「内側をきれいに」 マタイによる福音書23章25節~36節

「ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。」と、主イエス・キリストはお語りになられました。しかしそれは、群集と弟子たちに向かってお話しになられたのでありましたが、紀元一世紀当時ユダヤの宗教的指導者たちについて、主イエスはお語りになられ、それは今もわたしたちに語られているのであります。

主イエス・キリストは今も生きておられるからです。

わたしたちのもとに届けられました聖書、新約聖書の福音書は、主イエス・キリストのこの世で、この地上を歩まれたそのご生涯を書き記し伝えていますが、その四つの福音書の中で、マタイによる福音書は、ユダヤの人々に向けて著された福音書と伝えられ、著者であるマタイは、ユダヤ人キリスト者たちに向けて記されたと云われています。

このマタイという人物は、主イエスの弟子として呼び出される前は、もともと徴税人でありました。マタイ自身がその福音書の9章9節で、主イエスに招かれた時のことをこう記しています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

そしてそのすぐ前には、主イエスは、中風の人を癒されるという出来事があったことをマタイは記しています。

そしてその時、その場に、ファリサイ派の律法学者がいて、心の中で主イエスに対して「この男は、神を冒涜している」と思う者がいました。それは、主イエスが中風の人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」とおっしゃったからでありました。

律法学者たちはそのことに反発したのでありました。

それは、神を敬うということよりは、律法学者である自分たちの支配を乱し、崩し、壊すものだと思ったからでありました。

主イエスはその時こうおっしゃいました。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」そして、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と主イエスはおっしゃって、中風の人を起き上がらせ、いやされました。その人は元気になり、罪は赦されたのでありました。

そして、群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」とマタイは主イエスに神から与えられた権威、力を記し、その後すぐに、マタイ自身が主イエスに従っていった次第を記すのです。

そして、当時ローマの支配下にあったユダヤにおいて、徴税人という人たちは、ユダヤの人々から大変嫌われておりましたが、その徴税人であったマタイたちと主イエスが共に食事の席についているのをファリサイ派の人々が見て言いました。

「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」すると、主イエスはこうお応えになられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マタイは、この世で真の憐れみということを知ったのでありました。

主イエスは、なぜマタイを弟子として招かれたのかは分かりません。通りがかりに収税所に座って、ユダヤの人々から嫌われていたと云われておりますが、いつもの場所でいつものように仕事をしていたマタイを、主イエスは「見かけられた」ということぐらいしか分かりません。

しかしそこには、主イエス・キリストの憐れみの瞳があり、そしてマタイの心には、取り立て、駆り立て、傷つけ、傷つくことではない、真の憐れみを望み願う眼差しがあることを、主イエスは「見かけられた」のではないでしょうか。

マタイは還るべき権威へと招かれ、その憐れみと愛を知ったのであります。

その後、主イエスは、エルサレムへと道を進んで行かれ、エルサレム神殿の境内で人々に教えられたのでありますが、それはとても危険なことでもありました。当時、すでに宗教的指導者たちは、主イエスに対する憎しみと妬みを心の中に燃やしていたのでありました。彼らの人々に対する敬意についての観念、人々を支配しようという彼らの考え方は、主イエスに対する憎しみと妬み、そして、敵意という感情となっていたのでありました。

そのとどまることを知らないかのような感情は、彼ら自身をもすっかり飲み込んで行き、主イエスに対する殺意による計画にまで発展していたからであります。

主イエスは、そのことをあらかじめ既にご存知でありました。そして、苦難を受けられ、十字架の死につかれ、復活させられることにより、罪の赦しは成し遂げられる、その使命を主イエスは救い主として与えられていたのでありました。

人々の強く激しい心の闇と、人々の罪の中で、主イエス・キリストはおっしゃったのでありました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」

もともと徴税人であったマタイ。主イエスに見出され、招かれ、主イエスの弟子となり従って行ったマタイは、この主イエスの語られる言葉に、とても強烈な印象を受けたのではないでしょうか。

今日のマタイによる福音書23章には、繰り返し7回、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」とくりかえし主イエスの言葉を記しています。

それは、マタイによる福音書5章にあるあの主イエスの山上の説教、主イエスが「幸いである」とくりかえしお語りになっておられるそのお姿からはかけ離れているかのようであり、また、それだからこそ、主イエスの伝えようとする力、「救い出すために」という圧倒的な熱情、そこに真の権威をマタイは見つめていたのであります。その力により、マタイの心はあかあかと燃える灯火となり、彼の集め、纏め上げた記録は、この世界で読まれ、開かれる新約聖書の最初の書となったのであります。そして、主イエスの炎のような言葉を刻みます。

今日の聖書、マタイによる福音書23章25節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側きれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」

主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々の心の中で考えていることを知っておられました。

それは、人間として、また、神としてであり、救い主として、でありました。杯や皿はきれいに取り扱い、きれいな器として手に取るものではありますが、人の目にすぐとまる表面だけをきれいにするにはするが、と主イエスはたとえておられます。

その内側は、強欲と放縦すなわち貪欲と無節制、それらで満ちていると主イエスはおっしゃるのですが、それは「見えていない」からだとおっしゃるのです。

26節「ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」

主イエスは、外側からご覧になっておられますが、内側をも見ておられ、そしてまた、内側をご覧になられて外側をも見ておられるのです。

それは、人が見るように見ておられるのですが、同時に、神が見るように見ておられるということです。すなわち、見えないものに目を注ぎ、内なるものを見ておられるということです。そしてまた、一見、離ればなれに見えていることも、根本においてつながっていると言うことができるかもしれません。

ですから、主イエスは「わたしにつながっていなさい」とおっしゃったのであります。

内側には命があって、光があります。

その内側にあるものが外側に溢れでるので、何を思い、何を考えるかを大事に選び、気を配り、感謝と賛美に生きることをお勧めになっておられるのです。

主イエスは「幸いである」ことを願うがゆえに、続けます。27節、28節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」

旧約聖書の民数記には、ここで主イエスがおっしゃっておられる「汚れ(ケガレ)」についての律法が記されていますが、それは、一般的な「汚れ(ヨゴレ)」ていることではなく、ユダヤの律法において規則として「汚れ(ケガレ)」ているということであります。

そして「白く塗った墓」とは、人が誤って律法による汚れに触れて身を汚さないように、人が施したものでありました。そのように、外側を塗って「よし」としても、その内側は偽善と不法、すなわち見せかけと背きで満ちている、その悲しさを主イエスはお語りになります。

さらに29節、30節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。」

主イエスは、かつて正しい方が来られることを預言した預言者たちが、同胞により退けられ続けたことをお語りになられます。

そして、人々の「それは違う」「そんなことはなかったと」言い、粉飾することの危うさを上げられ、人の心を守るように主イエスは警告されるのであります。

31節から33節「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事を仕上げたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を逃れることができようか。」

主イエスは、律法学者たちとファリサイ派の人々が、行なったり言ったりしていることに悪が入り込んでしまっていることに強い警告を発しています。なぜ、主イエスはここまで強い口調でお語りになっておられるのでしょうか。

それは、主イエス・キリストが、愛とゆるしにより、人々を救い、命と光をこの世に現わそうとされるからです。

主イエスは、この地上にて、「悔い改めよ。天の国には近づいた。」とおっしゃって宣べ伝えられました。向きをかえるように、素直な生き方に立ち戻るように、という呼びかけです。この地上で、天の国、すなわち、神の国を自分たちの力と支配のもとに置こうする人々に、救い主イエスは強くおっしゃっておられるのです。天の国、すなわち、神の国は、生ける神との交わりを続けることによって近づくのです。強欲、放縦、偽善、不法ではなく、神との交わり、神の愛とゆるし、その調和から生じるのです。

そのことを破壊し、支配しようとする力に、主イエス・キリストは警告を発し、さらにまた続けて34節から36節「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

主イエスは、旧約聖書に出てくる「悪意」と「敵意」を語り、それは、その時代だけではなく、今の時代にも同じく言えることだと告げられるのです。

主イエス・キリストは、人を救うその御業をなされます。そしてそれは人の内側から始められるのです。その内側、その心は、きれいに。

それは、この世の力と、この世の支配の目から見れば、「貧しい」ものに映り見えるかもしれません。しかしその「貧しさ」が聖なるものであり、清いものであるなら、幸いであるのです。天の国、神の国はその人たちのものであり、その人たちは神の子と呼ばれるからです。心にあるものが、その人を変えるのです。本当のものは隠れたところにあり、心にあります。主イエス・キリストは、マタイを招き、わたしたちを招いてくださいました。

ですから、闇のように暗く、重い、思い込みから抜け出すのです。

内側をきれいに、頭を上げるのです。

光によって溌剌と生きるのです。

よいことを考え、希望を持つのです。

主により、日々新しい自分になれるよう考え方と生き方を、主が光で照らし満たしてくださるように。

今までよりも多くの愛を見出すことができるように。