「ここにわたしはいます」 マタイによる福音書25章31節~40節

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と「王は答える」、主イエス・キリストはおっしゃいました。

今日、この日は、歴史的なキリスト教会の暦では、この一年間の最後の主日とされています。新しい時を迎えるにあたり、ご降誕を特別にお祝いする日の前、再びキリスト・イエスが来られることを思い起こす時であります。

そしてそのことは、救い主イエスは、今も、この時、生きておられるということをも現わしているのです。

また、わたしたちキリスト教会の教会暦では、そのようにキリストが来られるそのことを待ち望む期節を前に、教会行事として収穫感謝を祝う時でもあります。

神お与えくださった恵みを共に分かち合い、共に感謝する、その思いを神にお献げすること、そしてまた、これまで共に汗を流し、涙を流し、喜びも悲しみも共にして来た親しく交わる仲間と一緒に、主の御前に祝うその時でもあります。

主イエスは、この地上を歩まれ、人々の罪の赦しのために十字架の死にかけられて行く、その前に「最後の晩餐」とも言われるその席で、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とおっしゃって、豊かな実りを約束してくださいました。そしてその実とは、愛と平和でありました。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と、主イエスはおっしゃいました。そのことは、主イエスの弟子たちにお語りなられたのではありますが、今、この時、一緒に神の御言葉に聴くわたしたちに、主イエス・キリストはお語りなっておられると言えます。

それは、この世の中で、愛が壊され、平和が壊され、平安を失ってしまうかのような災いの中にあっても、わたしたちを呼び寄せ「友よ」と呼んでくださり、苦難と十字架をになってくださった主イエスは、生きておられるからです。

「友よ、今ここにわたしはいる」と。

主イエスは、悲しみも痛みも知っているお方として、冷え冷えとしたそのただ中にいる友に語りかけてくださっておられるのです。

そして、主イエスは、暗闇に光が訪れ、悲しみが終わり喜びに変わる、その時が来ることをお語りになられました。

本日の聖書は、マタイによる福音書25章の終わりにあたりますが、その前の24章の始めから、「終わり」が来るそのことを主イエスはお語りになっておられます。

マタイによる福音書24章1節、2節では、当時のエルサレム神殿の崩壊を予告するというかたちで主イエスは語り始められるのですが、こうあります。

「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」

主イエスが弟子たちと一緒に神殿の中、その境内をあとにして出て行かれます。

すると、弟子たちはさらに主イエスに近づいて、何かを言ったのでありますが、マタイによる福音書には記されていません。ただ彼らは、大きく立派で美しいエルサレム神殿の建物を指さしたのでありました。

神殿の境内を出たあとのことでしたので、弟子たちは、振り向いて神殿を見て、その建物の立派で大きなことに驚きの声を上げながら指をさしたのではないでしょうか。

この世の誰もが、その立派さを見上げるのではないだろうかと、弟子たちは指さしたのでありました。

しかし、主イエスは、弟子たちの思いとは異なることを語りになられました。

「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

主イエスは弟子たちの見て指しているものとは違うものを見ていました。

それは、「終わり」ということでありました。

主イエスは、大きく立派な神殿の崩壊ということを予告され、「終わり」が来ることを語りになられました。

そしてそれは、わたしたちが見ているようには、主イエスはご覧になっておられないということをも意味しています。「終わり」は、「始まり」であるからです。

人が「終わり」に見るものと、主イエスが「終わり」に見られるものとは違うのであります。人は、恐れと不安を見ますが、主イエスは、救いと希望を見ておられます。

その日、その時は、誰にも分からず、父なる神だけがご存知です。ですから、それだからこそ、救い主であられる主イエスは、わたしたちに「目を覚ましているように」と命じられます。それは、救いの道に導くためです。

そして今日の聖書箇所、マタイによる福音書25章31節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを従えて来るとき、その栄光の座に着く。」と主イエスはおっしゃいます。

人の目から「終わり」のときを見るのと、また、考えるのと、全く異なる光景を主イエスはお語りになられます。

「人の子」とは、この地上を歩まれ、まことの人として歩まれた主イエス・キリストであり、まことの人でありますが、まことの神である主イエス・キリストです。

このお方が来られるのです。しかも、喜びと輝きにあふれつつまれ、天の御使いたちを従え、引き連れて、来られるのです。

天使たちは、わたしたちを助けるために連れて来られるのです。そしてキリストは、その栄光、輝かしい誉れの座に着かれます。

キリスト・イエスは、その輝くばかりの喜びの座においてお語りになられ、その座からの御言葉には権威があり、また、力があります。

キリスト・イエスがその座にあって、その御力を十分に発揮されるのです。

そして32節、33節、「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

主は、自分の羊が散り散りになっている時に、羊飼いが探すように自分の羊を探し、その場所から救い出されるのです。そして良い牧草地で彼らを養い憩わせるのであります。

主は、失われた者を訪ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱くなったものを強くされ、公平を持って養われるのです。

そのために、羊を右に、山羊を左に置いて裁かれるのであります。

それは、羊飼いが群れを救い、二度と略奪にさらされることのないようにするためであります。

主は、その愛を平安のためにお与えになられ、用いられるのであります。

そこで、34節「王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」

ここで、主イエスのお語りになられる言葉が変わります。「人の子は」から「王は」にかわるのであります。「人の子」キリスト・イエスは、「王」であるということであります。

ユダヤにおいては、サウル、ダビデ、ソロモンと続いて行く王。その中で、王の中の王と呼ばれたダビデ王。そして、時代が繋がれて行き、ダビデの子ヨセフとその妻マリアの間にお生まれになった人の子イエス・キリストは、王の王であります。

そして、その王権をお持ちになっておられるお方は、公平に分けて裁かれ、右側にいる人たちにおっしゃるのです。

「父なる神から祝福された人たち」王の王、主の主が探し救い出された人々。

王の王は、父なる神がお送りくださったお方であるので、その任務を果たされ、祝福をお与えくださり、全てをよきことへとかえてくださるのです。

たとえ、荒れ野においても安んじ、平安の中に憩い、眠ることができるようにしてくださり、祝福で囲んでくださるのです。また、わたしたちのそれぞれの人生の季節に従って、雨を降らせ、それは祝福の雨となり、わたしたちの生涯という土地を潤します。

そして、その地に植えられた木は、実を結び、地は産物を生じ、その生じた愛と平和により与えられた所に安んじていることができるのです。

父なる神に祝福された人たちには、主キリスト・イエスが共におられ、王としてお守りくださるのです。そして、その王の国は、天地創造の時から用意されているというのです。

その国を受け継ぎなさい、とおっしゃるのです。

わたしたちが、加わり、受け継ぎ、相続するのは、この世のはじめから用意されているものなのです。

そしてそれは、35節、36節、王は言います。「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

だから、あなたがたは祝福されているのだとおっしゃるのです。そして、飢え、渇き、居場所がなく、貧しく着るものもなく、病の心配、この世の力への恐れ、それらの中に「わたしが」すなわち「王が」おられたというのです。

すると、37節から39節、「右側にいる人たち」それは「正しい人たち」が王に答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見て宿お貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」

正しい人たちと言われている人々は、ある者は右に、ある者は左に、と分けられているのも気がつかないのです。「人の子」がそのように置かれたのも気がついていないのかもしれません。

しかし、虐げられ、飢え、貧しく、小さく、また、弱くされている人に、ただそのことのために心を向け、助けの手を伸べるなら、旧約聖書イザヤ書58章11節にこうあります。「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。」

主が常に支えてくださるのです。

その向かう道を示し導いてくださるのです。

隠れたところで主はあなたを求め、それは、すぐ身近なところで、小さなところで、そして、弱いところで、王がお姿をおかえになっておられるのです。王が、主が、あなたを「わが喜び」としてくださるのです。

そこでマタイによる福音書25章40節、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

神の祝福から最も離れているかのように人間の目には見えるその人、その出来事の中に、王の王、主の主であられるキリスト・イエスがおられます。

このお方は、苦しみを通られ、悲しみと痛みの中に十字架の死につかれますが、復活させられます。

「ここにわたしはいます」。「あなたはどこにいる」と問いかけられます。

王の王、主の主の道を知ろうと望むことができますように。

神に近くあることを望むことができますように。

主の日をそれぞれの場所においても、喜びの日と呼び、聖なる日を尊ぶべき日と呼び、ひかえ、慎むこの時、わたしたちは、主を喜びとします。

主よ、あなたはここにおられ、この最も小さい者の一人にしてくれたのです。