「あなたがたが召されたのは」 ペトロの手紙一2章18節~25節

「あなたがたが召されたのはこのためです」と今日、わたしたちに届けられた聖書、ペトロの手紙は語っています。

わたしたちは巡りゆく季節を幾度となく送り、また、新たに迎え、年月を数えています。そして、その生涯の中において時に大きな出来事に出会うことがあるかもしれません。ひとりの人として、幼少期、青年期、成人期、老年期など、その成長過程を辿り、それぞれの段階をふり返り、また、その道を見渡してみると、年齢・年代などに合わせて、入学、進級、卒業、就職、結婚、出産、育児、介護など、さまざまなことをわたしたちは経験として持っているのではないでしょうか。そして、わたしたちの人生は、勿論、今、挙げた事柄だけではなく多くの事が重なり合って進んで行き、生きているのであります。

今日の聖書、ペトロの手紙は、大きな問題に巻き込まれている人々に向かって書き送られた手紙であります。この手紙は、人となったペトロが、ローマから小アジア、現在のトルコにある各教会に送られた手紙です。

ペテロの手紙の始め1章1節には「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」とあります。

ここに記されている地名に、キリスト者たちがいて、そこに教会が在ったということですが、それは各地に離散して仮住まいをしている人たちであって、もともとは一つであったのでありますけれど、それぞれの地へと離れ、散って行ったということを言い表しています。

そして、もともとは一つであるというのは、何を言っているのかというと、キリスト・イエスにおいて一つであるということであります。

人、一人ひとりはもちろん違うのでありますが、その人々を一つとするものがある、それは、救い主キリスト・イエスでありました。

救い主は、一人ひとりを救い、その一人を大事にしてくださる、このお方において一つであるのですが、この世にあって人々は離散しているということであります。

皆が集まって顔と顔、声と声を合わせて一つに集まることができるなら、そこに力が造り出され、励まされることができるのだけれど、離れ、散らされているのであります。

そしてさらに、キリスト・イエスにおいて一つであるのだけれども、大きな問題に直面していたのでありました。そしてそれは、単なる表面的な「問題」というよりは「事件」といってよい出来事に、キリスト者たちは直面していたのであります。その「事件」とは、迫害であります。紀元一世紀、各地方でキリスト者に対する迫害が徐々に広がり、当時のローマ帝国がキリスト者を厳しく告発し処罰し始めたのでありました。キリスト者たち、すなわち教会はこの迫害により世界的試練というものを経験していたのでありました。

使徒となったペテロは、今日の聖書箇所のあとでありますが、ペトロの手紙一5章8節、9節でこう述べています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなた方も知っているとおりです。」

キリスト者たち、キリスト・イエスを信じる者たちは、地域を越え、同じ苦しみ、同じ試練に遭っているということを知っていたのであります。

そして、その厳しい試練において、しっかり信仰に踏みとどまって抵抗しなさいとまでペトロは述べるのであります。

それは、キリストイエスによる祝福の約束を信じ、信頼するということでもあります。

19世紀、英国のある説教者が「尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている」ことについて次のような文章をのこしています。

「造船技師が船を造るとき、それをただ建造現場に浮かばせておくために造るでしょうか。いいえ、そうではありません。航海のために、嵐にも耐えられるようにと造ります。実際、強風や台風などを計算に入れないで船を造るとしたら、造船技師としては失格者となるでしょう。同じように、神があなたを信仰者にしてくださったとき、やがて試みがやってくることもご存知でした。ですからわたしたちに与えてくださった神の約束は、嵐や高波のときにも間に合う約束でした。あなたは神の約束のいくつかを偽物だと思っていますか。あたかも店頭ではよく見えても、海の中では全く役に立たない救命具のように。世の中には美しく見えても戦いでは役に立たない剣があり、履いて歩くためではなく装飾品として造られた靴などがあります。しかし神の靴は、鉄と真鍮で出来ていて、それを履いても途中でほころびることなく、天国までも行くことができます。神が備えてくださる救命具は、決して沈むことなく、大西洋を何度でも泳いで渡ることができるものです。わたしたちがキリストを信じていると公に告白しながらも、実際にはより頼もうとしないことほど、主が嫌われることはありません。主は、わたしたちが信頼することを喜ばれます。約束された祝福は、ただ眺めているためではなく、わたしたちが自らのものとするために与えられています。わたしたちの主イエスは、私たちの現在の必要のために与えられたのです。あなたはそのように主を用いておられるでしょうか。ああ、愛されている人々よ。神の約束を博物館の陳列品のように扱わず、日々慰めの泉として用いられるようお勧めします。そして必要なときはいつでも、主に信頼しなさい。」

この世にあって、キリスト・イエスの大いなる約束の祝福を信じるということこそが、現在のわたしたちにとっての試練ということができるかもしれません。

ほえたける獅子が、だれかを食い尽くそうと探し回っているかのようであるかもしれません。

しかしそれでもペテロは、一人ひとりが神に呼び出され、召し出された者として勧めるのであります。

今日の聖書、ペトロの手紙一2章18節にはこうあります。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」

「召使いたち」というのは紀元一世紀、地中海世界では、家族のように扱われていた使用人と云われていますが、当時の初代教会のキリスト者たちの中には、多くの召し使いたちがいたと云われています。そのような立場にいる人々に向けて、ペトロは「敬う」ということ、そして敬意を持って「従いなさい」と勧めています。

それはどのような主人であっても「心からおそれ敬って」とペテロは言うのでありますが、19節に、続いて「不当な苦しみを続けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」

ペトロは、不当な、道理をはずれたことで苦しみを受けることになっても、と言います。そして、それをそのまますべて自分自身に受けるというよりは「神が」と述べて、それは「神がお望みのことだ」とするのです。神がお望みの神のなさることなのだから、と受け止め、神にお返しするかのように苦痛をお受けするのです。するとそれは、すべて神の御心のうちに行われているのを見分け、知り、判断することができるというのです。

ですから、20節「罪に犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」

ペトロは、苦しみを受け、そしてそれを耐え忍ぶ、その要点は、神の御心に適う、あてはまるということにありました。

わたしたちは、そのために呼び出されたというのです。

21節「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」

ペトロは、キリスト・イエスの弟子として、主の十字架の死と復活を直接知っていました。そして、自分の人生が、自分の命が、まったくかえられてしまったのでありました。

それは、キリストの足跡に続き、キリストの後について行くということであります。キリスト・イエス、このお方が、担ったのはわたしたちの病、痛みでありました。

ですが、22節、キリスト・イエス、「このお方は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のです。

父なる神との交わりにあり、それは、一つであり、このお方を見たものは、父なる神を見たことになるからです。

キリスト・イエスは、23、24節「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

ペテロは、苦難が襲い、試練の中にある人々に、ひとりのお方のお姿を思い起こすことを勧めているのです。そしてそのお姿は、神に対してどのような姿勢をとっておられたかということなのです。それは、「正しくお裁きになる方にお任せになる」という姿勢でありました。そしてこの姿勢は、どこまでも貫かれており不動でありました。このお方が、十字架におかかりになり復活させられたことにより、わたしたちの罪はゆるされ、神の愛とゆるしに生きることができるようにと招かれました。

「罪に対して死んで、義によって生きるように」と、罪を示し、道をつけてくださったのです。

しかし、人は道を誤り、それぞれの方角に向かって行ってしまったのです。

キリスト・イエスは、多くの人々が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負ってくださったのです。そして多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしてくださったのは、このお方キリスト・イエスであったのです。

主のみあとに従ったペテロは、ローマで主イエスと同じ十字架では申し訳ないと逆さの十字架につけられて殉教して逝きました。

キリスト・イエスのお受けになった傷はあまりにも大きく、そのためそのいやしも大きかったのです。

ペテロは、気力を失い、元気を失い、試練の中にある人に言います。25節「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」

離され、散らされ、離散した上で試練に遭う、しかし、「あなたは戻って来たのだ」と言うのです。神の御心と見分け、判断し、知ることができるように、しばらく苦しみがあるかもしれない。

しかし、それは神の御心にあてはまることであるのだから、平安のうちに進んで行きなさい。

魂の牧者であり、監督者であるキリスト・イエスがおられるのです。

このお方により力を与えられ育まれ神の御心のうちを歩むのです。

あなたがたが召され、今、呼び出されたのはこのため、魂を護り、慰め、育んでくださるキリストのところへ戻って来るためであります。