「だから、恐れるな」 マタイによる福音書10章26節~31節

「だから、恐れるな。」と主イエス・キリストはおっしゃいました。

「だから」というのは、その前に述べられた事が、続く後の「恐れるな」と言い得ることの理由ということができます。

今日、わたしたちの開きました聖書、新約聖書の福音書には、父なる神よりこの世に与えられ、送られた主イエス・キリストが人々を招かれたことが記されています。

わたしたちの日常生活では、様々な場面で、ある人がある人を招き、この時この場所でお会いしましょう、お話しいたしましょうということがあるかもしれません。

主イエスは、この地上での歩みの中で様々な、そして、多くの人を招かれましたが、それは、現代のような形式で、招待者、被招待者という関係で、手紙を送ったり、電話をかけたりということではありませんでしたが、それでも、主イエス・キリストは、確かに人々を招かれたのでありました。

福音書では、この地上で、主イエスが初めて人々を招かれたのは、あのご降誕、クリスマスの出来事の中でありました。

家畜小屋の飼い葉桶の中で、主イエスは、羊飼いたちや東方の占星術の学者たちを招かれたと言えます。もちろんその時、主イエスは、人として生まれたばかりの幼な子でしたので、幼な子イエスが誰かに向かって直接話しかけたり、文字を書いたりして人を招くということは当然できませんが、その存在自体が、人々を招いたのでありました。

何も言わなくてもいい、その笑顔が、その泣き声が、そして、ただそこにおられるというその幼子イエスの存在自体が、人々を引き寄せたのでありました。

そしてそれは、人としての主イエスであると共に、救い主としての主イエスの在り方でもありました。

幼子イエスは、やがて成長し成人となられ、「神は我々と共におられる」ということを現されるために、宣教を始められます。

「神の国は近づいた。悔い改めなさい。」とおっしゃって、宣べ伝え始められたのです。

それは、日々の暮らしの中で、光を見、その地に住む者に光が差し込む出来事でありました。人々の心には、光が必要であったからです。人々の心の種が芽を出し成長し、花をつけ、実を結ぶことはできなくなってしまうその暗さと重さの中にあったからです。

しかしそこに、地をあたためる太陽の光のように、人々の心をあたためる光がやって来たのでありました。夜通し、朝の光を待ちわびるかのような冷えた思いにあった人々に、「神はわたしたちと共におられる」そのあたたかさを、お与えになったのでありました。

多くの、そして一人ひとりの人が、主イエスのもとに招かれることとなりましたが、主イエスは、あるとき、弟子たちをお選びになりました。

マタイによる福音書10章1節にはこうあります。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」

ここでは、主イエスから弟子たち12人にお声をかけて、呼び寄せられたとあります。それは目的があり、そのために主イエスから授けられるものがあったからでありました。その目的とは、汚れた霊を追い出し、病をいやすということでありました。

そしてそのことは、汚れた霊に取り憑かれてしまった人にとって、また、病のある人にとって非常に大きな出来事であったのですが、このことは、「神の国が近づいた」ということ「神は我々と共におられる」ということを現すためでありました。

束縛からの解放といやしは、非常に大きな喜びをもたらしましたが、その当事者だけではなく、そのすぐ近くにいた人々、そしてその周辺、さらにその良い知らせを聞いた人々の心に、「神がおられる」という慰めと励ましの風が吹いたのでありました。

主イエス・キリストが、権能をお授けになるその目的は、人々に帰るところを指し示すことでありました。

この世の暗闇の中、罪と滅びの重さから解き放ち、また、重荷を置いて歩き出す、その生きる道をお与えになるために主イエスは権能を弟子たちにお授けになられました。権能とは、主イエスのみ名により、主イエスのみ力により行う力であります。

主イエスは救い主として、「神の国が近づいた」ことをこの地上で広げようと弟子たちを呼び寄せられたのです。

しかしその権能を授けられることになっても、この世ですべてが受け入れられ、迎え入れられるのではありません。また。行うことが受けとめられ、すべてが聞き入れられるのではないことを、主イエスはご存知であられ、拒否や避難、そして迫害さえもあることを主イエスは弟子たちに伝えます。

主イエスは目的をお持ちになっておられ、その持っている権能を弟子たちにお授けになられるのですが、それはまったく合理性に欠けていると言えるかもしれません。そもそも、弟子たちは生まれも育ちも性格も違い、もともとの職業も違っていました。そして何らかの試験を受けて合格し、資格や免許を持っていたわけではないので、この世の道理にかなっているとは言いがたい状態です。

論理的でも、また、能率的でもまったくありません。しかしそこにこそ、主イエスのみ名により、主イエスのみ力が働くのであり、それが救い主キリストのみ旨であるのです。キリストのみ旨は、ただ神の栄光が現されることであり、そこにこそわたしたちの帰るところがあるということを、示すことでありました。

そのために、主イエスは与え、授けられたのでありました。

そしてその与え、授けられたのは、神の愛でありました。この神の愛を受け入れる人は受け入れ、迎え入れる人は迎え入れることとなるのですが、これは正しい、悪いということではありません。神の愛の働きによることだからです。

ですので、与えられれば与えられ、授けられれば授けられ、その風と帰るところに帰るのです。

主イエスは呼び寄せられた弟子たちに、迫害を受けることを予めお告げになられました。この世ではひどい目にあうかもしれないが、逃れの道、逃れの街は用意され、そして、主イエスは「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。」とおっしゃって、「僕がその主人のようであれば、十分である。」というのであります。

主イエスは、その場所では見えないかもしれませんが、ご一緒におられるからです。その主が共におられるのだから、それで十分なのです。

主イエスは、弟子たちを遣わされます。そこで、主イエスがおっしゃったのが、今日の聖書マタイによる福音書10章26節「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからです。」

主イエスは、「恐れてはならない」ことを繰り返しお語りになられます。呼び寄せ招いた弟子たちにこれから起こるであろう困難を、主イエスはお語りになられますが、その中で、覆われていたものが現され、隠されていたものが知らされることになるので、恐れるなとおっしゃっておられるのです。

神の目には全て明らかであるからです。今は、力で、この世の悲しみで、押さえつけられていることもあるかもしれないが、主イエス・キリストは、苦しみを受けられ十字架の死よりその罪の重さを拭い去り、復活によって神の愛に入れてくださるのです。

神の愛とゆるしは隠されたままでいることはできないのです。

どんなに苦しくても、どんなにこの世で寂しくても、このキリストの愛は隠されたままでは決してなく、現わされるのです。

ですから27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。」と主イエスはおっしゃいます。

隠れたところで見ておられる主が、お語りになられ、耳を傾けるのを待っておられます。

小さな声、静かな声であるかもしれません。心に響いてくるそのみ声は、明るい光の中で生きるために語られる言葉です。どこまでも広く、どこまでも長く、どこまでも深く、歩んで行ける言葉ですですから、言い広めることができ、人々の一人ひとりの魂へと届き、つなぐことができるのです。

28節、主イエスはおっしゃいます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

主イエス・キリストは、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。わたしたちが、この地上で恐れるものは、わたしたちの魂をどうすることもできません。しかし神は、わたしたちの魂をお造りになられたお方であるので、このお方こそ、恐れなさいと主イエスはおっしゃいます。

なにを恐れ、なにを恐れないのか、そのことが入り乱れることにより、神の家に帰る道を見失いそうになります。しかし、主イエス・キリストのみ名とみ力により、信頼しきって真心から神に近づくのであります。主イエスは、そのことを勧めておられるのです。

そして、本当に恐るべきものを恐れる時、恐れはなくなるのを知るのです。

主イエスは、呼び寄せられた弟子たちに、荒れ野へと入り、心配と不安が襲う時、どのように歩むべきかをお教えになられます。そしてさらに、主イエスは励まされるのです。

29節、30節「二羽の雀一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父の許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」

二羽の雀が安く売られている。それは貨幣の価値としては小さいかもしれません。しかし、その中の一羽さえ、父なる神の許しがなければ地に落ちることはないと主イエスはおっしゃって、すべては父なる神の中にあるというのです。

「地に落ちる」というのは「地に降りる」と言うこともできるでありましょう。

小さな小鳥でも、神の中にあるのです。それは、人の「髪の毛までも一本残らず数えられている」という細やかさにまで及んでいるのです。

とても小さなものにも目を向けていてくださる神は、わたしたちの生きるそのすべての場面におられます。わたしたちの見るもの、聞くもの、触れるもの、そのすべての時々に、神は共におられます。

主イエスは、この世と同じ目で見ておられるのではありません。この世と同じ目のみで見てみているならば、どうしても恐れはやって来ます。この世の目は恐れに基づいていているからです。しかし、神の目は慈しみの目であり、すべてを支えておられます。

「だから」なのです。

31節「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

主イエス・キリストは、「恐れるな」という励ましの言葉を、呼び寄せ招いた者たちにくり返し語ります。それは、心萎えて、心挫けてしまわないように、という神の心配りの言葉であり、命の言葉です。

すべてを造られた創造主なる神が、この時、わたしたちを導かれておられるのです。

その音にならない音、言葉にならない言葉に、耳を傾けるのです。

わたしたちはこのお方の送られる風に乗って導かれて、行くべきところへ招かれているのです。

主がおられます。

だから、恐れるな。