「キリストこそ永遠の命」 ヨハネの手紙一5章13節~21節

「神の子の名を信じているあなた方に、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

今日、わたしたち、むさし小山教会は創立69周年を迎えました。1951年(昭和26年)9月16日がわたしたち、むさし小山教会の創立を記念する日であります。初代牧師の小林 寿(ひさし)先生が58歳の時に、この地に開拓伝道をされたのが始まりでした。第二次世界対戦前は荏原中延協同基督教会の牧師を小林 寿先生はされておられましたが、戦争中その会堂が強制疎開にあい、倒されてしまいましたそこで先生は「牧師としての自分の使命は終わった」と思うのでありましたが、日本で約60年間伝道をされたアメリカ人宣教師ミス・フランシス師からこう言われたのでありました。「牧会伝道は十分できなくても、人を愛することはできるでしょう」。この言葉がきっかけとなり小林寿先生は、新たに牧師として立つ決意をしたと云われています。

つまり、使命は終わっていなかったのです。

というよりは、一見、伝道の業が文字通り強制的に終了、閉鎖されたかに見え、自分の使命は終わったと思わされても、終わっていなかったのであります。さらにそれは、終わったという言葉を用いて表現されるよりは、新たに始まったということであったのではないでしょうか。ミス・フランシス師の「牧会伝道は十分できなくても、人を愛することはできるでしょう」という呼びかけは、すべてを失ってしまったかのような中にあっても、再び目を覚ますかのように、その始まりへと引き戻し、また、前へ進む力を与えることとなったのでありました。

そして、その始まりとは、新約聖書ヘブライ人への手紙11章8節「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」この御言葉によるものでありました。

小林 寿むさし小山教会初代牧師は、牧師に召される以前、経済的にも仕事も安定していた時のこと、ミス・フランシス師にめぐりあって、キリスト・イエスの愛に出会ったのでありました。そして、「生涯は二度と来ない。最も貴いことに労苦しなさい」とフランシス師に言われ、小林 寿先生も「どうせ一苦労せねばならぬ世の中、これに従おう」と捉えられ、主なる神にご家族共々従ったのでありました。

アブラハムは、信仰の父と呼ばれ新約聖書ローマの信徒への手紙4章18節で使徒パウロはこう述べています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われているとおりに、多くの民の父となりました。」

そして、そのローマの信徒への手紙4章20節から25節で、パウロはこう続けています。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」

神は、救い主イエスをお遣わしになられ、主は苦難を受けられ、十字架の死につかれますが、復活させられ、この神の愛とゆるしを信じることにより、わたしたちは義とされ、神の御前にて正しいと認められるのです。神の御前にて正しいと認められるということは、罪ゆるされ、罪責感から解かれ、愛に満たされ、無価値観から解かれるということであり、すべてを神の愛とゆるしにゆだねることができるということであります。

むさし小山教会初代小林 寿牧師が目指していたのは、聖書に出てまいりますフィリピの教会です。この「フィリピの教会にならう教会」ということを、引き継いで、二代目牧師の小林 宥(すすむ)先生は、「愛と喜びに満ちた教会」と表現され、それには、「キリスト・イエスの十字架と復活の福音をより深く味わうこと」とされています。そして、「そこにこそ汲めども尽きない命の水が湧き上がり、魂の休息、魂の清新、そして、魂の回復がある」とお語りになりました。

神が、わたしたちに安息を与えくださる、それは、なによりもこの場が、神の安息の場となるということであります。神自らの御手でその安息の場を主はお造りになられるので、これらすべては、存在するのです。ですから、わたしたちは、神のもとに魂の平安を得るのです。

そして、この世において、暗く悪しき霊に惑わされるかのような世の中にあっても、光によって光を見出し、光を目指し、神を賛美し、神の聖なる霊に導かれ、わたしたちの魂に、清く新しい風を吹きれ、息を吹き返し、安らかに生きることができるのです。それは、ダビデの奏でる竪琴の音色のように、暗く悪しき霊が離れるからです。

そして、かつてダビデが詩篇51篇で歌ったように、魂の回復を祈ることができるのです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味あわせ、自由の霊によって支えてください。」

自由の霊、聖霊は、主イエス・キリストが救い主として来られたことを公に言い表します。この神の霊は、神の子イエス・キリストを言い表すのであります。そして、今日、わたしたちに与えられた聖書、新約聖書ヨハネの手紙は、公にキリストの愛とゆるしを表明し、分かち合うのです。

ヨハネの手紙一5章13節にはこうあります。「神の子の名を信じているあなた方に、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

神の子の名を信じ、それを土台とし、教会は建て上げて来ました。

そして、この神の導きは、わたしたちに心配することではなく、信頼することによって成長して行くことを語っています。

永遠の命を得ているキリスト・イエスの御名によってであります。あの労苦も、あの嘆きも、あの悲しみとあの苦しみも、キリスト・イエスの御名を信じて、このお方の御名によって、永遠の命を得ている、そのことを信頼するのであります。

ヨハネの手紙のヨハネは、再び「イエスは神の子救い主であると信じるために、また、信じてイエスの名により命を受けるために」語ります。

14節15節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」

ヨハネは、主イエス・キリストが、十字架の死に向かって行くその時、弟子たちにおっしゃったことをその通り語っているといえます。主イエスは、苦難と十字架を前におっしゃいました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きいな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」

主イエスは、「わたしの名によって」とおっしゃいました。このイエスの御名にヨハネはとどまり、これが神に対する確信となったのです。

そして、わたしたち教会の土台となったのでありました。主イエスの御名により、「神に願ったことは、既にかなえられていることも分かります。」とヨハネは述べます。

「既に」とは「以前に起こっている」ということであり、また、「あまねく」という意味でもあります。「以前に」「あまねく」かなえられているというのは、主イエスを信じ、主イエスの御名により永遠の命を得ているからです。永遠というのは、今、この時も含んでいます。ですから、「既にかなえられている」というのです。

16節17節「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命を与えになります。これは死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。」

主なる神にいやしていただくよう願い祈ることを、ヨハネは勧めています。故意に、罪を犯し、また犯し続ける者は、主を冒涜するものであり、主の御言葉を侮る者であって、「これについては、神に願うようにとは言いません」とヨハネは言います。非難も批判もせず、ただ主を信頼していなさいということであります。

18節「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は、罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」

主イエスは、危機を前にして、弟子たちのため父なる神に願いました。「悪い者から守ってくださるように。」それは、神の愛とゆるしのうちに一つとなるようにとの祈り願いでありました。神の御心を行う人は、永遠に生き続けるからです。

その人の内にはいつも神の御言葉の種があるからです。

19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」

ヨハネは、十字架と復活の主イエス・キリストが、すべての人をご自分のもとに引き寄せられるのを心の目で見ています。しかし、この世では、このことに石を投げる者があることも分かっています。

ですからヨハネは、「わたしたちは知っています」と手紙の最後5章18、19、20節で繰り返し三回述べて、公にキリスト者たちを励ますのです。20節21節、「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。」

ヨハネは、公の手紙の最後に、主のみを礼拝することを語ります。

わたしたちは知っています。過ぎ行くこの世の波の中で、永遠なる神の子キリスト・イエスを礼拝し続け、教会を建て上げて行かれた敬愛する兄妹姉妹を。

神の子が来られ、真実なるお方、主なる神を知る力に、わたしたちの敬愛する兄妹姉妹は支えられたことを。

わたしたちは知っているのです。

神の子イエス・キリストのむさし小山教会は、このお方の内にあって、永遠の命を得ているということを。

今日、教会創立記念の時をつなぐ時、わたしたちは、この喜びをつなぎとめます。

永遠なる主において、天に在る者も、地に在る者も、すべて兄妹姉妹と共に、救い主キリスト・イエスを喜びます。