「神は我々と共に」 マタイによる福音書1章18節~23節

今日、わたしたちはクリスマス礼拝のときを迎えました。主イエス・キリストの御降誕を祈念し、心よりクリスマスのおよろこびを申し上げます。今、礼拝堂に集う方々、また、それぞれのご自宅やその他の場所で礼拝をお献げされている方々も、このクリスマスのとき、共に在ることを覚えて、主の御名により感謝をいたします。

2020年のクリスマスは、人と人とが少し遠ざかり、離れることを求められる中でありますが、神が人と共に住み、人は神の民となる、そのことを成し遂げてくださった主イエス・キリストをお迎えし、お祝いできる幸いを心より感謝する次第です。

主の御降誕を特別に記念する礼拝に、わたしたちの開きました聖書は、新約聖書のマタイによる福音書2章18節から23節であります。

福音書とは、読んで字のごとく、福音の書であり「福音」はもともと「良い知らせ」を意味する言葉であります。

わたしたちの日常生活は、良い知らせばかりではなく、どちらかと言うとその反対の知らせが多いということができるかもしれません。

それは、生存のために危険に対する感度が高く自然とそのような情報が集まってくるということができるかもしれませんが、そればかりではありません。良い知らせとそうではない知らせとは、この世に同時に存在していると言えます。

主イエス・キリストがご降誕されたという知らせは、この世界の歴史上約二千年前から知らされ続けていると言えます。

しかし、それに関心を持つ人はいつの時代も、どの国においても、そう多くはないのではないでしょうか。かつてある神学者が遺した文章があります。

「福音に耳を傾ける人は、いつもいなかったし、心をとらえられる人も、やはりいつも一握りだろう。そんなわけだから、誰をも責められない。わたしたちの国では、多くの人がおおむね良好な暮らしぶりにあるといえる。それだから、わたしたちはこの祝祭の時、いろいろな楽しいことに思いを向ける暇があるし、気持ちもある。ところが福音には耳を傾ける暇も、気持ちもない。そしてきっと、国境の向こう側でも同じだろう。大きな悲しみ、悲惨、困窮のゆえに、耳を傾ける暇も、気持ちもないだろう。それこそ責められない。しかし、どのときにも、神のご支配が現実であり、クリスマスの福音は常に、『それにもかかわらず』動かない現実だ。これがクリスマスの福音のすばらしさだ。」と記述しています。

「良い知らせ」は、数々の歴史を辿って伝えられて来たということですが、今、ここに在るということを新約聖書マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図を記すことから始め表しています。

1章1節には、「アブラハムの子ダビデの子、イエスキリストの系図」とあって、どのような人々がいて、どのような歴史を辿って、主イエス・キリストが御降誕されたのかということを、マタイは人物の名を記すことによって示します。

この系図の中に出ている一人一人はそれぞれ違い、その与えられた時と場所、また、立場で生きた人たちでありました。

1章の17節にはこうあります。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」

ここに世代の区切りがつけられています。

信仰の父と云われるアブラハムから、王の中の王と云われるダビデ。

そして、ユダヤの人々がバビロンにより捕囚され、移住するということが大きな時代の区切りとしてありますが、バビロン捕囚。それは、人々にとっての大きな痛み、国を失うという深い悲しみの事実を伝えていると言えます。

そのような人々の歩みを、マタイによる福音書は見つめ、受け入れつつ、主イエスの御降誕を語り始めます。

1章18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

系図に記されている通り、「マリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と、イエスの呼び方について記され、このお方はメシアであると言うのです。

ユダヤの民にとって、そして、聖書の言葉を聞き、神の御言葉を聞くすべての人々にとって、このメシア、すなわち、救い主は、待望される方です。

そして福音書は、その「待ち望んでいた」、また「待ち望んでいる」お方が来られたのだということを、このメシアという言葉、そして、そう呼ばれるイエスの名を通して宣言しているのです。

そして、「イエス・キリストの系図」から「イエス・キリストの誕生」という神の知恵が語り始められるのであります。

神の知恵、すなわちそれは、神の働きが始められるのであります。

この神の働きは、明らかに現わされているのでありますが、後に、主イエスが成人となられ福音を宣べ伝え始められ、弟子のあるひとりが、主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」と言った時、主イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と命じられました。

そしてその時から、主イエスは、苦しみを受けられ、十字架の死につかれ、復活されることを主イエスはお語りになられました。

それは、ご自分がメシアであることが弟子たちに伝えられ、受け入れられたことにより、さらにその救い主のお働きを確かにされるためであったと言えます。

イエスはキリスト、すなわち、メシアであるというのが、マタイによる福音書の力強く語ろうとしているところでありますが、その誕生は、人間の目から見ると不思議に見えます。

マリアとヨセフは婚約していたが、まだ一緒になる前に身ごもっていることが明らかになったと、当時のユダヤの状況からすると、大きな問題に発展する可能性について、マタイ福音書は触れています。

身ごもっていることが明らかになったと述べているのでありますが、当時のユダヤでは「明らかになった」時点で、マリアに大きな痛手を与えることになるということを意味し、また、ヨセフはその問題の大きさをよく分かってもいたのでありました。

しかし、マタイによる福音書は、そのような人間側の諸事情によって動かされることはまったくないかのように、「身ごもっていることが明らかになった」と記し、それは何よりも、聖なる霊、聖霊によって、と語るのであります。

聖霊によって、神によって、神のご支配が現実となったというのであります。

しかし、そのことに人は耳を傾けず、聞こうともしないかもしれません。

この世の力で、この世の人の裁きで事の始末をつけようとするかもしれません。

しかし、19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

ヨセフにとっては理解しがたいことが起こっているというよりは、今、目の前で起きていることはこの世において、どういうことなのかをよく理解しているがゆえに、ヨセフは苦しみます。

マリアの身を思い、悲しみ、悩みます。

そして、その心がギリギリのところで決めるのであります。

マリアとひそかに縁を切ることによって、マリアを守ろうと決心するのです。

この世の諸々の力からこの人を守ろうと決断するのであります。

マタイによる福音書は、ヨセフのことを一言付け加えるようにしてこう述べています。「ヨセフは正しい人であったので」。

何が正しく、何がそうでないのか、それはその時々によって判断が分かれるということがこの世ではあるかもしれません。

しかし、ヨセフはマリアを守るということを決心し、それは自分のできることが最善の仕方だと考えたのでありました。

しかし、20節「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』

この世の中で苦悩するひとりの人に、主の天使が近づき現れて、伝えます。

天使は、ヨセフを呼ぶのに「ダビデの子ヨセフ」と言います。

マタイによる福音書1章の系図によると、ヨセフはヤコブという名の人物の子であると言えますが、主の天使は、「ダビデの子ヨセフ」と呼びます。

それは、ユダヤの人々にとって、あの国を失うという歴史的な深く大きな悲しみの出来事、バビロン捕囚より前の時代に、主なる神のみ前を歩んだあのダビデ王の子孫からメシア、救い主が現れ、我々は勝利を与えられるという強い希望を表しています。

ダビデ王の子孫から、それは、主なる神がダビデ自身に、「あなたの王国の王座をとこしえに堅く据える」と告げたことでもありました。

その「ダビデの子」と主の天使は呼ぶのです。

そして主の天使は、ヨセフに「恐れるな」と言います。

ヨセフは、思いをめぐらし、考えを巡らし、また、正しい人だったと言われるほどに、それにふさわしい決心をしたように見えるのですが、主の遣わされた天使は、ここぞという大切なのは、今、この時だ、という場面で、「あなたの決心は恐れから来ている」と告げるのです。

主の天使は、人の「恐れ」からくる判断によって決心するのではなく、その「恐れ」を手放したところから始めることを促すのです。

そしてそれは、聖霊によって、ということであり、聖なる神の霊によりこの出来事は起こり、導かれているということを知り、受け入れることであります。

それは、わたしたちの人生がそうである通り、いくら考えても分からないことであるかもしれません。

しかし、主の天使が「恐れず受け入れなさい」と言います。

そして、伝えます。21節「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

主の天使は、神のご支配の現実を告げます。

マリアは男の子を産む、それは、救い主がお生まれになるということを意味していました。

聖霊によってであります。そしてこの世にあって、「恐れる」ヨセフに、この主の天使の声は身に応えたのではないでしょうか。

自分は、「恐れから大変なことをしようとしてしまっていた」ということであります。

向きが違っていたのです。そして、的を外してしまっていたのです。

しかし、この産まれて来る子はイエスと名付けられ、人々の罪を赦し、人々を罪から救うこととなったのです。

古代の詩人も歌いました。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。」

そしてマタイによる福音書はこう語ります。1章22節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

マタイ福音書は、メシアが到来する、救い主が来られる、そのすべてのことは、主なる神が預言者を通して、すでに告げられ、知らされていたことだ、と記しています。

神の御言葉の告知は、すでになされて、そのことは実現したのです。

23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この御名は「神は我々と共におられる」という意味である。

預言者イザヤを通して語られた主の御言葉です。

ヨセフは、神のみ言葉に基づいて、自己の人生を大胆に生きました。

神の約束に信頼し、神の示してくださったそのご意思に従ったのでありました。

クリスマスの出来事は、神の御意志に従った人々の出来事を語っています。

そして、わたしたちもそのことを願っています。

主の傍にいることを、わたしたちは願っています。

ヨセフはマリアと共に、この世の出来事に周辺を取り囲まれ、包囲されていましたが、そのヨセフとマリアを、神の大いなる愛の力が包みこんだのです。

その神の愛はすべての人を救うためであって、神は我々と共におられるのだということをその人の中に現わされます。

そして今、危機のただ中においてさえ、希望があり、立ち返って、静かにしているならば救われ、安らかに信頼していることにこそ力があることを知るのです。

この希望は成就し、主イエス・キリストを信じる信仰により確立したのです。

クリスマスおめでとうございます。

何がどうあろうと、神はわたしたちと共におられます。