「東方の学者たち訪れる」 マタイによる福音書2章1節~12節

「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」

主の年2020年の終わりの主日、新約聖書の福音書は、主イエス・キリストの御誕生の知らせがこのようになされたということを示しています。

今年は、新型コロナウイルスにより、わたしたちの生活様式、わたしたちの暮らし、人生が大きく変えられた年でもありました。

今も感染拡大その最中にあって、日々奮闘され、困難に対し、力の限り努力を重ねておられる方々がおられ、その方々のお働きを覚えます。

また、離れることや失うことといった経験、心に痛みを覚えることもある年でありました。

それはまた、人と人という関係だけではなく、人と事という関係の中でも起きた、失うという出来事がありました。

わたしたちの心は、すっかり暗くなったかのようであります。季節も冬至に入り、明るい昼が最も短い時を迎えているように、わたしたちは寒さの中を歩いています。

そして、その寒さのために身体の感覚を失い、その心はすっかり凍えてしまっているかのようで、冬の寒風が、今も吹いています。

しかし、わたしたちは、先週クリスマスを迎え、闇の中に光が輝いていることを再び知り、思い起こしました。

あたたかさが、主イエス・キリストを通してこの身に、この心に生まれたのでありました。

クリスマスの表面的なお祝いに隠されて、この光が小さく見えにくくなってしまっていることがあるのかもしれませんが、光は今も輝いているのであります。

そしてその光は、わたしたちをある所へ導き、それはまた、ある所へ戻ると言ってもよいのかもしれません。

わたしたちは、この年を閉じようとするこの時、2020年、わたしたちの年間聖句として掲げました「わたしは世の光である」という主イエス・キリストの御言葉に戻るのであります。

それは、わたしたちが喜びの時、悲しみの時、健やかな時、また、病む時にも、そっと光を照らし続け、寄り添い続けてくださった主イエス・キリストをお迎えすることでもあります。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

主イエスは、あなたを、また、わたしたちを、死と滅び、すなわち、罪から引き離し、救い出そうとされるのです。

死と滅びへと強く引き込もうとするこの世の力ではなく、光によって命を与えになるのであります。

そしてこの命は、この世にあって、まことの喜びと感謝を生むものであります。

大きな変化のあったこの一年の終わりの主日、わたしたちの開く聖書は、マタイによる福音書2章1節から12節、新共同訳聖書では「占星術の学者たちが訪れる」という聖書箇所であります。

このマタイ福音書の2章に入るすぐ前、1章の終わりには、主イエス・キリストの御降誕を告げる天使が「インマヌエル」という名を乳飲み子イエスに与えられ、その意味は「神は我々と共におられる」ということが告げられています。

その時代、またはこの時代、神は、わたしたちと共におられないと思う死と滅びが、薄暗く迫り、覆うかのような場に立つ者に告げられたのです。

それは、「夢で」でありましたが、1章の24節、25節「ヨセフは、眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が産まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」のでありました。

夢を見た。

夢で語られるのを聞いた。

そして、目を覚ましその通りに行い、続き合いを切ろうとしていたけれども、迎え入れ、そして名付けたというのであります。ただ夢を追う者ではなく、主の天使が示した神の御言葉をそのままに生きる者の姿がここにあります。

そして、神の御言葉を信じ従う者が記された後、マタイによる福音書2章1節、2節「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」

マタイによる福音書は、歴史的に主イエスはヘロデ王の時代にお生まれになったとします。

その時代とは、王の専制的、強権的、政治体制下にあって、エルサレムの都に立派な神殿、劇場、宮殿を造り営んではおりましたが、ユダヤの人々の間ではヘロデ王を憎しむ人も多かったと云われています。

そのヘロデ王の時代に、救い主イエスはご降誕され、それはかねて云われていたベツレヘムにおいて、と言うのであります。

マタイによる福音書は、人々の暮らしが、王の独断によって強く影響される、すなわち、一人ひとりの命が大切にされないかのような時代に、「神は我々と共におられる」というお方として来られたのであります。

そのとき、時を重ねて、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来たというのであります。

エルサレムから遠く離れたその地で、天体の位置や動きによって人や国の運命を占う学者たち、現在の自然科学としての天文学の前のかたち、ありかたである占星術によって得た知見により、学者たちはやって来たのでありました。

彼らが言うには、ユダヤ人の王がお生まれになったことを知らせるその星を遠く離れた東方で見たというのです。

そして、行動を起こしてそのお方を拝みに来たと言うのです。

しかし、3節、4節にはこうあります。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。」

ユダヤのヘロデ王をはじめ、エルサレムの人々、それはおそらくヘロデ王の体制下にあるすべての人々が、不安を抱くこととなったのです。

それは、王の専制と強権に深く関わることであったからでもありました。

自分にかわる新しい王が生まれたという知らせが、遠く離れた地から来た者たちにより入って来たという、望ましくない事態を明らかに予想させるものであったのです。

しかも、訪れた占星術の学者たちは「拝みに来た」と言っています。

ヘロデ王はある意図を持ってユダヤの祭司長たちや律法学者たちを集めて、メシアがどこに生まれることになっているのかを問いただします。

5節、6節「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。ユダの地、ベツレヘムよ、お前は指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

旧約聖書の預言書、ミカ書5章1節の御言葉です。

ミカ書では、「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」とありますが、マタイによる福音書では、その神の預言が実現したことを告げるために、「お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さなものではない」と記しています。

いと小さい、最も小さいけれども、決してそうではない。

いちばん小さなものではなく、あまねくこの世の人々を照らす大きな光であるということです。

東方から訪れた学者たちは、エルサレムに来る途中でしるしとなる星を見失ってしまったのかもしれません。

それを目当てに進んで来たのであれば、途中で消えて見えなくなってしまったのであれば、非常にその落胆は大きかったのではないでしょうか。

初めから終わりまで、途切れることなく、しるしの星に導かれているのであればエルサレムにおいて生まれたばかりのメシアの居場所を訪ねることはなかったのではないか、と考えることもできます。

わたしたちの人生の歩みも、初めから終わりまで、しるしとなる星がどこまでも導いてくれるのであれば、と考えることができるかもしれませんが、そうではありません。

神の御言葉が実現する、そして、その力が愛とゆるしの力のご支配が、わたしたちを護り導いて行くのであります。

それは、この世の寒空のもと、崩壊してしまっているかのように見えるかもしれませんが、決してそうではないのです。

この神の愛とゆるしから、わたしたちを引き離すものは何もないのです。

神の御言葉は、このように遠く離れた地においても知らされ実現することを、マタイ福音書はユダヤの人々にも告知しているのです。

そこで7節「ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。」

ヘロデ王は、公には出来なかったのです。ユダヤの王がお生まれになると言う学者たちを表立って呼ぶことができないのです。

言葉を替えれば、その不安は非常に大きく、押しのけ、退け、消してしまいたい事に関わっていたからでもありました。

そしてヘロデ王は、学者たちには、8節「『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」

ヘロデ王は、占星術の学者たちと同じように「わたしも行って拝もう」と言いますが、行きません。

はじめからその考えはありません。

マタイによる福音書、今日の聖書箇所に続く2章13節から18節の小見出しにある通り、ヨセフ、マリア、そして、イエスは、「エジプトに避難する」そして「ヘロデ、子供を皆殺しにする」その出来事が王の残虐さをすでにここにも現わされているのです。

お生まれになったばかりの乳飲み子イエスと、母マリア、そしてその夫ヨセフが、ベツレヘムからエジプトに行けなければならない時代、子どもたちの命が、また、すべての人々の心が、極めて過酷な状態にある時代に、主イエス・キリストはお生まれになられたのであります。

それでも占星術の学者たちは、マタイ2章9節「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」

しるしとなる星が現れたのです。

ヘロデ王が語った言葉ですが、それは、かつて預言者を通して語られたその神の御言葉を聞いて、そして、歩み出すと、再び星は彼らを導いたのでありました。

それは東方で見た星、ひととき消え、見失ってしまったかのようなその光が、先を進み導き、着くべきところ、拝するべきお方、救い主イエス・キリストとお会いすることとなったのです。

ですから、10節、11節、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

 ヘロデ王から語られ聞いた神の御言葉により、救い主イエス・キリストにお会いした彼らではありましたが、12節「『ところが、ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国に帰って行った。」

遠くの地から彼らは宝の箱を携え運び、王に献げるように主イエス・キリストにお献げし、拝しました。

それは、この乳飲み子はやがて王の王として、父なる神の御心に従い、人々の罪の赦しのため苦しみを受けられ、十字架の死につかれることをあらかじめ現すかのような贈り物でありました。

マタイによる福音書は、十字架につけられた主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きが掲げられたことを明記しています。

救い主イエス・キリストは、すべての人々の王の中の王であり、この世の力が薄暗く、覆う中においても、わたしたちを、いつ、どこにおいても、照らし、そして、導く光であるのです。

東方の学者たちはしるしを見失い、旅の途上、落胆すること、失望し、がっかりし、力を落とすこともくりかえしあったことであるかもしれませんが、しかし、彼らは神のしるを見て、聞いて、出かけ、導かれ、喜びにあふれたのでありました。

まことの救い主とお会いしたその喜びは、わたしたちの光が先立って進んでくださっている、確かにわたしたちを導いてくださっているという、あとに従う者のよろびであり、命の光を持ち「道」を歩むよろこびにあふれています。