「目を覚ましていなさい」 マタイによる福音書24章36節~44節

「だから、目を覚ましていなさい」と主イエス・キリストはお語りになられました。

教会暦では、主イエス・キリストのご降誕、クリスマスを待ち望む期節に入りました。

教会の暦では、一年間の歩みの始まりをこの待降節に置いています。それは、心備えの時から始められるのでありますが、何に対してわたしたちの心を備えるのかと言うと、「救い主の誕生」ということであります。

救い主キリストのご降誕により、神の真理の光がこの闇の世界に輝き出したということであります。

そのことを心から待ち望む、待望する期節を待降節、または、アドベントと云います。アドベントという言葉の意味には「到来」「滞在」「顕現」などをすべて合わせたような意味の出来事を表していると言われます。

「こちらにやって来ること」、「あるところに行って、そこにある期間とどまっていること」、そして「はっきりと現れ、明らかにあらわし示すこと」、これらのことが全て合わさった出来事であり、この世に救い主が誕生したその出来事を記念するときです。

今のわたしたちは、この世に拡がった疫病が終息することを日々待ち望んでいます。多くの場所で、感染を防ぐために日夜、大変なご尽力をされている方々、この時も、様々な困難に直面されておられる方々を覚え、伝えられている知らせを受けとめ、日々歩みを進めています。

誰もが人間らしく生きたいと望んでいるとあらためて思い巡らすのは、この世の混沌のさ中にあるからなのかもしれません。しかし、この世界の混沌のさ中にあって、主の年2020年の待降節、救い主イエス・キリストが、「こちらにやって来られ」「この場所に来られ、とどまってくださり」そして「はっきりと現れ、明らかにあらわし示される」この出来事を、わたしたちは、この主の日に、主の御言葉を祝うのであります。

そして、主なる神は、わたしたちに道を示してくださる、わたしたちはその道を歩もう、主の光の中を歩もう、と祈り願い、心備えをするのであります。

主なる神は、主をたずね求める者を見出され、救いの恵みをお与えくださいます。かつて、古代の詩人が、わたしたちの「心」を城の門、城門にたとえるようにして、こう歌いました。詩編24編7節~10節

「城門よ、頭を上げよ

とこしえの門よ、身を起こせ。

栄光に輝く王が来られる。

栄光に輝く王とは誰か。

強く雄々しく戦われる主。

城門よ、頭を上げよ

とこしえの門よ、身を起こせ。

栄光に輝く王が来られる。

栄光に輝く王とは誰か。

万軍の主、主こそ栄光に輝く王。」

わたしたちはうつむいた頭を上げ、身を起こし、万軍の主、栄光に輝く王が来られることを日々、喜びをもってお受けするのです。

確かにわたしたちのこの世は、混沌とし、不確かで、はっきりせず、疲れ果て、つまづき倒れてしまうこともあるかもしれません。

しかし、その中にこそ栄光に輝く主が来られるのです。このお方は、人々の無理解の中にあって、また、人々の妬みと憎しみから生じる苦しみをも知っておられます。

そしてその人々の思いを、愛とゆるしによって受けとめられ、人々の罪の赦しのため、苦難を受けられ、十字架の死につかれたのであります。

しかし、主は栄光の主であり、神の愛とゆるしの大いなることを現され、復活させられます。

栄光は、このお方に輝いたのであります。そして、わたしたちは、この栄光に輝く主の光を受けて生きることができるのであります。

この光は、冷たい空気の中でも、わたしたちの心をあたため、心にあかりを燈してくださいます。

今日の聖書、新約聖書マタイによる福音書24章36節のひとつ前、35節で、主イエス・キリストはこのようにおっしゃいました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

主イエスは、滅びるものと、滅びないものとを分けてお示しになられます。

天地は滅びないものだ、と考え思うことができます。それほどまでに天と地は広く、大きく、力強いものだ、と思うことができるかもしれません。

しかし、主イエスは、「天地は滅びる」とおっしゃいます。わたしたちの見ているこの世の物質的なもの、表面的なものはなくなると言ってよいかもしれません。滅びるのです。しかし、そうだから絶望的だと言うのではありません。

そうではなく、死と滅びの絶望さえも突き抜けて、主イエス・キリストがこちらに来られるのです。

それは、「わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃるその御言葉こそが、消えることも、無くなることもないものを明らかにあらわし示すことです。

人は、一人であれば絶望的であるかもしれません。しかし、一人ではないのです。光の中を一人で歩くのではありません。闇の中をこのお方と歩くのであります。

主イエス・キリストは友となって歩んでくださるのです。

一人であっては変わらなかったものが、このお方と共にあって変わり、滅びるものが、滅びないものへと生まれ変わるのであります。

「つらいんだ」、「寂しいんだ」、そしてまた「悲しいんだ」という本当の気持ちを伝えることのできるお方と一緒にあるということは、この上ない喜びです。

どこまでも歩いて行けます。

壁に当たっても乗り越えて行けます。

なぜなら、「わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃるお方は、今も生きておられるからです。

死と滅びに勝利され、その栄光の輝きのうちにわたしたちを招き入れてくださるのです。

滅びることのない方が、消えることのない希望です。そして、わたしたちは、このお方を通し、神の熱情を知るのです。

その熱情は、救いとなって現わされたのです。

そして、主イエス・キリストは、今日、待降節の始まりにおいて、救いの日、救いの時をこのようにお語りになられるのであります。

マタイによる福音書24章36節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」

主イエスは、父なる神の熱情をご存じでありました。独り子をこの世にお送りになられるほどのその熱情、その父の愛を、ご存じでありました。

しかし、主イエスは「知らない」とおっしゃいます。その日、その時は、自分も「知らない」とおっしゃいます。

誰も知らされていないとおっしゃる、「その日、その時」とは、救い主が再び来られる時であり、それが、救いの日、救いの時であります。

主イエスは、ご自分がご存じであることと、ご存じでないことを、明確にされます。

そして、父なる神だけがご存じであるということを尊ばれ、その日、その時を知ろうとすることもなされません。

父なる神をことごとく信頼しておられたからです。

このお方に、父なる神に、父なる神に委ねられたものとして、委ねた方を信じ、頼りにされたのであります。

ですから、主イエス・キリストを見た者は、父なる神を見、主イエス・キリストに聞いたものは、神に聞いた、と言えるそれほどまでに、父と子は深く強い信頼関係で結ばれているのであります。

そして、主イエスはおっしゃいます。37節「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」

主イエスは、旧約聖書の創世記6章から始まるノアの洪水物語からお語りになられます。

主イエスのおっしゃる「人の子」というのはご自身のことです。

その「人の子が来る」というのは、救い主としてこの地上を歩まれたその主イエス・キリストが来られる、それは、同じありさまで来られるということです。

そしてそれは、このような時代と「同じだから」、すなわち「ノアの時と同じだから」だとおっしゃるのです。

ノアは、神に従う無垢な人で、神と共に歩む、そのような人物でしたが、その時代は、創世記6章5節6節「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」という時代であり、ノアはその世代の中で、すべて神が命じられた通りに木の箱舟を造ります。

主イエスは、マタイによる福音書24章38節39節でおっしゃいます。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子がくる場合も、このようである。」

ノアの時代、当時もその後も、地上にはネフィリムという存在がいました。ネフィリムとは、もともとヘブライ語で「堕落した者」の意味をとされていますが、ギリシア語では「巨人」と訳されている名称で、天使と人間の間に生まれた存在でありますが、武力を持って狂暴をきわめ、この世の罪を増し加え、大洪水を招く状況を作った者たちと云われています。

しかし、主イエスがおっしゃる通り、人は洪水が襲ってくるまで「何も気がつかなかった」のでありました。

主イエス・キリストが来られる場合もこのようであり、40節、44節「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼を引いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」

「二人のうちの一人が」と主イエスはおっしゃいます。そのようにことが起こるというのですが、人は、その時まで「何も気がつかない」とおっしゃるのです。

だから、42節「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたは分からないからである。」

「目を覚ます」とは、この世にあって、救い主を思い、祈ることと言えます。

自分のため、家族のため、友のため、社会のため、この世のために、声に出さずとも祈ることであります。主イエス・キリストの御名による務めであります。

わたしたちは、さまざまな困難の中で、その務めに気づき、目を覚まします。

主イエスはおっしゃいます。43節「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。」

主は、あなたの人生の夜、そこから導き出されるために、寝ずの番をされるのであります。滅ぼす者が巡り、家に入ってあなたを撃つことがないためにであります。

夜が明け、明けの明星がわたしたちの心の中に昇るときまで、暗いところに輝くともし火として、どうか主のみことばに心を留めておくことができるように主イエスはおっしゃいます。

44節「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

「思いがけない時に」でありますが、それは、主イエス・キリストの栄光の輝きのもと、大きな喜びの時です。救い主が、わたしたちをすべて受け入れてくださる時です。

そして、今この時、わたしたちは、いつもいつまでも枯れることも萎むことも、そして、滅びることのない神の御言葉をお語りになられる、復活の主イエス・キリストと、とこしえにいることになり、わたしたちの魂は、このとこしえに立つ主の御言葉により、目覚めるのであります。

これこそが、わたしたちの希望であります。