「神に喜ばれる者でありたい」 コリントの信徒への手紙二5章1節~10節

「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」

台風と前線の影響により雨の日が続きます。秋の季節も深まりつつあるこの時、日が沈むのも早く感じられます。澄みわたる晴れた夕方、あかあかと日が落ちていくその状況に深く心を動かされることがあるかもしれません。

今日、わたしたちの開きました聖書コリントの信徒への手紙を書き記したパウロも、その置かれたところで心動かされていたのでありました。

パウロはある時、キリスト・イエスに呼びかけられ、それまでの歩みをまったく変えキリスト・イエスを宣べ伝える者となりました。パウロを呼び止めたのは、十字架の死より復活させられたキリスト・イエスでありました。死と滅びに勝利されたキリスト・イエスが、パウロをとられたのでありました。

そしてそのパウロの心を動かしたのでありました。無理に強いられてそれまでの考えを改めさせられたのでも、人に教えられたのでもありません。復活の主キリスト・イエスが、近づいて来られ、その愛と寛容を受け、深い感謝の念に打たれたのでありました。パウロは、生きておられるキリスト・イエスに出会い、その人生が徐々に変えられていくこととなるのですが、それはこの感謝の念の大きさによると言えます。

それはかつて、自分自身の力を大いにふるい「正義」を造り上げようというパウロに、まったき愛とゆるしが圧倒的に迫ったからでありました。

そして他のものとはかけ離れた愛とゆるしの大きさに、パウロは使徒とされ、キリスト・イエスを宣べ伝え、人々をこのお方のもとへ導くこととなりますが、この感謝の念に打たれたことから生まれる責任感、責任を重んじそれを果たそうとする思いがパウロを動かします。

キリスト・イエスよりお受けし、促されるつとめを全うしようとパウロは力を尽くします。しかし、パウロはその感謝の念と責任感を原動力に行えば行うほどキリスト・イエスに反対、敵対する人々から苦難を受けることになります。大騒乱が起きて、それに巻き込まれることもありますし、もう少しで命を落とすところであったということもありました。

そのような出来事の中にありながらも、パウロは今日のコリントの信徒への手紙二1章4節から7節でこう述べます。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなた方の慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなた方の慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについて、わたしたちが抱いている希望は、揺るぎません。なぜなら、あなた方が苦しみを共にしていると、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」

この手紙は、紀元一世紀当時パウロからコリントに住むキリスト者たちに向けて書かれたものですが、今のわたしたちにも語りかけています。「神は、わたしたちを慰めてくださる」。慰めるとは、冷えたわたしたちの心をあたため、心に平安をお与えくださるということです。しかも、ありとあらゆる、すべての苦難の中にいる時にも、です。

そしてそれは、キリスト・イエスの苦しみが満ちあふれて、わたしたちに及んでいるからなのです。

ここにわたしたちの慰めと救いとはあり、パウロは「希望を抱いている」と述べます。

パウロとコリントのキリスト者たち、また、今のわたしたちとの関係は、苦しみと慰めをキリスト・イエスと共にしているということにあります。

そしてこの信仰に生きることを4章16節、17節でパウロは語ります。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

落胆というのは、失望し、力を落とすことでありますが、パウロは、キリスト・イエスにあって「わたしたちは落胆しない」と言います。

日々新たにされていくのは、キリスト・イエスと共にあるからです。

そして、日々新しくされるということは「外なる人」すなわちこの地上の人生ではなく、「内なる人」天の上、天の人生に力が増し加えられてくるということであり、わたしたちのに、驚くべきほどの素晴らしい永遠の重みを生じさせてくださるのです。

見えるものは一時的であり過ぎ去りますが、見えないものは永遠です。

そして今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙二5章1節でパウロはこう述べます。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」

パウロは、使徒として地中海世界各地にキリスト・イエスを宣べ伝えていましたが、同時に、天幕づくりの職人をしながら宣教活動を行っていました。

当時のユダヤのファリサイ派の人々は、職業を持っていて、おそらくパウロは父親から天幕づくりを習ったのでは、と云われています。

そのパウロが「地上の住みかである幕屋が滅びても」と言うのです。それは、パウロのこの地上での職業経験、人生経験から、見えるものは変わって行き、過ぎ去って行くことを思い知った上で述べていると言えます。

この地上の幕屋は壊れてしまう、しかし、滅びても、神によって神からいただく建物が備えられ与えられていると言うのです。それは、人の手によってつくられたのではない、天の永遠の住みかです。

パウロはこの地上に生きる者として、「この時この場」で語ります。

「天にある永遠の住みか」です。そのことをわたしたちは知っていると言うのです。

そしてパウロは2節から4節で、続けて言います。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

パウロは「上に着たい」と言っています。今、着ているものをそのままに、その「上に重ねてい着たい」と切に望み述べているのです。

しかし、この地上の幕屋にあって、うめいているのです。

それでも、神はキリスト・イエスにより、着せてくださいます。

この地上の幕屋に住み生きるわたしたちは、苦しみ、悲しみ、不安の中にあって重荷を負いうめいているかもしれませんが、この地上では、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃるキリスト・イエスがおられます。

パウロはキリスト・イエスと共にあって地上の住みかにいます。そしてそれを脱ごうとは願っていません。パウロが上に着たいと切に願っているのは、「死ぬべきものが命に飲み込まれてしまうために」です。

天から与えられる住みかを上に着るのです。そのことにより、恐れを乗り越えるのです。

5節「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは神です。神は、その保証として、“霊”を与えてくださったのです」とパウロは言います。

苦難の中にあり恐れを抱き、また恐れにしがみつく人々にパウロは言うのです。

神は、天にある永遠の住みかをこの地においてお与えくださり、その保証として、聖霊をわたしたちにお与えになられたとパウロは述べ、わたしたちをそれにふさわしい、このことに適う者として、神はご準備くださったと言うのです。わたしたちはこの神が準備してくださっているその護りの中にいるのです。

それで6節から8節「わたしたちは、いつも心強いのですが、体を住処としているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」

パウロは「いつも」と言います。いつも安心して、信頼し、心強い、と言うのです。備えていてくださる主なる神の見えざる御手の中に在って。

この地上では、この体を住みかとしている間は制限も多く「主から離れていることも知っています」とパウロは言います。

というのは、わたしたちは直接見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

わたしたちは、主なる神をあるがままに見ていません。信仰によって歩いているのです。信仰は、人間の理解力を超え、秘められ、隠されているものを感じ取ることができます。

そしてまた、信仰はまだ現わされていない来るべきものにも及んで行きます。

ですから、希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じるのです。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。

目に見えないものを待ち望むのです。

パウロは主にあって、心強い、安心だと言います。ですが、体を離れて主のもとに住みたいとも思っているのです。

それは、キリスト・イエスの苦難と十字架の死、そして復活によって、神から離れている罪をゆるされ、死と滅びに打ち勝ったその力のもとにあるからです。

パウロの「内なる人」は日々新たに力を増し加えられて行きます。

その力により彼は、どこか楽しげであり、朗らかでもあり、穏やかでもありました。

そして、パウロは自分自身のために死ぬことよりも、キリスト・イエスの栄光のために生きることに向かったのです。

ですから、9節、10節でパウロは言います。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならないからです。」

パウロは心から願いました。

主のみ前にいるにせよ、いないにせよ、主に喜ばれる者となることをです。

そして忘れてはならないのは、キリストの御前に立つということであります。わたしたちは、この世にあっては異邦人であり、しばらくの間、滞在する者です。そして、この世の道を辿り、走り終え、キリストのみもとへ帰るのであります。

今は多くのものが闇の中に隠されて見えないかもしれません。

しかしその時が来れば、わたしたちは光のうちへつくり出されるのであり、その時には、すべて神の恵みのうちに受け入れられます。

そして、永遠の命を価なしに与えられるのです。

ですからひたすら主に喜ばれる者となることが、わたしたちの心からの願いなのです。