「愛と祈り」 マタイによる福音書5章43節~48節

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

主イエス・キリストは、その弟子たちを呼び集められてそう語りになられました。

わたしたちの教会は、町の中にあって会堂も町の中に建てられておりますが、一般的に教会を心の中に思い浮かべると、その教会は丘の上にあるということがあるかもしれません。丘の上の教会へ登る石畳を、与えられた春、夏、秋、冬の季節、教会会堂に登っていくということを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

そして今日、わたしたちに与えられた聖書は、新約聖書のマタイによる福音書5章でありますが、その5章1節にこうあります。「イエスは、この群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。

ここでの「山」という言葉は、新約聖書の原語では、「丘」という意味をも持った言葉です。そのことから、聖書で「山に」と訳されているところは、「丘に」と言うことができ、主イエスは、丘に登られたと申し上げることができます。

主イエスが、丘の上で神の御言葉を語られた、そのことを心の中に思い浮かべると、神の御言葉を絶えず語り続ける教会は、「丘の上の教会」と言うことができるかもしれません。

そして、この時、どの地域にあっても変わることなく、主イエスは、それぞれのその「丘」で、親しくお語りになっておられるのです。一人ひとりの春、夏、秋、冬において。

マタイによる福音書5章から始まる山上の説教は、このように丘の上の説教ということができますが、主イエスは、まず腰を下ろされ、弟子たちにお語りになられたのでありました。腰を下ろされたということは、そのお身体の姿勢について述べていると言えますが、ユダヤでは、教師が教えるその教育的行為を表していると言えます。主イエスは、近寄ってきた者たち、すなわち、弟子たちに、教師が教えるように教え始められたのでありました。

それは、主イエス・キリストの教えとして福音書に記されている通り、キリストの大切な教えであり、それ故に山上の説教と云われるのであります。

主イエスは、閉じられたものを開くようにして、教えられたのです。そして先ず、マタイによる福音書では、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と主イエスはお語り始められました。

これを丘の上で聞いた人々は、驚いたのではないでしょうか。

というのは当時、また、現在においても、それは幸いだとは思えないことを、主イエスは、幸いだと受け入れ、肯定しておられるからです。そしてさらに、それだけではなく、「天の国は、その人たちのものである」とおっしゃって、受け入れられず、否定さえされているこの人々は、神から全く認められている、全てを受け止め、受け入れてくださっていることに、人々は驚いたのです。

自分たちの生きるこの世で、言われていることとは異なることを主イエスがおっしゃったからでありました。

マタイによる福音書では、「心の貧しい人々」と記しているのを、ルカによる福音書では、「貧しい人々は、幸いである」と記して主イエスがお語りになられたことに、人々の心が騒ぐようであり、また、はっと目が覚めることでもあったのです。

貧しいということを、絶対的によくないとしている心の囲いを、主は開かれたのであります。そしてそれは、新しい生き方へと人々を導くこととなったのであります。

主イエスが、「幸いである」とおっしゃるその「幸い」に、そしてまた、主イエスのおっしゃる「天の国、すなわち神の国」は、「わたしたちのものである」というよろこび、歓喜に生きる、その扉を開くこの教えは、今もこの世にあって、灯であり、光であり、命の道であるのです。

そして、この主イエスの教えを、丘の上で聞いた人々の心の底の方には、旧約聖書の箴言の御言葉があったのではないでしょうか。箴言は、あのソロモン王の言葉でありますが、「これは知恵と諭しをわきまえ、分別のある言葉を理解するため、諭しを受け入れて正義と裁きと公平に目覚めるため」と箴言の始まりに記されています。

そしてその箴言15章15節から17節には、次のような光が灯され、命の道が記されています。

箴言15章15節から17節「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」

丘の上で、主イエスの御言葉を聞いた人々の中にはおそらくではありますが、この世にあって、旧約聖書で親しんだこの箴言の言葉が心の底にあったのではないでしょうか。

そして、それでも、「災いはあってはならない」「財宝はなければならない」「肥えた肉を食さなければならない」と思っていたかもしれません。そこに主イエスが、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」とおっしゃったのです。

人々は、はっとしたのです。

そして「そうだ、心が朗らかであること。主のみを畏れること。そして、愛し合うことこそが、このわたしたちの人生に必要なことであったのだ。」

「それはまるで親しく交わる、静かで落ち着いてはいるけれど、明るく、楽しい宴会のようだ」という真の喜びを、再び見出し、心の扉が開かれたのです。

そしてまた、旧約聖書のコヘレトの言葉というところにも、その2章24節というところにも、このような御言葉があります。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。」

労苦によって得たもので心を楽しませるより良いことはない、と言うのです。そしてそれは、神の御手から出て、神よりいただくものだ、と言うのです。

新約聖書マタイによる福音書、丘の上で人々にお語りになられる主イエスの御言葉は、人々が、忘れかけ、また、忘却の彼方にあり、下の方に置かれた小さな弱くなった灯火を、再び燭台の上に置くことであったのです。

あなたの魂を、はっきりと照らし、闇に浮き上がらせる神の光は、あなたにも届いているのです。

主イエスは、丘の上で弟子たちにその大切なことをお教えになられ、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いだ」ということを覚えておくようにと、主イエスはおっしゃるのです。

それは、災いの時、失う時、そして、苦しみと悲しみの時に、光り輝くものを見失うことのないようにという主イエス・キリストの愛でありました。

喜びに帰ることができるように、大いなる喜びに必ず辿り着くことができるようにであります。そして、この主イエスの御言葉が、わたしたちの歩む道の光となり、わたしたちの歩みを絶えず照らす灯火となるよう、主イエスは「心の貧しさ」そして「幸い」と、相反することを、輝きを増すようにおっしゃって、「敵を愛しなさい」とお語りになるのです。

マタイによる福音書5章43節、44節「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

主イエスは、人々がこの世で聞いていることに関心を向けられています。

「あなたがたも聞いている通り」とおっしゃいます。

そしてその内容はというと、「隣人を愛し、敵を憎め」ということです。ユダヤの人々にとって、また当時の宗教的指導者たちにとって、「隣人」とは、同じユダヤの人々のことであって、そうではない人々とは、はっきりと区別する傾向が強く、そのことに乗じて、ユダヤでない人々を「敵」とすることがありました。そして、その意識は、ユダヤの人々の間に広がっていたのでありました。

ここで「隣人」というのは、当時のユダヤの人々のことであり、「敵」と言われているのは、ユダヤの人々ではないということでありました。

そして主イエスは、人々はそう「命じられている」とおっしゃるのです。

「しかし」、と主イエスはお語りになります。

「敵を愛すること」そして「自分を迫害する者のために祈ること」を「わたしは言っておく」と主イエスは、弟子たちにおっしゃいます。

主イエスは、反対に立つことを取り上げられます。敵と隣人、そして、憎しみと愛、そのように反対に立つものを主イエスは、天を仰いで、父なる神に賛美と感謝の祈りを唱えるように御手に取られ、そして、裂いて手渡されるのであります。

「愛しなさい」そして、「祈りなさい」という御言葉を、弟子たちにお渡しになられるのであります。そして、そのお裂きなられ、渡されたものとは、主イエス・キリストご自身でありました。

主は苦しみを受けられ、十字架の死につかれ、その身も心も裂かれましたが、父なる神により復活させられます。

そのことをすでに主イエス・キリストは、ご存知であられたので、この世の苦しみ、悲しみの中にあって、おっしゃったのです。「愛しなさい」そして、「祈りなさい」。

そしてそれは、何のためかと言うと、マタイによる福音書5章45節「あなたがたの天の父の子なるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

主イエス・キリストの愛と祈りは、あなたに向けられています。

そしてそれは、天の国をお与えになられる天の父なる神の子となるためであります。

そしてさらに、この天の父なる神は、その光を際立てられます。

相反するもの、互いに矛盾するもの、対立し、また、論理破綻しているとさえ言えるものを、主イエスは取り上げられます。悪人と善人、正しい者と正しくない者、そのすべての人々に、父なる神は、太陽を昇らせ、雨を降らせ、愛と祈りを注いでおられるということであります。

これは、人の判断によるのではなく、また、人がそれに値するものだからでもありません。

この世の人がつくり上げた、この世の霧を越えて、純粋な、混じりけのない愛と祈りが、あなたに輝いているのです。

主イエスは、続けてお語りになられ46節、47節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。」

主イエスはおっしゃいます。人の愛を、神の愛は越えて行く。

主イエスは、あえて、徴税人や異邦人という人々上げられ、ユダヤの人々、その宗教的指導者たちが罪人とさえ言っていた人々も、ユダヤの人々、「あなた方と同じことをしているではないか」とおっしゃいます。

すなわち、主イエス・キリストにとって、全ての人々が、隣人であると言えます。全ての人が、父なる神の寛容さ、そして、全ての人が、父なる神の親切さに招かれ、愛され、祈られているということです。

だから48節、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

「完全な者になりなさい」とおっしゃる「完全」とは、天の父なる神と同じになるということではありません。足りないところのないことでも、欠点のないことでもありません。

どんなに父なる神の完全から遠くても、神ご自身がわたしたちにを示しくださっている光に似かよう者、あるいは、近いものをおっしゃっておられるのです。

そこに、神の完全であるあわれみがあり、神の愛と祈りがあるからです。

愛され、祈られている者よ、

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたも深いあわれみにとどまりなさい。