「キリストの思い」 コリントの信徒への手紙一2章11節~16節

「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

今日、わたしたちに与えられた聖書は、使徒パウロを通して語られた言葉であります。

わたしたちの国では、感染症対策と合わせて「危険な暑さ」と表現される日々がしばらく続きましたが、火の中を通るかのような経験というのがわたしたちの人生にはあるかもしれません。燃え盛る炎の中を走っていくというようなことがあるかもしれません。

聖書、旧約聖書のダニエル書には文字通り、火の燃え盛る炉に投げ込まれるという出来事が記されています。

バビロンの王が侍従長に命じ、ユダヤの少年たちを宮廷で仕えるものとして養成します。その中の一人がダニエルでありますが、他の三人の青年がある時、バビロンの王の命令であった「金の像を拝む」ことをしようとはしませんでした。

それは、「わたしたちのお仕えする神は、燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」と王の前で表明するほどの信仰を持っていたからでありました。

そしてそれは、人のつくったものは救いにならず、ただ神のみがこのわたしたちを必ず救ってくださるということでもありました。

しかし、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、この三人の青年たちは、血相を変えた王によって、いつもより七倍も熱くした炉に投げ込まれてしまいます。三人は、上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれてしまいます。いつもより激しく燃え上がる炉は吹き出る炎で、三人を引いて連れて行った人たちさえも焼き殺してしまいました。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、の三人は縛られたまま、燃え盛る炉の中に落ち込んで行きます。

すると、間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねます。「あの三人の男は縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」

側近たちは答えます。「王様、その通りでございます」。

王は言いました。「だが、わたしには四人のものが火の中を自由に歩いているのが見える。そして、何の害も受けていない。それに、四人目の者は、神の子のような姿をしている。」そこで、王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、に呼びかけると、炉から三人は何も害を受けずに出て来たのでありました。

王は、主なる神をたたえて言いました。「彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。」そして王は、この三人をバビロン州で高い地位につけました。

火の中を通るかのような時、その中をもうひとりのお方がご一緒してくださり、自由に歩き、何の害も受けないのであります。

何故なら、「主はあなたのために、御使に命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」からであります。

守ってくださるのは主の御使いであり、自分ではありません。主がなされることに合わせ、主がなされるように、自分の握りしめていたものを手離すということであります。

今日の聖書、新約聖書コリントの信徒への手紙を書き記したパウロも、火の中を通るかのような経験、すなわち、試練を通過して来たのでありました。

十字架の死より復活させられた主イエス・キリストに出会うことにより、パウロはこのキリストの十字架に思いを合わせ、また、自分自身を合わせて行きます。それは、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬようにであり、人の言葉の知恵によらないで、福音を告げ知らせるためであります。福音とは、神があなたを愛と赦しの中に置かれ、救われるというよい知らせであります。

それは、この世の知恵のある者には滅びて行くようなもののように見えます。また、この世の賢い者には意味のないもののように見えます。しかし、主は、使徒パウロ通して語られるのであります。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。

パウロは、この世の知恵や賢さをではなく「神の力」を宣べ伝えました。

「福音を恥としない」とパウロは言います。福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。パウロは、神の力によって生きる道を示したのでありました。ですから、火の中、水の中を通る時にも、「誇る者は、主を誇れ」とパウロは勧めます。

使徒パウロは、この世の中で、主にある道筋を見失い、なすべきことから離れ、混乱しつつあったコリントの教会の人々に手紙を書き送ります。経済的にも繁栄し、さまざまな人々が行き交うコリントは、魂が見つめるべきものを見失うことにより、苦しんでいたと言うことができるかもしれません。

表面的に見える見映えではとても良く問題もないように見える、しかし、その内面は苦しみで混乱しているということがあります。

そこで、届くようパウロはあえて、この世の優れた言葉や知恵を持ちませんでした。パウロ自身は、それらの深い知見をユダヤ人として持ってはいましたが、神の秘められた計画を宣べ伝えるのにこのような優れた言葉やこの世の知恵を用いず、ここにある神の力に焦点を合わせました。

ですので、パウロは人々の間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたのです。

それは、人々の間にあって、人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでありました。そこに、救いがあることをパウロは、気づき、学び、知った、のでありました。

しかし、使徒パウロは、この世で神の力、神の知恵であるキリストを、しかも十字架のキリストを宣べ伝えることによって、この世で使徒であることによって、衰弱し、恐れに取りつかれ、ひどく不安を覚えることがありました。「何かが違っているのではないだろうか」という思いがやって来るのであります。

しかしそれでも、神の愛と赦しはパウロに迫るのです。キリスト・イエスの愛と赦しは、「あなた」という人に迫っているのであります。神の秘められた計画が隠されていたのです。それは、この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。神の栄光が現されるために秘められていたのです。

神の栄光とは、神がここにおられるということであり、そして、神の栄光が現されるとは、神の恵みがそこにあって、このお方により、光がさし、暗さと重荷が消え、試練の中にあっても自由に歩き回ることができるということであります。神の栄光は、心の目の覆いを取り除きます。そしてそれは、神の力が現されていることを語っています。

神は、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、ご自分を愛する者たちに準備されているのであります。神においては明白であることが、人においては神の隠された知恵として現わされるのです。そして、そのことは霊によって、聖霊によって明らかに示されるとパウロは言います。

使徒パウロは、今日の聖書、コリントの信徒への手紙12章11節でこう述べています。人の内にある霊以外に、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に、神のことを知る者はいません。」

人の内にある霊がその人のことを知っているならば、神の霊である聖霊が、神のことを知らないはずはなく、他の誰が知るであろうか、とパウロは聖霊の大きく、広く、深い働きについて述べます。

この世の中で、また街での暮らしの中で、恐れと不安を抱き、混乱してもいる人々に、パウロはこの聖霊の内的働きを強調し、ここに魂の慰めがあることを述べるのです。

12、13節、「わたしたちは、世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで、わたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく霊に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」

コリントの街で、恐れと不安、また思い煩いの中にある、そして、そのことに気がつかない人もいる、そのような人々にパウロは、今一度思い起こすように、「わたしたちは神の霊を受けました」と言います。

神により、聖霊がわたしたちの内におられ、それだからこそキリスト・イエスの恵みを与えられているのであります。

キリスト・イエスの恵みとは、キリストがあなたに問うているそのことです。恐れと不安、また思い煩いの中にあって、十字架の死より復活させられたキリスト・イエスが問うている。「あなたの恐れを手放しなさい」。

救い主が共におられる恵みであります。これはこの世の霊、人の知恵によるのではなく、聖霊によって教えられたとパウロは述べます。聖霊に教えられた言葉は、パウロを通して、人を通して、語られます。

そして、命の命、光の光から分かれ、離れ、分離することなく、命を持ち、聖霊を持ち、信仰をよりどころとして生活し、聖霊による導きのもとに祈りつつ歩むことを願ったのです。「霊的なものによって霊的なことを」すなわち、神の愛によって自分を守り、永遠の命に導いてくださるキリスト・イエスと共に歩むこと、火の中から引き出して助けてくださるお方と一緒に歩むことであります。

14、15節、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。

霊によって判断することができない、と嘆き、退くことはまったくありません。

判断するのはあなたであり、何よりも神であるからです。

神の愛は、あなたにあり、すでにここにあるのでだから、誰からも判断されたりしません。聖霊によって判断され、わたしたちは神の愛に憩いを得るのです。

16節、「『誰が主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」

パウロは、恐れと不安の中、その心が混乱してさえもいる人々に、「誰が主なる神の霊を測り知り、その企てを知ることができるだろう」。また、「誰が主なる神に助言し、理解させ、道を教え、知識を与え、英知を知らせることができるだろうか」と述べます。

しかし、わたしたちは、死と滅び、すなわち罪とすべてに勝利したもうキリスト・イエスの思いを聖霊によって与えられているのです。キリストの思いが、あなたを火の中にあっても引き上げ助けてくださるのであります。「わたしたちは、キリストの思いを抱いています。」