「知恵と力あるわざ」 マタイによる福音書13章53節~58節

「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と、人々が主イエスについて言ったということが、今日の聖書には記されています。

わたしたちは、一般的にも「この人はこうだ」「あの人はこうだ」ということをよく聞くことのあるそのような中にいるのかもしれません。

それが良いか悪いかということではありません。

今日この時、わたしたちは、主イエス・キリストに知恵と力があったということを、人々の発言を通して知るのであります。

キリスト教教会では、クリスマス直前までの四週間、待降節に先週入り、共に歩んでいます。このアドベントという期節は、わたしたちにある問いかけをしていると言えます。そして、この待降節が、問いかけるのは何かというと、「主を待つのにふさわしいかどうか」ということであります。

この問い自体が、主なる神とわたしたちとの関係を言い表しているといえます。

主を待つということは、主なる神が再び来られることを待ち望むというわたしたちの姿勢であると言えます。

いつ、どこで、何を行っているかということも、大事なことであるかもしれませんが、その物理的な時間、空間、そしてその行いに、制限されるものではありません。

その時、その場所で、何を行ったか、また、何を行っているのかという範囲、そして限界を定めているのではありません。それは、わたしたちの造り上げる限界であり、範囲でしかありません。

そして、その事に制限されるお方をわたしたちは待ち望んでいるのではありません。わたしたちは、自分自身を待ち望んでいるのではありません。

真の自分自身、ありのままのわたしたち一人ひとりを望み、出会うことを待っておられるそのお方を、わたしたちは待ち望んでいるのです。

そして救いの主イエスキリストは、わたしたちがどのような時にも、またどのような場所においても、来てくださるお方であることを改めて再び思い起こすそのために、主を待ち望むのであります。

「主よ、来てください」「わたしは待っています」と申し上げるのです。

しかし、この世は、また、わたしたちは、ふさわしいものでないかもしれません。

考えれば考えるほど、ふさわしいとはとても思えない、という考えがどこからともなくやって来ることがあるかもしれません。

この世では神であって神でないもの、光のようであってそれは装われた闇であることがあり得ます。

そのことにビクビクする必要は全くありませんが、この世の中で、わたしたちは、主を待つのにふさわしいかどうかということを思う時、きわめて、恐れと不安を覚えるのであります。

わたしたちには、それにふさわしいものが何もなく、それを得ようと様々なものを、色々なものを、探し出そうとしますが、見つけられないその恐れと不安がやって来ます。

そして、その思いは、いつまでもそうではないだろうかという考えにより、苦しみや悲しみを生み出します。

この苦しみの時が、この悲しみの時が、いつまでも続くのではないだろうかという考えは、わしたちの手を、また、わたしたちの足を縛りつけるかのようですらあります。

心は抑えつけられ、その重さで心臓が潰れそうだとさえ感じられるその恐れにすっかり取り憑かれてしまうこともあるかもしれません。

また自らそれを断ち切ろうとすることもあるかもしれませんが、それは一つの執着、とらわれていること、深く思い込んでいることの表れでしかないこともあります。

しかし、わたしたちには、「待つ」ということが許されているのであります。そして、「待ち望む」ということが許可されているのであります。

焦ることも、慌てることもなく、「待ちなさい」という主の御声を、今こそ聴くのであります。

人の罪の力ではなく、神の救いの力を待ち望むのであります。このお方により、わたしたちは、魂の救いと慰め、そして、平安を与えられるのであります。

この世が造り上げる金の子牛ではなく、真の神の御言葉によって、わたしたちは待つことの平安、待つことの慰め、そして、待ち望むことの救いを得るのです。

そして、この主を待ち望む姿勢を育むのが、主イエス・キリストこのお方であります。

主は来られるのです。ですから、わたしたちは待ち望むのであります。

それは、冬の夜空に瞬く星々を眺めていると、こちらに光が向かって来て、何かを問いかけ、伝え、知らせようとしているかのようです。

この世で、また個々人において、苦しみや悲しみが絶えることのないように思えるこの世の中でありますが、それは、いつまでも続くものではなく、一日一日が過ぎてゆくように行き去り、消え去りして行くものなのかもしれません。

だからこそ、主を待ち望むのです。

今、苦しみ、悲しみ、その恐れから自らを断ち切ろうとするのではなく、愛の主を待つのです。

主は来られ、主と出会い、「そんな時もあった」「あんな時もあった」とお話をするのであります。

主を待ち望むのにふさわしいかどうかをふり返るとは、このことであります。

この世の流れゆく風に吹かれながらも、その中で、寒さ冷たさを果てしなく感じながらも、愛の主のあたたかさのもと、涙とともに笑ってお話の出来る時がやってくるのであります。

主は、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いになられるのであります。

そして、主を待ち望むのにふさわしいかどうかは、わたしたち人の知る、人知をはるかに超えています。

わたしたちは、人を通して、しかし、人を超えたところから来てくださる救いと助けを主によりいただいているのであります。

そして、今日、わたしたちに届けられました聖書、新約聖書マタイによる福音書13章は、「天の国」について主イエスがたとえを用いてお語りになられた章であります。

マタイ13章の44節から三回、「天の国は次のようにたとえられる」と主イエスはお語りになっておられます。

一つ目は、宝が隠されている畑。二つ目は高価なよい真珠ひとつ。そして三つ目は、網にかかった良い魚。

そのように「天の国」を主イエスはたとえでお語りになられ、天の国すなわち神の国に入ることをお教えになられます。

主イエス・キリストは、弟子たちに、この天の国のたとえをお語りになられ、教えられ、隠されていたものを明らかにされたのでありました。

弟子たちの周りには、「あの人のこと」「この人のこと」「あの出来事」「この出来事」などが取り巻いていたことでありますが、主イエスはこの世で弟子たちへ、この神の国、天の国についてお教えになられたのでありました。

そして、マタイによる福音書13章51節、52節で、主はこうおっしゃいました。「『あなたがたは、これらのことがみな分かったか。』弟子たちは『分かりました』と言った。そこでイエスは言われた。だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

「天の国のことを学んだ学者」というのは、主イエス・キリストの教えから学んだ者ということでありますが、その学んだものをたとえると、一家の主人。新しいものそして古いものを自分の倉から取り出して来る主人のようだとおっしゃるのです。

その取り出して来たものは、主イエス・キリストによって現わされたものでありますが、それは新しいものであります。

そして、古いものとは、天地創造の時から隠されていたものであります。

ここで、聖書にたとえると、新しいものは新約、古いものは旧約、と云うことができるかもしれません。

旧新約聖書には、救い主イエス・キリストが隠され、そして明らかに表されています。主イエスは、弟子たちに天の国のたとえを通して、神がなさろうとされておられることを受け止めること、それはただ、信仰を持ってお受けすることを、お語りになっておられます。

そしてそれは、神の御言葉、聖書を通してあなたのまた、わたしたちの人生には、天地創造の時から隠されていたことがあり、今、主イエス・キリストと共に在ることにより、宝が在るということであります。

そして人は、そのような存在であるというのです。

わたしたちのその姿は、信仰を通して見えてくるということであります。

マタイによる福音書は、主イエス・キリストが、弟子たちに天の国のたとえを教えになられた後に、このように述べています。

マタイ13章53節、54節「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』」

主イエスは、天の国のたとえを弟子たちにお教えになられると、そこに止まり続けることなく立ち去られました。

主イエスは、師と弟子という関係ではない場へと向かわれます。

それは、すべての人たちが、それぞれに持っている故郷です。

主イエスはこの時、ご自身がお育ちになられたナザレの村へとお帰りになられたのでありました。

そして当時あったユダヤの会堂で、弟子たちに教えられたように、主イエスは皆の前でお教えになられたのであります。

小さく幼い頃の主イエスを知っている人々もいたことでしょう。また、ナザレの村人として主イエスのことを知っている人たちもいました。

その村の会堂で主イエスがお語りになられると、人々は驚いて言ったのでありました。「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」

ナザレの人々は、「この人は」と言います。そして、この方に、知恵を見ています。

それは、お語りになられる御言葉によります。

また、「奇跡を行う力」と人々は言っていますが、それは、ナザレの村に主イエスが来られる前に、主イエスが町や村を巡られ、病を癒され、悪霊を追い出された、その話を伝え聞いていたからでありましょう。

その奇跡がナザレの会堂において行われたのではなかったのでありますが、人々が驚いたのは、その力が在ったということであります。

主イエスがそこにおられるということに、まさにそこに神の知恵が在り、神の力が在ったということであります。

そして、この主イエスの知恵と力とは、ナザレの会堂だけではなく、すでにユダヤの町や村、それぞれの地に広がっており、その一人一人の救いとなり助けとなっていたのでありました。

その事実と、今、会堂で教えておられる主イエスを目の前に、ナザレの人たちは驚いているのです。

そして、その知恵と力はどこから得るもの、手に入れ、自分のものにすることだと思っていたのでありました。

確かに成人になられるまでの少年イエスは学ばれたことでありましょう。

しかし、55節、56節、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべていったいどこから得たのだろう。」

ナザレの人々は大工であったヨセフ、そしてその妻マリアの事も知っていました。

そしてその子どもたち、主イエスの兄妹、姉妹たちも知っていました。

ナザレの人々は、この時、主イエスを見ているというよりは、その父親、母親、その兄弟たちを通して、主イエスを見ていたと言えるかもしれません。

「我々と一緒に住んでいる」と言う人々に囲まれていたからでありました。

マタイによる福音書は、そこにおられる主イエス・キリストを見ようとも聞こうともしない人々をこう述べました。

57節「このように、人々はイエスにつまずいた。」ナザレの人々は、主イエスに神の救いと神の助け、そしてその愛を見ることができず、ユダヤの人々の多くがそうであったようにナザレのとあるひとりの人を見るにとどまったのでありました。

マタイによる福音書は、そのことを「つまずいた」と書き記し、そこには信じるという信仰がなかったと述べるのです。

人間イエスを見ているのではありますが、キリスト・イエスを見てはいなかったのであります。

主イエスはおっしゃいます。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」そして、58節「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」

ナザレの人々は「つまずいた」とされていますが、主イエスはそれを嘆かれたのではありませんでした。

そこは、主イエスの故郷であったからでもあります。そして主イエスは、ご自身のことをこの時、預言者と表現されています。

預言者は、故郷、家族の間では敬われないとおっしゃるのです。それは、人の言葉ではなく、神の御言葉を告げ知らせるからでもあります。人ではありますが、人ではないお方からの救いと助けを告げるので、そこに信仰の目を向けないと見えず、聴こえないのです。

しかし、その不信仰に、主イエスは嘆かれることも批判されることもなく、ただ故郷の人々を愛されたのです。

主イエス・キリスト、このお方こそが人々の罪の赦しのため十字架の死へと向かわれ、命をかけられたのです。

それは前進するためでありました。

十字架の死につかれた主イエス・キリストは、復活され、今も、救いのため、固く据えられた礎の貴いかけがえのない石として置かれています。

これを信じる者は決して失望することはないのです。

絶望から信じる信仰へ、その知恵と力あるわざが、救い主イエス・キリストにあるのですから。