「本国は天にあり」 フィリピの信徒への手紙3章12節~21節

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています。」

今日、わたしたちは合同追悼記念礼拝をおささげるするためにそれぞれの所から導かれて集ってまいりました。

かつてこの地上にて共に歩んだ敬愛する方々を偲び、哀悼の誠をささげ、そして今ともに主なる神に向かって礼拝をささげいたします。

父、母がおられ、夫妻がおられ、兄妹姉妹がおられ、また、恩師がおられ、先輩後輩そして友がおられます。親しく共にあったことを思いつつ、わたしたちのこの思いを今、主なる神御前におささげいたします。

福音書によると、主なる神は、ひとりの人から一人ひとりを造り出され、この地の上に住まわせ、季節を決められ、わたしたちの住むところの境をお決めになられました。これは、わたしたちに神を求めさせるためであり、見い出すことができるようにということであり、何よりも神は、わたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられないのです。わたしたちは神の中に生き、動き、存在しているのです。わたしたちは、神の子孫である、と今日この合同追悼記念礼拝に開きました聖書フィリピの信徒への手紙の著者であるパウロは言いました。

パウロと親しい交わりにあったフィリピの教会の人々、また、フィリピの人々と親しく交わる交わりに生きたパウロは、「わたしの兄弟たち」と呼びかけ「主において喜びなさい」とこの手紙で、繰り返し語りかけています。「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」そして、「あなた方も喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。しかし、その喜びはどこから来るのかと言うと、悲しみを乗り越えたところから生まれ流れ出てくる喜びでありました。

人の悲しみに憐れみ豊かな神は、わたしたちの救いのためにキリスト・イエスを与えくださいました。わたしたちが、読み、聴き、キリストが与えられ、このお方はわたしたちと一緒に歩んでくださっておられます。

福音書にある通り、キリスト・イエスは人の罪の赦しのため苦しみを受けられ、十字架の死にかけられますが、死に勝利し復活させられます。

パウロは、このキリスト・イエスを与えられキリストのうちにいる者と認められたいと切に願っていました。パウロは述べます。「わたしは、キリストとその復活の力と知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

パウロは、一人で何とかしようとしているのではありませんでした。自分の力でどうにかしようとも考えていません。

悲しみを深く静かに受け止めてくださるキリスト・イエスに留まっていたいと望んだのです。

悲しみと苦しみの中にあった十字架の死からよみがえらされたキリストの復活の力をパウロは知ったのです。

そしてそれは、どのようにしてかと言うと、キリストの苦しみにあずかり、キリストの死の姿にあやかりながらでありました。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とパウロは言います。

達したいという目標を目指していたパウロは、今日の合同追悼記念礼拝の聖書、フィリピの信徒への手紙3章12節でこう述べています。「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと務めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえれているからです。」

もうすでに到達しているのでも、完全なものとなっているのでも決してありません。パウロは、前に向かって行くのをやめようとはしませんでした。

たとえ暗く黒い煙に覆われていても前へと向かい、何とかして捕らえようと務めているのです。

それはなぜかと言うと、パウロ自身がキリストイエスに捕らえられていたからであります。

そのようにキリスト・イエスは、ひとりの人に寄り添い、また、追い迫り、捕らえるのであります。それは昔も今も変わりません。

13、14節「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

パウロは、自分のことをもうすでに捕らえてしまった者だとは思っていませんでした。ということは、彼の手の中は空っぽであって満たされていない、何もないということでありますが、そのパウロをキリストが捕らえてくださっているのです。そのことに基づいて、パウロはただ一つのことが非常に大切であるというのです。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けるということであります。

これまで走って来たことを振り返ることもせず、前にあるものに向かって行くということです。

後ろのものと前のもの、とパウロは言います。そして、その間で、その真ん中に自分がいます。その自分は、自分できっぱりと決める決断する者ではなく、決断された者として立てられているのです。

キリスト・イエスが「あなたを救う」と決断されたのです。それがキリストに捕らえられた者であります。神が召してくださるのです。神がキリスト・イエスによって上へ、天へ、召してくださるのです。

この地上では失い、また、亡くなってしまったと嘆きの中に言うことが出来るかもしれません。しかし神は、召してくださるのです。それは、上であり、天であり、涙とともに永遠の命へ、であります。

そしてパウロは、キリスト・イエスと共にあって、上で与えられる賞を得るために目標を目指してひたすら走ったのでありました。この人生はキリストから生じる希望によって生かされていたのでありました。

「だから」とパウロは言います。15節、16節「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」

この世で試練に遭い、苦しみと悲しみの夜を通り抜けてきた者、成熟し、成人となった者としてよくよく考え十分に思い巡らすのです。

神はその思いと考えとを導いてくださいます。そして大切なことを、大切な時に、一つ一つ当てはめていくかのように教え示し運んでくださるのです。

ですから、わたしたちは上を、また、天を目指し、目を覚まし、栄光を目指してその帰りの道を進むべきである、と言うのです。パウロは「進むべきです」「進みましょう」と呼びかけていますが、それはかつて語られたこと、また、やがて語られることではなく、今、語られていることであり、上を目指し、天を目指し、そして今、天にある方々と共に進むのであります。

17節「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じようにわたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」

パウロは、親しく交わる交わりの人々に「兄弟たち」と呼びかけます。

パウロは、兄妹姉妹たちに大胆にも「わたしに倣う者となりなさい」と言うのです。パウロは、「つき従って来なさい」と勧めるのでありますが、それはパウロ自身にということではなく、パウロを生かし、動かし、存在させておられるキリストにならい、つき従って行くようにということであります。

そしてその道は、キリストが助けてくださる道であり、キリストが支えてくださる道であり、キリスト・イエスの勝利の道であります。ですからパウロは、キリストと共に歩んでいる人々に目を向け、キリストの愛を分かち合いつつ進みなさいと呼びかけるのであります。

しかしながら、この世での歩みは複雑で困難の多いことをパウロはよく知っていました。

ですので、18節「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」

パウロは、キリストの十字架を語ります。ただの十字架というのではなく、キリストの十字架であり、このキリストの十字架は、わたしたちに語っています。そしてその十字架の言葉は神の力であり、この神の力は、わたしたちを救います。

キリスト・イエスが苦しみを受けられ、死につかれたことにより、わたしたちは悲しみと嘆きを拭われ、そしてキリスト・イエスが復活させられたことにより、わたしたちに悲しみではなく、神からの神の愛が与えられたのです。神の愛はどこにあってもわたしたちを必ず救います。

この神の力がパウロを生かし、どこまでも導かれたのでありました。

しかし、キリストの十字架に敵対する彼らは、とパウロは19節で述べます。「彼らの行くと行き着くところは滅びです。彼らは腹をとし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」

それにもかかわらず、パウロはこの世において神の愛に包まれ、確信していたのです。

滅びの道ではなく、希望の道を見上げ見つめていたのであります。

わたしたちの敬愛する先達の兄妹姉妹方々も、キリスト・イエスにより、この神の愛に包まれたのでありました。そして、故郷があることを、また故郷を探し求めていることを知ったのです。

パウロは言います。20節、21節「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

わたしたちの国籍は天にあります。天の市民権を得ているのです。本国の市民権ということは法的にも、神から全く受け入れられているということです。

この世で、この世のことを終えて、天に召され帰る時、神によりキリスト・イエスが光の中に出迎えてくださるのであります。

そしてその時には、人生のあの時この時に「あなたはよく読み取ってくれた」また、「生涯のあの時この時にあなたはよくわたしの言葉を聴き取ってくれた」とおっしゃってくださるのです。

それに合わせて本国では、主の御声と共に、迎え入れる実に多くの方々の愛の声が上がっていることでありましょう。本国であるからです。

この地上では悲しみと痛み、そして涙があるかもしれません。しかし、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスと共にひたすら進むのであります。

また会う日まで

神ともにいまして

行く道を守り

あめのみ糧もて

力を与えませ

キリストは、そのみ力により、わたしたちをご自分の栄光ある体と同じ形へと一変させてくださいます。

わたしたちは、主イエス・キリストが来られるのを待っているのです。

今日、この合同追悼記念礼拝において、おささげするわたしたちの祈り願いを、主がすでにお受け止めくださって、魂に慰めをお与えくださり祝福してくださいますように。

この世において、また、この地上にあって、「わたしたちの本国は天にあります」。