「神の富と知恵」ローマの信徒への手紙11章25節~36節

「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし神の道を理解し尽くせよう。」

わたしたちの日常生活では、さまざまなわ分からないこと、数多くの理解し得ないことがあります。

今日、わたしたちのもとへ届けられました聖書はローマの信徒への手紙でありますが、この手紙を書いたパウロも、そのような分からない、理解し得ない問題に、ぶつかり、つきあたっていたのでありました。

しかし、パウロは、そのことを避けることなく、そのまま受け止めることと共にそのことの中に入り、希望を見出して行くのであります。

その大きな喜びに至るまで、パウロは苦しみを経験し続けていたのでありました。

キリスト・イエスの福音を宣べ伝えることにより、それに反対する人々が彼を苦しめていたのです。

そしてそれは、パウロと同じユダヤ人からの、同胞によるものであったので、パウロの受ける痛手、それは心も体も、心身共に受ける打撃は大きなものがありました。

ある一つのことでただ意見が合わないということであるならば、何らかの仕方で対話を重ね、よりよい進むべき道へと向かって行くことができるかもしれませんが、事はそう簡単ではなく、厚く硬い壁を前に、どうすることもできない暗く重い気持ちにさえなってしまうことでありました。

パウロは、同胞、同じユダヤの中で受け入れられないという経験を与えられていたのでありました。

声に出さなくても、心では大声を上げて嘆き、涙を流していたのでありました。

しかし、パウロは、そのような只中にあって苦しむことのそのもととなっているとさえ言えるキリスト・イエスと共に在ったのです。

ですからパウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と述べたのです。

ここに苦しむ人がいる、しかしこの人は、苦しみそのものにとどまるのではなく、どこに行くのかをも見ているのであります。

キリスト救い主が現れるのを切に待ち望みながらも、心の目でよく見ようとしているのであります。それは、何をかと言うと、栄光です。「将来わたしたちに現わされるはず」とパウロは言いますが、それを述べている時点で彼は、栄光を見ているのであります。

神がその場におられる、ご一緒してくださり、決して離れない、ひとつである。その栄光を見ているのであります。

すると、現在の苦しみはみるみると消えてなくなり、残ったのは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と御声をかけくださるキリスト・イエスのみ。すなわち、苦しみの中にあっても、栄光が、すべてをとかし、すべてを包み込んでくださるということであります。

いかなるものも、このキリスト・イエスの愛から切り離すことはできないのであります。

パウロは、このキリストと結ばれた者として、真実を語り伝えます。そして、偽りを言いません。

パウロの良い心、良心も、何が善くて何が悪いかも、聖霊によって示されていました。しかし、そうでありながらも、パウロには深い悲しみがあり、その心には絶え間ない痛みがあったのです。

彼を襲っていたのは、悲しみであり、痛みでありました。

なぜそれほどまでにパウロは痛手を負っているのかと言うと、仲間のことであり、同胞のことであったからです。

そして、パウロは同じ時を生きるそのユダヤの同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となっても良いとさえ思っていました。パウロの思いは深かったのです。そして、パウロのその思いが深ければ深いほど、悲しみも大きかったのです。

パウロの、同じ時を生きる同胞への愛は、悲しみとなったのでありました。

神は、キリスト・イエスを通して一日中手を差し伸べていたのにもかかわらず、同胞ユダヤの人々はそれに応えなかっただけでなく、キリスト・イエスを十字架にかけてしまったのでありました。

パウロは、今日のローマの信徒への手紙で「救い」を語ります。

自分こそが正しいことを求めようとして、神の差し伸べる御手に従おうとしなかった人々。それでも、主は生きておられるのです。

主は、今も生きておられ、その場所におられ、生きることを呼びかけておられるのです。

十字架の死より復活させられたキリスト・イエスを、パウロは心に同胞のことで、すなわち、同じ時を生きる人々のことで、悲しみ傷むことがあっても、それは他者だけのことを言っているのではなく、自分自身のことをも含めて、どの年代においても、心にキリスト・イエスを迎え入れるのであります。健康であっても病であっても、このお方を愛するのです。

キリスト・イエスをお与えくださった神は、ご自分の愛する民、愛する人々を退けられることは決してありません。そこで、パウロは隠されていたと思っていたことが、すべての人に明らかにされたことを語ります。

今日の聖書、ローマの信徒への手紙11章25節から27節「兄弟たち、自分を賢いものとうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてある通りです。救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くとき、彼らと結ぶ、わたしの契約である。」

パウロは同胞ユダヤの人々、まさにユダヤをユダヤたらしめる旧約聖書を用いながら、ユダヤの人々に心から伝えようと述べています。

ユダヤの一部の人々が心をかたくなにしているのは、ユダヤではないすべての人々が救いに達するまでであると言うのです。

「イスラエル」というのは旧約聖書に出てくるアブラハム、イサク、ヤコブの神、その神を信じ従った父たちにつながる人々です。

そのイスラエルの人々が、イスラエルとは異なる人々、つまり、異邦人と区別することなどにより「ユダヤ」という呼び名が広まって行くこととなったとも伝えられています。

パウロは、ローマの信徒への手紙で「ユダヤ」と記すよりは、すべての人々の中にあって、「イスラエル人」と同胞への愛を込めて記しています。

「わたしの愛するあなたには約束がある。それは神と結ばれた契約と呼ばれる祝福の約束だ」と言うのです。

「シオン」というのももともとエルサレムのことでありますが、約束の地、天のエルサレムとも言えます。そこより神が来られ、固く重くなった不信心を取り除くであろうというのです。

28節から30節で、パウロは言います。「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐みを受けています。」

パウロは、ローマにいるキリスト者たちに語っています。イスラエル人は、福音から目を向ければ、あなたがたの敵となりますが、神の選びということからすると、先祖と言えるアブラハム、イサク、ヤコブたちのために、神の愛したもう人々であるのです。

この神の恵みの賜物と招きは取り消しがありません。

異邦人と呼ばれる人々は、かつては神に不従順であったけれども、今は、イスラエルの人々の不従順によって、神の憐みを受けているというのです。この神の憐れみは、神の愛とゆるしが明らかに示されるということです。

神から離れていたけれども、神が近づいてくださった、すべてを受け入れてくださったということです。すべての人の、すべてのことを。そのことへ思い到ったパウロは、言い表すことのできない感謝を持って述べます。

33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究めつくし、神の道を理解し尽くせよう。」

苦しみと痛みの中にあっても、神の憐れみは尽きることなくあなたにあります。神は憐みに富んでおられ、神は恵みに富んでおられるからです。その大きさにパウロは圧倒され、ただただ感謝に満たされます。

神の知恵と知識とは、人の知る人知をはるかに超えていますが、この神の知恵と神知識が、わたしたちの魂を慰めます。

神の知恵はいろいろな働きをします。

人と人とを出会わせ、そして、神と人と出会わせ結びます。

その時は分からなくても、やがてわかることがたくさんあり、神の知恵はいろいろな働きとなって現れます。

そして、知恵と知識の宝は、すべてキリスト・イエスの内に隠されています。キリストについて知っているというだけでは決してありません。キリスト・イエスの内に、中に入っていかなければなりません。外から傍観者として見ているというだけでは宝は見つかりません。入って行かなければなりません。

すべては、神の愛につながっているのです。ですから、神の定め、神の裁きはいかに究めがたく、その神の道のいかに理解しがたいものであるかとパウロは言うのです。

34節から36節「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。」

主なる神を測り得るものはいません。主なる神の企てることを知り、主に助言をし、主を理解させ、裁きの道を主に教え、主に知識を与え、英知の道を知らせるものはいません。

主に与え、その報いを受けるのを強いることもできません。すべてのものは神から出て、神によって成り、神に帰するのです。

栄光は、永遠に主なる神のものであります。

主は、あなたの、また、わたしたちの、今、この時を堅く、確かに、支えてくださり、神の知恵と知識は富んでおられて、救いを豊かに与えてくださいます。

主なる神を畏れ敬うことは、この世にあってまさしく宝です。

救い主イエス・キリストにこそ、神の知恵と神の知識はあり、このお方は、あなたの内におられます。