「福音の力は神の力」 ローマの信徒への手紙1章8節~17節

「福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力です。」とパウロは述べました。

移動するということがさまざまな事情により制限され、また海を渡り渡航することも難しいということがあります。

遠くにあって、また、近くであっても、行きたくても行けないということがあり、その日々が続いています。

今日わたしたちの開きました聖書、ローマの信徒への手紙も、そのような行きたくとも行けないという中で、使徒パウロが書き記した手紙であります。

この手紙を書き著わした時にパウロは、まだローマへ行ったことはありませんでした。

しかし、その地にはキリスト者がおり、遠く離れたローマにも教会があることをパウロは聞いていたのでありました。紀元56年頃のことであります。

パウロは、キリスト・イエスから召し出され、使徒となって、父なる神の御子キリスト・イエスの恵みを受け、そのよい知らせを宣べ伝えていたのでありました。

そして、その信仰を語り伝え、その信仰によって歩む喜びへと、人々を導いていたのでありました。

それはパウロの業であり、務めであると言うこともできますが、決してパウロ自身の業によってではなく、かつパウロ自身の務めによってでもなく、キリスト・イエスによるものでありました。

キリストに召し出されたのです。そしてキリストの僕となって、パウロはそのよい知らせを人々に語り伝え、分かち合っていたのであります。

そしてそれは、キリスト教思想という歴史上における思想を取り扱っているというよりは、キリスト・イエスというこのお方そのものをパウロは述べているのです。

ローマの信徒への手紙は、パウロが、人生に与えられた年月、キリストと共に歩み、祈り、キリスト・イエスを語って来たこと、そして、そのパウロが、キリスト・イエスによりお受けした恵みと、人々に伝えて来たことが、この一つの手紙に著されています。

このローマの信徒への手紙は、論理的であり体系としてまとめられた論文とも言えるものでありますが、ここにパウロを生かし、パウロを通して、人々へのよい知らせとして来られたキリスト・イエスがおられるのです。

パウロは、神の福音のために選び出され、そして、わたしたちは、この神のよい知らせを聴き、受けとめるために引き出され、押し出されたのであります。

パウロは、この手紙を書き送るその宛先の人々に向かって述べました。

「神に召され召されて聖なるものとなったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

パウロは、なかなか行くことができず、しかし、聞いていた人々であるローマのキリスト者たちに呼びかけています。

それは制限され、自由に行くこともできず、行動が制約された中であったのではありますが、わたしたちの思い起こすべき呼びかけがここにあります。

「神に愛されている者たち」そして「神に召され聖なるものとなった者たち」という呼びかけです。

遠く離れた地から、また、遠く離れた時代から、パウロは、今、呼びかけています。

「あなたは、神に愛されているのだから」そして「あなたは、神に呼び出され、選び出されているのだから」。

そしてそれは、ただただ神がそうなされたということであり、人と人とを比べ合わせることによるのではありません。

「『あなた』が『あなた』であるから」ということであります。

そこに、神は目をとめておられるのであります。

冬の寒い朝に凍える心をあたたかく神は見つめて、「あなた」という人ひとりが、恵みと平和のうちにあるようにと、はからっておられるのです。

パウロは、十字架の死より復活させられたキリスト・イエスに応答し、このよい知らせを人々に語り、今も生きておられるキリスト・イエスにより、信仰へと導くのであります。

パウロは証明するのです。

この世界の歴史がこれを確かめるのです。そして、この世界の自然がこれを教えるのです。信じる信仰によらず、人の救われるべき道はないということを、であります。

ローマ帝国の皇帝の成し遂げた実績、業績、成した事、行った事をよい知らせまた福音と呼んでいたローマの一般市民たちの中にあって、キリスト・イエスこそがよい知らせであり、福音であるとパウロの全身全霊は語り出すのであります。

パウロには、冷たくかたくなったものをとかす熱く燃える力ある光が与えられていたのでありました。

そして、どこにあっても、その光は注がれ、喜びとなっていることを伝えたいという願いをパウロは抱いているのです。

今日の聖書、ローマの信徒への手紙1章8節「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」

パウロは、キリスト・イエスによる信仰を宣べ伝えていましたが、まだ行ったことのない地にキリスト者たちがいて教会があり、その信仰が全世界に言い伝えられていることに、躍り上がるかのような喜びを抱いているのであります。

そして人々の信仰について、同時にその信仰が、ある人々だけのものではなく、同時世界的に言い伝えられているということに対してパウロは神に感謝するのであります。

全世界に、それは人が一人ではなく、人と人とがつながり、人と神とがつながり、その結び目となっておられるのがキリスト・イエスであるという大きな恵みによるものです。

恵みが全世界にあふれている、そのことをパウロは喜び、感謝しているのであります。

しかし、この世界は、そうではないかもしれません。分断され、断ち切られ、別れ別れにされてしまうことがあるかもしれません。目に見える世界、また見えないところにおいてもそのような分断、そのような痛みがあるかもしれません。

そしてわたしたちの心は、それに耐え得るようにはできていないかもしれません。

しかし、キリスト・イエスは、十字架上で血を流され、その身を裂かれたのでありました。あなたのため、また、わたしたちの救いのためにでありました。

そしてこのお方は、十字架の死より復活させられ、わたしたちと共に生きておられる、そのことが全世界に言い伝えられ、分ち合われていることの喜びであります。

世界を見渡せば、苦難と闇、暗黒と苦悩、そして、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべもないように見えるかもしれない。

しかし、闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に輝くのであります。そして、父なる神は、深い喜びと大きな楽しみをお与えになられるのであります。

そして、パウロの大きな楽しみの一つは、祈りでありました。

ローマの信徒への手紙1章9節10節「わたしは御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」

今は会えないかもしれない。このローマの信徒への手紙の最後の章16章の「個人的な挨拶」に出てくる人々のように、助けられ、励まされた人々に、今は遠く離れ、会うことがかなわないかもしれない。しかし、パウロは祈り願っているのです。

そしてそれは、人の思い、パウロの願いというよりは、神の御心によってということでありました。

神が、ふさわしい時に、ふさわしい仕方で、このわたしを導いてくださるという確信によってパウロは祈り願ったのでありました。

「神よ、もしあなたにあなたがわたしにご好意を示してくださるのでしたら、どうか今あなたの道を示してください。」

わたしたちには、今日という日を始めることが怖いと感じることがあるかもしれません。この世の暗闇に圧倒されそうになることもあります。

しかし父なる神が、今日も一歩一歩共に歩んでくださるのです。あなたを追い越すこともなく、あなたを見つめ愛の御手の中にあなたを導かれ、あなたのすぐ横にいつもいてくださるのです。

パウロは、願いをもって言います。11節12節「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって励まし合いたいのです。」

パウロは、キリスト・イエスにより呼び出され、召し出された者として、人々を力づけ、また人々によって力づけられたいと願っていました。

そしてそれは、ただキリスト・イエスによって力づけられ強められたいということでもありました。

パウロは、ローマのキリスト者たちに会いたいと願っておりましたが、それは、人々を強めることのおできになるキリスト・イエスによって、これこそが父なる神からの賜り物である聖霊によって与えられる信仰であります。

信仰から信仰へ、力から力を与えられ、強められることから強められることを祈り願ったのでありました。

パウロはこの世で救われ生きる喜びを、人々と分かち合い、励まし合いたいと願ったのです。13節「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。」

パウロは「何か実りを得たいと望んで」いましたが、それはかつてキリスト・イエスが弟子たちにおっしゃったことでもありました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

14節15節「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音お告げ知らせたいのです。」

パウロは、「ぜひ福音を、よい知らせを、告げ知らせたい」という思いが与えられ、パウロ自身の中で実を結んでいました。

その素晴らしさを分かち合いたいと望んでいたのであります。

そしてそれは、すべての人々に開かれているよい知らせであるので、そこには、恐れにもとづくものは何もありません。

キリスト・イエスの十字架と復活により、すべての恐れは取り除かれ、人は自分を蔑むことも、また、自分に背き逆らうことも、必要なくなったのです。

無条件に、制限も制約もなく、愛されているという福音を告げ知らせたいとパウロは願うのですが、今までに何回も妨げられていると言うのです。

しかし、16節17節「わたしは福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が掲示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」

パウロは、この世で、この世の目が見るように福音を見るのではなく、父なる神がキリスト・イエスによって与えられた福音、すなわち、力ある光を見ていたのであります。

そしてこの神の福音は、神の力であることを誇りとし、救いのよい知らせを大いに賛美しなければならないとしたのです。

信じる者すべてに救いをもたらす神の力は、今もこの世にあって働いておられます。

人の心を照らし、人の心に燃え立つ光を放っておられます。

このよい知らせにより、神がわたしたちを義とされ、神がよしと認めてくださり、神と人との間の隔ての壁はなくなり、やわらぎ、とけあうかのようにしてくださいます。

この救われた大いなる喜びは、わたしたちの中で、初めから終わりまで、信仰から信仰へ至り、現され実現するのです。

神に従う人は信仰によって生き、福音の力、神の力によって強められ、神によって立ち上がるのです。