「神からいただく恵み」 コリントの信徒への手紙二6章1節~13節

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」

使徒パウロはそう述べました。パウロは、まだ自分にできることがある、と思ったからでもありました。

わたしたちはこの世の中で、多くのまたさまざまな重荷を負っていると言うことができるかもしれません。

今この時も、それぞれの立場で思ってもいなかったようなことが起きたり、どうすることも出来ずに、ただ心身共に苦しみが通り過ぎるのを待つようなこと、また、心が厚い雲に覆われたままで、何かに押さえつけられているようであることなど、言葉に表すことも出来ず、それを他者に伝えることも出来ないように思えることがあるかもしれません。

使徒パウロもそのような経験をし、それは、今のわたしたちとは全く違うあり方ではあるかもしれませんが、彼を捉えられたお方、パウロと共に歩んだお方は、今も生きておられ、さまざまな災いへの恐れを持っているわたしたちを捉え、その御手をもってしっかりとつかんでいてくださっておられるのです。

救い主キリスト・イエスが共におられるので、災いがなくなるのでも、恐れがなくなるのでもありません。

わたしたちはその中にあって、何ものかを見出すのであります。

そして、このお方は、わたしたちに近づき、そのときにふさわしいあり方で、わたしたちを見つめてくださっておられるのです。

その眼差しがあるので安心して生きていける、その光を心に、また、全身にともしてくださるのです。

わたしたちの暮らしは、さまざまな制限と分離で、その明るさを失っているかのようでありますが、キリストの眼差しは常に変わることがありません。

キリスト・イエスにより召され使徒となったパウロ。彼はもともとキリスト者に反対し迫害を加える者でありましたが、キリストの眼差しは彼にも向けられており、その御声はパウロにも語られたのでありました。

十字架の死より復活された主イエス・キリストは、キリスト者を迫害する道の途上のパウロに呼びかけられました。

ユダヤ名で「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、主はお応えになられ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる。」

パウロは、自分に呼びかける御声が、「主」であることが分かりました。

それはどのような声であるのかはわかりませんが、それが「主」であるとはわかったのです。

そしてその御声はイエスであり、主イエス・キリストは、ご自分の教会の兄妹姉妹たちが苦しんでいることをご存知であったのです。

あの人、この人が、つらさを抱えている、苦しさに包まれている、明るさを失い、その心は凍りついているようでさえある、主はそのことをご存知で、「なぜ、わたしを迫害するのか」とその当時の加害者であるパウロにおっしゃったのでありました。

その後パウロは、復活の主イエス・キリストにより変えられ、キリストを人々に宣べ伝える者となりますが、彼は救われたのであります。

そして、自分にできることがあることを、主によって示されたのであります。

それは、福音を告げ知らせることであり、この世にあって救われ、心に明るさを取り戻し、元気を取り戻すことでもありました。しかし、福音を宣べ伝え始めると、多くの困難と危険がパウロ襲うことになりました。

もともと迫害を受けていたキリスト者たちからの反発、また、パウロの属していたユダヤのファリサイ派と呼ばれる人々からの反発。

それは、キリスト・イエスに捉えられることによって、そしてこのお方と共に歩み出す、そのことによって起きた出来事でありました。

しかし、パウロは、パウロであることを止めませんでした。

キリスト・イエスに捉えられ、しっかりと掴んでくださっているお方、しっかりと握り続けてくださっておられるお方と共にあったのです。

やがてパウロは、地中海世界ローマの属州アカイア州の首都、コリントに教会を立ち上げることになりますが、その教会においても種々のいろいろな困難があり、パウロは遠く離れた地から手紙を書き送ります。

それが、その時その場の状況の中で、パウロのできることであったのです。

コリントの信徒への手紙二1章4節にはこうあります。

「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」

パウロは、神がご自分に救い主イエス・キリストをお送りくださったことを知り、信頼し、すべてを信じ、歩んでいました。

しかし、その中でも精神的、肉体的な苦難というものに数多く出遭うこととなるパウロは知ったのでありました。

神は、あらゆる苦難をご存知であられるということであり、それは、今この時、この場を神はご存知だ、ということです。

そして、このわたしたちに寄り添うかのようにして、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるのであります。

この世にあって深く嘆く人々の心を鎮めてくださるその力を、主はお持ちになっておられるのです。

そしてその力は、十字架の死と復活です。

主イエス・キリストの十字架はわたしたちの慰めであり、復活はわたしたちの魂の慰めです。

このお方との交わりは、わたしたちに慰めを与えくださる、それだからこそパウロは、この慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます、と言います。

主イエス・キリストのおられるところ、主を中心とするところに、この慰めの共同体が生まれることをパウロは述べるのです。

それはさまざまなことが抑えられ、分けられ、分離してしまっていることから、主の御名によりひとつへと向かって行くということなのです。

ですからパウロは、自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにし、神に希望をかけるようになったのでありました。

パウロはこのお方と共に死に、このお方と共に生きる者となったのです。

それはもはや、自分は自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることでありました。

キリスト・イエスこそが、わたしたちの罪を赦され、神と共にある者としてくださったのです。

そして今日の聖書コリントの信徒への手紙二6章1節でパウロはこう述べます。

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」

「神の協力者として」とありますが、原文では「神の」という言葉はなく、「共に働いているので」という意味の言葉です。

しかし、パウロがここで述べようとしているのは、わたしたちは神のために力を合わせて働く者であるということであり、神と共に、キリストと共に、力を合わせて働く者、神の同労者ということなのです。

種々の、あらゆる苦難に際して、パウロは、神と共に働く者であるので勧めます、と言うのです。

「神の恵みを無駄にしてはいけません。」

そして、2節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日にわたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

パウロは預言者イザヤの告げた主なる神の御言葉が、今、成ったと語ります。

主があなたを全くそのままに受け入れてくださっている、それは今、あなたの思いを主はご存知であって、それに主はお応えになっておられるということです。

主は、「あなたを助けた」とおっしゃるのです。

それはこれから「あなたを助ける」とおっしゃるのでも、「あなたを助けよう」というのでもなく、すでに「助けた」という段階です。

ですから今、恵みの時であり、今、救いの日であるとパウロは言い、恵みと救いは、今この時にすでにあることを無駄にしてはならない、と言うのです。

そしてこの告げ知らされたことを、パウロは土台として据えて生きるのです。

3節から8節前半「わたしはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」

パウロは、神によって呼び出された者としての自分の姿について、その姿勢を述べていますが、それは、彼の心の平安をも表しています。

パウロの心は、今、恵みの時であり、今、救いの日であるので、暴風が吹いても静かであり、大波の中にあっても平安であるのです。

その心が奉仕となり、務めとなっているとも言えます。

そしてパウロは、その決意を翻さないのです。

褒められるときにも、辱められるときにも、いつもしっかり自分の歩みを続けて行く、その姿勢に堅く立つ勇気を、神の力によってパウロは持ったのです。

人々の目ではなく、神の目で見つめ、目をとめるように、常に、勇気を持って倦むことなく前進し、時にはがむしゃらであっても目的を貫いたのであります。

パウロは、述べます。8節後半から10節。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

神の愛が、パウロに注がれ、わたしたちにも注がれています。

神の愛は、神の栄光となって現わされるのであります。

パウロは、さまざまな試練にあっても、神の栄光が現されることにより、生き、また生かされたのでありました。

ですから、誠実であり、よく知られ、生きており、常に喜び、多くの人を富ませ、全てのものを所有している、と言い得るお方とパウロは共に在ったのです。

一切はわたしのものであり、世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はわたしたちのもの、わたしたちはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

パウロは、その神の協力者として、人と人との間に、神と人との間に、働く者として全てを受け止めていたのでありました。

11節から13節「コリントの人たち、わたしたちはあなた方に率直に語り、心を開きました。わたしたちはあなた方を広い心で受け入れていますが、あなた方は自分で心を狭くしています。子どもたちに語るようにわたしは言いますが、あなた方も同じように心を広くしてください。」

パウロは、すべての人に与えられている神の恵みの大きさの前に、自分で心を狭くしてしまうことのないように勧めています。

神の恵みは神に向かって、わたしたちを成長させるものであります。

困難と苦難にあっても、その恵みに場所を狭くし心を閉ざすことなく、大きく心を広げ、神の憐れみを受けつつ進んで行くことが出来るのです。

「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」