「使者が遣わされ」 マタイによる福音書11章2節~19節

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と主イエス・キリストは、旧約聖書を引用されお語りになられました。

待降節、アドベントの期節、わたしたちは「待つ」ことの大切さを改めて思い起こしています。そしてその「待つ」ことの中には、すでに、その時が来たということが含まれていると言えます。

「待つ」ということの中で、わたしたちはその時を思い、その事を思っているということでもあり、それはすでに新しい時が始まっている兆しと言えます。

わたしたちの救い主イエス・キリストは、聖書の福音書によると、町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたと証言されています。

そしてその時、主イエスは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」のでありました。

主イエスは、町や村におられ、癒しのわざを行われ、人々はそのみ業が行われたことを目の前に、驚きの声を上げたのでありますが、福音書が語ろうとし、見ているのは、神の救いが始められたということでありました。

見た目では病が、患いが、癒されたということであり、人間としてその喜びは大きなものでありますが、すでにそこに、神の救いが現され、神のご支配なされるその御手の働きが始められた、その喜びを福音書は告げているのです。

そしてそれに合わせて、主イエスは、人々が弱り果て、打ちひしがれているのに深く心を動かされたのでありました。

救いを求め願っている人々がいるのではありますが、その人たち自身が何に願い、何に求めているのかが分からなくなっているのであります。

しかもそれは、その時、その時で、流れるように変わって行き、只々流されていることにも気がつくこともなく、人々は弱り果て、打ちひしがれているのであります。

それは、人々を強く引きつけ、引き離す、この世の諸々の力があったからでもありました。

しかし、それらのものを越えて、主イエスは、その心を強く痛められながらも、神の救いの業により、人々の心を強め、助けられ、町や村を巡られ、そして、今も、主は生きておられ、わたしたちと共におられます。

今日のマタイによる福音書11章の1節にはこう記されています。「イエスは十二人の弟子に指図を与えると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。」

主イエスは、弟子たちを招き、そしてふさわしいときに、弟子たちに教えになられ、また、ふさわしいときに指図を与えられたのでありました。わたしたちの人生の学びもその通りであるかもしれません。その時には分からなかったことも、靄がかかり、霧に覆われ、はっきりとよくわからないことが人生の途上ではあります。しかし、ふり返り、思い起こしてみると、それがふさわしい時に教えられ、ふさわしい時に指図が与えられていたということがあります。そのように、主イエスは、その人に学びの時を与えておられるのかもしれません。マタイによる福音書は、主イエスが、方々の町で教え、宣教され、行動しておられることを述べています。

主イエスのそのお働きは、人々の間に言い伝えられてきました。そして、マタイ11章2節、3節「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たち送って、尋ねさせた。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方お待たなければなりませんか。」

ここで「ヨハネ」と言っているのは洗礼者ヨハネのことであります。主イエスがヨルダン川で洗礼を授けているヨハネのもとに来られた時、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言うヨハネから、主イエスは洗礼を受けになられました。

主イエスは、それがふさわしいときであり、ふさわしいことであるとされたからです。

その後、洗礼者ヨハネは、ユダヤの領主ヘロデの不法をヘロデに言ったことで捕らえられ、この世の力と支配により、牢に入れられていたのでありました。

そのヨハネは、自分の弟子たちを主イエスのもとに送って尋ねさせたのでありました。

「来るべき方はあなたですか。」

「来るべき方」とヨハネが言っているのは、救い主であり、メシアであると言えます。

ヨハネは、「それともほかの方を待たなければなりませんか」と弟子たちを通して主イエスに尋ねています。

ヨハネの思いは揺れていると言えます。主イエスに対して「あなたなのか、あなたではないのか」と言うのです。

それはそのまま「あなたはメシア、救い主であるのか、そうではないのか」というヨハネの大きく揺れる思いを表しています。

なぜかと言うとヨハネは、牢の中で主イエス・キリストのなさったことを聞いたからでありました。

ヨハネは、メシアであるお方は、この世を厳しくお裁きになられるはずだ、と考えていたのかもしれません。確かにそうであるのかもしれませんが、洗礼者ヨハネの聞いている「キリストのなさったこと」とは、裁くことではなく、病や患いを癒され、悪霊を追い出し、教えておられるということであり、助けを必要としている弱いとされている者のため、救いを運ぶということでありました。

主イエスは、裁きではなく憐みのみ業を行っておられたのでありました。

ここにヨハネの考えていることとの違いがあります。

洗礼者ヨハネは、この世の諸々の力の中にあって、強い裁きを求めていたのであります。

しかしそれにもかかわらず、キリスト・イエスは、この世にあって憐れみのみ業により、神のご支配が近づき、始まっておられることを現されたのでありました。

マタイ11章4節から6節「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

「見え」「歩き」「清くなり」「聞こえ」「生き返り」「告げ知らされている」というのは、肉体的な回復ということのみを言っているのではなく、精神的、内面的な回復をも主イエス・キリストはお語りになっておられ、そしてさらに、そうで「あった」というだけではなく、そう「なる」ということをもお語りになっておられるのです。

それを「待つ」ということには、耐え忍ぶことが必要でありますが、救い主キリスト・イエスは、苦難を受けられ、十字架の死につかれ、復活され、人の罪を赦される、その大きな憐みをお与えになられます。

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と語る新約聖書ヤコブの手紙5章7節から11節にはこうあります。「兄弟たち、主が来られるまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったか知っています。主は慈しみ深く、憐みに満ちた方だからです。」

忍耐するとは、不幸や困難の中でも不平を鳴らさないということです。そして、心静かに待つということです。

その姿は、地が雨を受けるまで忍耐して実りを待ち望む農夫のようであります。そしてさらに、その忍耐は、主の名によって語った預言者においても現わされたのでありました。

主が来られることを教え、耐え抜いた人々を幸いと云うのを思い起こすように勧めているのです。

これに「つまずかない人は幸いである」と主イエスはおっしゃいます。

マタイによる福音書11章7節から10節「洗礼者ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。」「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」

主イエスは、旧約聖書の律法書の出エジプト記、そして、預言書のイザヤ書とマラキ書からお語りになられます。

それは、それぞれ時代的にも環境的にも過去の異なる状況で人々に語られた、主なる神の御言葉でありますが、主イエスは、今この時、神がお語りになっておられることとしておっしゃいます。

神の御言葉はとこしえに立つからです。

主イエスは、「あなた方は何を見ているのか」とおっしゃいます。「荒れ野にその風景を見に行ったのか」また「人の風貌を見に行ったのか」「あなたは一体何を見ているのか」とおっしゃるのです。

そして、主イエスは、洗礼者ヨハネは預言者であり、預言者以上の者であるとおっしゃいます。

ヨハネは主イエス・キリストより先に使者として遣わされた者であり、主イエス・キリストの前に道を準備する者であります。

主イエスはおっしゃいます。11節「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

ヨハネは、神の御言葉を告知する預言者であると同時に、旧約聖書に預言されたそのものであるので偉大な者である、と主イエスはおっしゃいますが、主イエスにより天の国、すなわち神のご支配が始められるので、その天の国の小さな働き人でも、ヨハネより偉大であると、その立場の違い、務めの違い、を主イエスはお語りになられます。

救い主キリスト・イエスが来られたことにより変わったのです。

人を変える力をお持ちになった方が来られたのです。

12節から14節で、主イエスは遣わされたヨハネについて続けて述べます。「彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。

ユダヤではメシアが来られる前に、かつて預言者として活躍したエリヤがやって来ると云われています。

つまり、この世の諸々の力が働き、動いて、天の国が襲われている、そこに使者は送られて、救い主の到来を告げ、その約束がなったことを洗礼者ヨハネは現したのです。

その生き方は、使者として、遣わされた者として、でありました。

この世の人や力と比べてではありません。

ただ遣わされた者として、遣わしたお方を信じ、信頼し、ただそのお方に従ったのです。

主イエスはおっしゃいます。「15節から17節「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかける子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」

人々は自分たちの考えるようにならないと、時を置かずに、「踊ってくれなかった」「悲しんでくれなかった」と身勝手なことを言う、そのような時代だと主イエスはおっしゃいます。

ですから、18節、19節「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」洗礼者ヨハネは、悔い改め、向きを変えるための預言者として遣わされ、主に備え、人の子イエス・キリストは、罪から人を救うためにこの世に送られたのです。

主イエス・キリストが送られ、来られたことにより、天の国、神の支配は、この世で始められ、わたしたちの心の中に天の国、神のご支配、それは、憐れみと慈しみにより静かな希望となって人を変える力を持っています。

そしてわたしたちは、このお方の慈しみのご支配に身を委ね、神の知恵の正しさをキリストに見、キリストに聴くのであります。