「与えられた祝福」 ガラテヤの信徒への手紙3章7節~14節

今日、わたしたちの開きました聖書は「祝福」について語っています。

新約聖書のガラテヤの信徒への手紙は、使徒パウロが紀元一世紀当時、小アジアのガラテヤ地方の諸教会に送った手紙であります。この手紙は、パウロによって宣べ伝えられたキリスト・イエスの良い知らせである福音を、受けとめ受け入れたキリスト者たちに向けて著された手紙であります。

そしてこの手紙が、今のわたしたちに語りかけている大切なこととは、「中心点」であります。右に左に、またこの世の大きな波、強い波に揺れ動かされ、その中で大切なことを見失ってしまい、何かかわりのものでおさえ、また隠そうとする、そのようなところから中心点に立ち戻るということをパウロは語り伝えています。

ガラテヤの信徒への手紙の初めでパウロは、自分自身について自己紹介を記しているのですが、そこにはこうあります。

1章の1節です。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とあります。ここにパウロ自身のすべてがかかっていると言うことができるでありましょう。

先ほどの「中心点」となるものについてパウロはここで明言しています。「中心」という言葉の一般的な意味は「すべてがそこに集まりそこから出るというような働きをする所。その位置。」と言われています。そのことからするとパウロは、先ず「そうではない」ということから記して「人々からでもなく、人を通してでもなく」と述べています。

では何からなのか、何がパウロを動かし、パウロを生かしているのか、と言うその源となるもの中心となるものを指し示して行くのです。

人々の中にあって、人と人との間にあって、中心となるのはキリスト・イエスであるということであります。

キリストというのは、救い主、すなわち救い主であるイエスと、その主イエスを十字架の死から復活させた父なる神によって、とパウロは言います。

パウロはユダヤ人でありますが、同じユダヤの人々が十字架刑にかけられかけてしまった 主イエスが、わたしたちの救い主だと言っているのです。

当時の宗教的指導者たちが人々を煽り立てて主イエスを十字架の死へと追いやってしまったのです。

しかし、このキリスト・イエスの十字架の死は、人々の罪の赦しのためにであり、キリスト・イエスは、人々の身代わりとなってくださったのでありました。

それは、この世の悲惨、表面には見えなくとも、その内面では悲しく痛ましいその人の罪をキリスト・イエスは、十字架にかかられることにより拭い去ってくださったのです。

人々にはできない救いを、救いの主イエスは成し遂げられ、父なる神はこのキリスト・イエスを復活させ、その大いなる神の愛を現したのでありました。

パウロが「人々からでもなく、人を通してでもなく」と言うのは、このお方こそが、キリスト・イエスこそが、わたしたちの救い主だということを強調してのことです。

そして、このよい知らせを宣べ伝える使徒されたのは、キリスト・イエスと父なる神であることをパウロはまず第一に掲げるのであります。

自分の中心点となるものが見えはっきりわかるとそこに与えられているものの大切さがわかりそこから動き出すことができるのです。この中心点は、永遠であるので、静かにとまっているかのようでありますが、今も生きておられます。

パウロは、わたしたちの恵みと平和がこのお方から来るのを知りました。

そしてこのキリストは、と1章4節でパウロは述べています。「キリストは、わたしたちの神であり、父であるお方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとしてご自身を、わたしたちの罪のために献げてくださったのです。」

キリストは、神の御心に従っているということ、そして、その行おうと目指しておられることは何かというと、この悪の世から、わたしたちを救い出すことであります。

「悪の世」という言葉にわたしたちは意識過剰になってしまうことに注意しなければなりませんが、パウロの述べることを心に留めることはこの世で必要であると言えます。それが救い主の御心であるからです。

パウロが今日、わたしたちの開いたガラテヤの信徒への手紙を書き記したのは、その救い主、キリストの御心から離れつつあった人々がガラテヤ地方の諸教会にあったからでもありました。

パウロは、1章の6節、7節でこのように述べています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音と言っても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのにすぎないのです。」

パウロは、福音とは一つであることをここで語っていると言えますが、この福音は、よろこびのよい知らせであり、人々の罪を赦し、神の愛を満たしてくださるキリスト・イエスのよい知らせであります。

しかし、ガラテヤの諸教会には、人々から、そして人を通して、よろびのよい知らせを覆そうという力が働いたのでありました。

そしてその力とは、律法を中心とし、律法を主義とする人々の力でありました。そこでパウロは、真のよろこびと神の愛を覆い隠すこの世の力ではなく、キリスト・イエスを信じる信仰を語るのです。

今日の聖書ガラテヤの信徒への手紙3章は、「律法によるか、信仰によるか」と小見出しが付されておりますが、この3章5節、6節で、パウロはこう記しています。「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われている通りです。」

パウロは言います。人が律法を行ったからか、それとも福音を信じたからか、行いによるのか、それとも信仰によるのか。

わたしたちがこの世を生きる時、どちらも切り離すことはできません。

しかし、聖書は「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と語ります。

「義と認められた」というのは正しい者と受けとめられたということです。そしてまた「安心しなさい。」「大丈夫だから。」ということです。

信じる信仰によって、神に認められるのです。「だから」とガラテヤの信徒への手紙3章7節にはあります。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

パウロは、わたしたちの目をアブラハムに向けさせます。

そしてアブラハムの目は、神によって夜空へと向けられます。主なる神はある時、アブラハムを外に連れ出されておっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」夜空には満天の星々が輝いていました。「あなたの子孫はこのようになる」。主なる神はそうおっしゃいました。そして、その通りになりました。

アブラハムは主を信じたのです。その信じるアブラハムを神は義と認められたのです。

パウロは、信じることによって義と認められたアブラハム、そしてその子孫について語ります。その子孫とは信仰の父といわれるアブラハムの子孫ということでありますが、それは多くの土地へと広がって数え切れないほどになったのです。

そして、今、わたしたちも、主イエス・キリストによって、主を信じることによって、その子孫となっているというのであります。

そのことを十分によく知り、よく判断してふるまいなさいとパウロは言うのです。

信仰によって生きる人々、それはあの信仰の父といわれるアブラハムの判断とふるまいにならう者たちということです。

そして、その信仰によるふるまいについて「聖書は」とパウロは記します。8節、9節「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は信仰の人アブラハムと共に祝福されます。」

聖書は、信仰によって救われることを告げています。それはアブラハムと主なる神との出来事が記されている通りです。そして、その同じ信仰によってアブラハムと共にわたしたちは祝福されるのであります。

「今日、救いがこの場所を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」と主イエスはある時、人々の間で自分を否定して生きている人におっしゃったのです。それは、自分を否定するその人が心を開いた時でありました。そして、失われた自分が真の自分に立ち戻ったのです。

信仰によって生きる人々は、主に祝福され、神の恵みの中にあります。しかし、10節、11節「律法の実行に頼るものは誰でも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている。』と書いてあるからです。律法によっては誰も神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しいものは信仰によって生きる』からです。」

パウロは、旧約聖書の申命記に記されている律法を取り上げ、その「すべての事を絶えず守らない者は皆呪われている」と言います。

律法は、何が罪であるのかを示すことであり、その本質は愛でありますが、律法の言葉を表面的に守るだけになってしまうところに悪が入り込んでくると言えます。

悪であるサタンは、「訴える者」と呼ばれる者であり、人々を告発し、呪いの下に置こうとします。そのように律法の言葉を人々の支配のために用い罪へと人々を誘います。

12節「律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです。」

しかし、正しい者は、主を信じる信仰によって生きるのです。そしてその信仰は、神から与えられる恵みです。

神が、あなたのために、また、わたしたちのために用意された信仰は、この世の人生のさまざまな場面において用いることができ、生かされ、神の愛が現されます。

信仰は、わたしたちを呪いから守ります。神の愛が、わたしたちを捕らえ離さないからです。

そのために13節、14節「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」

キリスト・イエスは、わたしたちのために十字架におかかりになり、呪いから贖い出してくださいました。

身代わりとなってくださったのです。

すべては、わたしたちの救いのためにであり、キリスト負ってくださった傷により、わたしたちは癒されたのです。

主から与えられた信仰により、わたしたちは歩み、生きるのです。

信仰により生きるとき、神の恵みはなくなることがありません。

神の恵みがひとつまたひとつと加えられて行き、それは主より与えられた祝福であることがわかります。

神の恵みが止んで消え失せてしまうのでは、と恐れることはありません。失敗を恐れることはありません。そのことよりそのことによりひどい扱いを受けるのでは、と恐れおののくことも必要ありません。

神が、信仰によりアブラハムの子孫としてくださっておられるからです。

信仰の父アブラハムの子であるということは、神の愛と赦しがいつまでも続くということであり、約束された聖霊が与えられたことにより、神の祝福は決して尽きることがないのです。

この与えられた祝福をわたしたちはよろこび、こうして分かち合いながら生きるのです。