イエス・キリストの身が裂かれ、心が裂かれるかのような中、主はおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

主イエス・キリストは、人々を罰することではなく、お赦しになることを願われました。

そしてそれは、十字架上でのことでありました。

十字架上で息を引き取られた主は、一度、墓に納められますが、死より復活され、神の愛と赦しの大きさを、すなわち、無条件の愛を現されました。

主の深い憐れみが、苦難と十字架によって血を流され注がれました。

わたしたちは、そのことにより主の憐み、主の慈しみにより、「幸い」とされたのです。

ですからわたしたちは新しい年の初めの聖なる日、こう祈ります。

「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧、信頼を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

主イエス・キリストの受けられた悲しみと傷跡は、憐みとなってわたしたちの歩む道を羅針盤となって指し示します。わたしたちはこの憐れみの力によって立ち直ります。

憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐みを受けるのですから。