「神に対して生きている」 ローマの信徒への手紙6章1節~11節

「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

今日、わたしたちの開きました聖書、新約聖書のローマの信徒への手紙6章11節でパウロはそう述べました。

パウロは神の恵みのもとにいる、その喜びを伝えたのでありました。

1963年、米国の首都ワシントンで行われた大行進で、ある牧師の演説が行われました。彼は歓声と拍手に迎えられてゆっくりと壇上に進み出て、聴衆に語り始めました。

「今からちょうど100年前、わたしたちが今、その像の前に立っている一人の偉大なアメリカ人、リンカーン大統領が、奴隷解放宣言に署名した。この重要な宣言は、燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万人もの黒人奴隷たちにとって、希望を示す大きな光となった。それは奴隷制度のもとで過ごした長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでもあった。しかしあれから100年たった今、黒人たちはいまだ自由ではない。100年たった今、黒人たちの生活はいまだに人種隔離の手枷と人種差別の足かせに、縛られている。100年たった今、黒人たちは物質的繁栄の広大な海のまっただ中で、貧困という孤島に暮らしている。100年たった今、黒人たちはいまだにアメリカ社会の片隅で苦しみ、自分たちの国の中で島流しにされているのだ。わたしたちは、この恥ずべき状況を広く世に訴えるために今日この場に集まった。」

そして、聴衆と一体となって全員がまるで何かの演奏しているかのようであったと表現される演説も半ばにさしかかった時、ほとばしるように言葉が出てきたのでありました。

「友よ、わたしは今日あなたがたに言いたい。われわれは今日も、明日も、多くの困難に直面するだろうが、それでも、わたしには夢がある。わたしには夢がある。それは、いつの日かこの国が立ち上がり、『われわれは、すべての人々は平等につくられていることを、自明の真理と信ずる』という信条を真の意味で実現させることだ。わたしには夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに腰を下ろすことだ。わたしには夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧のために熱くむしかえるミシシッピ州でさえも、自由と正義のオアシスへと変わることだ。わたしには夢がある。それは、いつの日か、わたしの4人の小さな子どもたちが肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。今日、わたしは夢を見る。わたしには夢がある。いつの日か、アラバマ州知事が干渉と国法拒否を宣言しているアラバマ州で、黒人の少年少女が白人の少年少女と手をつないで、兄妹姉妹として共に歩む日の来ることを。今日、わたしは夢を見る。わたしは夢がある。諸々の谷が高められ、諸々の丘や山が低くされ、荒地が平らに、曲がりくねったところがまっすぐにされて、神の栄光を明らかに示され、すべての人が共にそれを打ち仰ぐ日の来ることを。これがわれわれの希望である。わたしはこの信仰をいだいて南部に帰ろう。この信仰によって、われわれは絶望の山から希望の石を切り出すことができるのだ。この信仰によってわれわれは、この国にみなぎる騒々しい不協和音を、愛のうるわしい交響楽に変えることができるのだ。またこの信仰によって、いつの日か、自由をわがものとなしうることを知りつつ、共に労し、共に祈り、共に戦い、共に獄につながれ、共に自由のために立つのである。われわれが、すべての村や集落で、すべての州や町で自由の鐘を鳴り響かせるとき、そのときこそ、われわれは、黒人も白人も、ユダヤ教徒も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子が手を取り合って、あの古い黒人霊歌、「わがうるわしの自由の国、父と祖父の埋葬された地、巡礼者の誇りよ、いざ、諸々の山より、自由の歌を響かせん」を口ずさむことができるのを早めることができるのだ。ついに自由だ。ついに自由だ。全能の神に感謝せん。われわれはついに自由になったのだ。」マーチン・ルーサー・キング牧師は、ワシントン大行進で語りました。

神の恵みのもとにあって、であります。

神の愛のもとにあって、であります。

わたしたちは、その神の中に生き、動き、存在するのであります。

わたしたちの生きるこの世で、混乱と困惑の渦巻く中、今日、わたしたちに語っている聖書は、ローマの信徒への手紙6章であります。

わたしたちの新共同訳聖書の小見出しでは、「罪に死に、キリストに生きる」とあります。

神は、キリスト・イエスを通して、わたしたちに恵みを与えくださいました。それは、不自由の中にあっても自由へ向かって歩み、進んでいく力となります。

6章1節2節にはこうあります。

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロは、キリストから与えられた恵みについて述べます。

恵みというのは、神のお与えくださった愛であり、ゆるしです。

パウロは、その愛とゆるしを死より復活させられたキリスト・イエスにより与えられたのでありました。それはパウロの全生涯を通して常に与えられ続けていたことでありましたが、神の愛とゆるしをキリストによって知ったのでありました。

今日の聖書箇所、ローマ6章1節の始まりは「では、どういうことになるのか」と前で述べられていることを受けて記されていますが、その前の5章20節21節で、パウロはこう述べています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなお一いっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって、支配していたように、恵みも義によって、支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

律法は、そこに心がなければ、人を死と滅びへと誘い、引き込もうとし、すなわち罪へと行き着くことになります。

そのような心がない律法によって、罪が増したところでは、恵みはなおいっそう満ちあふれるというのです。

そして、パウロは対比を上げて、罪が死によって支配している、しかし、神は恵みによって義とし、ご心配してくださっているのです。

その神の恵みにより、わたしたちは、主イエス・キリストを通して、永遠の命に導かれているというのです。

義とは、正しいということでありますが、信仰のことであります。

信仰によって義とされるのであります。

そして、わたしたちに主イエス・キリストが与えられたように、信仰が与えられ、義が神によって与えられているのであります。

そのような「恵みが増すように、わたしたちは罪の中にとどまるべきだろうか」というのですが、「決してそうではない」とパウロは言います。

わたしたちは、罪に対して死んでいると言い、3節4節「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

洗礼は、父と子と聖霊のみ名によって受け、キリスト・イエスに結ばれた者となります。

ですから、キリストが死に復活されたように、わたしたちも死にあずかり、復活の、永遠の命にあずかることとなり、新しい命、新しく生きることが与えられたのです。

わたしたちは、今ここにいます。

ですから5節6節「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」

わたしたちは、この世にあって、多くの混沌と困惑、そして、多くの困難に出会って辛く苦しみ悩んでいます。それはさらにわたしたちが、手を加えなくとも、キリストの姿に似たものであるかもしれません。

人として、キリストは苦しみを受けられたからです。

そして、キリストの十字架の死を通してわたしたちは、自己の生きることを知るのです。

この人生に与えられた愛とゆるしを知るのです。

このわたしは、罪に支配されたまま滅びるのではなく、キリストの十字架の死によって罪に支配された体は滅ぼされたのです。

ですから7節「死んだ者は罪から解放されています。」とパウロは言います。

罪とは、もともとは的を外してしまっているという意味でありますが、罪とは、不信仰と言うことができます。

ですので、罪から解放されているというのは、不信仰から解放されているということであり、真の自由、真の希望を生きることであり、神に基礎づけられ、キリストを土台として生きるということなのです。

不信仰から解放され、罪に仕えなくともよく、わたしたちは、信仰によって生きるのです。

ですから8節9節「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。主は、もはやキリストを支配しません。」

わたしたちは、神から与えられた信仰によってこの世に冒険に出ています。

しかし、この冒険は、ただ危険というものだけではなく、キリストと共に生きることです。そしてこの旅は、天という本国を目指しているのです。

キリストは、十字架の死の後、墓に納められましたが、復活され、その愛とゆるしの光は、今も輝いています。

復活させられたキリストは、もはや死ぬことがないのです。

死はキリストを支配することがなく、このキリストにより、わたしたちも死に定められ、罪に定められることはないのです。

キリストがわたしたちのために死んでくださったので、わたしたちもキリストと共に死んだのでありますが、キリストと共に復活させられ、今、永遠の命に生きています。

10節11節、パウロは述べます。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」

わたしたちはこの世にあって、キリストと共に死に、キリストと共に復活し、キリストと共に生きるので、自由にされたのであり、それだから「自由であれ、キリストがすでになられたものにあなたもなれ。」と呼びかけているのです。

その力は復活の力であり、この力は鍵であり、開かれてゆく扉であり、入り口を踏み越えていく力強い歩みです。

神は、わたしたちがこの世の困難と涙の中にあっても歩む力を、共に歩み、行進する愛とゆるしの力を、お与えになったのです。

キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。