「光の子として」 エフェソの信徒への手紙5章6節~20節

「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

キリスト・イエスを追い求め続けた使徒パウロはそのように語りました。何故、パウロはそのようにどこまでもキリストを追い求め続けたのでしょうか。

それは、彼が闇を知ったからでありました。

しかもそれは、自分では暗闇ともは思わず過ごしてきたことに、気がつかせられたということでありました。そして、その気づきは、悩みながらも、彼の歩みを日々ほんの少しずつでも変えることとなり、ふり返ってみると、その歩みは光に照らされていたのでありました。

パウロは、キリスト・イエスの福音を告げ知らせる「使徒とされた」と自分自身のことについて述べています。それは、自分が選んで、自分が進んでそうなったということではないということです。

パウロは、今日の聖書、新約聖書エフェソの信徒への手紙の冒頭一章一節でこう述べています。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。」

パウロは、自分自身がキリスト者となってエフェソにいるキリスト者に手紙を書き送るようになった、そのことを心の内では驚いていたかもしれません。しかし、パウロはその心の内で、しっかりと捉えていたのでありました。「神の御心によって」ということであります。 彼は、自分の中には自ら使徒となるものを見出せなかったのであります。この世の目からすれば、ユダヤ人社会においては、もともと指導者としての立場にあったのでありますが、それが、キリスト・イエスの使徒となった決め手となったのでは決してありませんでした。むしろ彼は、それらのものを塵あくたとみなしていました。

もともと、キリスト者を迫害していたということは、キリスト・イエスを全く否定していたということであり、その考えを持ってかつてのパウロの行うことは、はっきりしていたのであります。

しかし、自分の考えや思わく、自分はこのために生きているということを超えたところから神の御心がやって来るのです。

新約聖書の使徒言行録26章12節から18節という所には「パウロ、自分の回心を語る」と小見出しがあって、パウロに起きた出来事を、パウロ自身が述べているところがあります。 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが、皆地に倒れたとき『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

パウロは天からの光を見たと言い、そして、神の御心は、「闇から光に」であることを恵みとして語ります。

そしてその後、パウロは、キリスト・イエスの御名により捕らえられ、ローマの獄中からエフェソの信徒への手紙を書き記します。

パウロは、自分の置かれている境遇、環境や立場は、神の御心とみなしていました。みなしていた、ということはそうではないということも言えるのですが、パウロは、どこにあっても、光のあるうちに、光を信じ、光のうちを歩んだのであります。そして、キリスト・イエスからの恵みと平安が、すべての人にあるようにと願ったのでありました。

今日の聖書、エフェソの信徒への手紙5章6節7節にはこうあります。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに降るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」

パウロは、エフェソのキリスト者たちに何か厳しい言葉をかけているように聞こえるかもしれません。また、そうでなければならないという重さを感じるかもしれません。しかし、パウロは「むなしい言葉」ではなく「命の言葉」「人を生かす言葉」に聞き従うことの恵みを語るのです。

神の喜びは、命の言葉、神の御言葉に表されています。ですから、仲間に神の御言葉の交わりにあることをパウロは勧めるのです。

エフェソの町は、経済的に繁栄してはいましたが、むなしい偶像を崇めるその社会的仕組みが大きく発達したことによって栄えていました。そのようなむなしい偶像中心の町の中にあるキリスト者たちに向かってパウロは呼びかけます。

8節「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

暗闇に追いつかれないように、また、暗闇の中を歩く者は自分がどこへ行くのか分からなくなってしまうのであります。すべてが分かり、すべてを知っていなければならないということではありません。光を信じて歩むということであります。

わたしたちは何でもかんでもこの世を支配するサタンのせいにすることはありませんが、また、その心配をすることはありませんが、光を受け入れることを拒むのではなく、受けとめることが大切です。そしてそれは、助けを求める声を上げるということであります。助けを求める子を、親は支えます。

パウロが「光の子として」と言うのは、その光に価するものとして、その光を受けた者として歩むということです。そして、そこに恵みと平安が豊かにあるのです。

ですから9節「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。光から生じるもの、それは、共に生きることができるようわたしたちを導くものです。すなわち、善意、正義、真実。

パウロは、それらが光から生じるのを見ており、闇からはそれが生じてくることがないのを見ていました。

10節から12節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。」

吟味するのには、先ず「味わうこと」です。そして、次に「選ぶこと」です。そのおもむきを、その風合いを、見て、そして「これは」というものを選び、取り上げるのです。その拠り所となるものは何でしょうか。それは「主なる神の喜ばれること」です。

「暗闇の業」と呼ばれるものは、実を結ぶことなく、それに対して、神は光により愛と調和をお与えになられます。この世は、死と滅びへと向かっているかのようです。

しかし、13節「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」

パウロは、ユダヤの指導者からキリストを宣べ伝える使徒となる間で、人間的に見るならば、厳しく、難しく、心身ともにつらいこともありました。彼は苦しみました。

「しかし」と言います。「すべてのものは光にさらされ、明らかにされるのです。」そして、14節「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」

キリスト・イエスは、人々の救いのため、苦しみを受けられ、十字架の死にかけられますが、死より復活させられます。そのことによって、神の愛と赦しが大いなるものであることが表されたのです。この世が、また、一人ひとりが、光に照らされたのです。それは、心があたかも死んだように生きている者が命を得て、立ち上がることができるように、塵の中に埋もれている者が目を覚まし、喜び歌うことができるように、であります。主が送られるのは光の露であり、主は光の露を降らせ、お与えになられるのです。

パウロは、旧約聖書イザヤ書から「こう言われています」と引用しますが、そのイザヤ書60章1節2節にはこうあります。主の御言葉です。「起きよ。光を放て、あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」

パウロは、復活の光によって倒され、起き上がったのです。そして、主の栄光が、主の御臨在が、その上に現れたのでありました。この主のご復活の光に照らされて歩み、生きよとパウロは力強く勧めるのであります。

この地で、この世界で、くじけ、不安と心ぼそさの中にあっても、他者と仲間と、光に照らされているキリストの光の子として、光の子たちと共に生きよとパウロは叫んでいるのです。そして、キリストはあなたを照らされるのです。目を上げてそのことを見渡すのです。

嘆いている人々に慰めを、暗い心に変えて光の衣をまとわせていただくために、キリスト・イエスは来られたのです。

ですから、15節から20節「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」

「時をよく用いる」とは、生きることそのものであり、神に喜ばれること、神の愛と赦しに生きることということです。主なる神の御心は、人が主とつながっていること、聖霊に満たされ、主から慰めと励ましをいただくこと、詩編と賛歌と霊的な歌を、その与えられた人生で歌うこと、主なる神とその仲間と語り合うこと、それらは主に向かって心から賛美をささげることです。

そしていつも、今ここで、主なる神に感謝をささげます。主は、この上ない楽しさと喜びをお与え下さいました。光なるキリスト・イエスの御名により、わたしたちを光の子としてくださったのです。この世にあって、「あなたがたは、以前は、暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として、(光の人として)歩みなさい。」